劇団花吹雪 小春かおり・讃

芝居『残菊物語』、2019年7月24日、浪速クラブ

 

おそらく今回の上演意図は身分違いの恋物語を通して男の芸の成長と成功を陰で支える健気な女の姿を浮き彫りにすることだと思われる。日本的感性では幕が女の死で閉じられることで物語は女を描く哀歌というか挽歌だと信じられている。この設定に従うと原作小説(村松梢風、1938年)や翻案物(劇作家巌谷慎一による新派劇・1937年、映画監督溝口健二・1939年など)と同様男が主役で女は脇役という位置づけになる。観客、とりわけ女性観客たちの涙目から判断してその意図は達成された。題名どおり(盛りの季節をすぎた時期外れの残り花)「残菊」女を描く悲劇という定説は根強い。

 

しかし個人的な印象にしか過ぎないかもしれないが、菊之助役の座長桜京之介を相手に小春かおりが演じた「お徳」こそが主役だと思えてならない。小春かおりの役者魂が無意識のうちに女としての<意地>、いや<一人の人間としての意地>を発揮して凛としたお徳の生きざまを描き出したと信じたい。断片的に知れるお徳の恵まれない過去はけっして彼女をいじけさせなかった。それどころか不幸せな境遇が一見哀れっぽい女を人間としての誇りを失わない芯の強い存在に鍛え上げたと言えるだろう。そういう人物像を小春かおりが舞台に創造したと思う。

 

小春かおりは役者の子として生まれたらしいが、興行主や座長の家柄ではなさそうだ。縁あって両親共々劇団花吹雪に入団したと聞いたことがある。絶えず脚光を浴びる花形的な存在ではなく一介の座員という地味な立ち位置にとどまってきたようだ。それでも普段芝居では脇役として渋く光っていたし、舞踊も芸達者だ。

 

私個人の印象ではあるが、とにかく小春かおりの「お徳」は斬新だという気がする。斬新だという根拠は今回の「お徳」が原作や翻案物の趣旨を逸脱している点にある。この場合逸脱というよりというより一切言挙げせずに黙って耐える女という定説化した人物像がもたらす束縛から自由になったというべきか。その結果従来表面化しなかった芯の強い女としてのお徳の姿が浮き上がる。

 

<意地>といい<芯の強さ>といいお徳には不似合いな評価かもしれない。実際、世間では原作と翻案とを問わず『残菊物語』といえば、自分のことはたえず控えめにして男に尽くす健気な女を描く作品だと見る傾向がある。だが私には小春かおりがそれとは異質のお徳、自分の信念を静かに主張する女を打ち出したと思えてならない。小春かおり本人がそのことを自覚していたかどうかはわからない。しかしこの女優のこれまでの生きざまがいわば自己主張したと思える。

 

ちなみに、お徳が男にとって都合のいい「尽くす女」だとする常識にすでに四十年前に反旗を翻した人がいる。映画評論家佐藤忠男である。佐藤が注目したのは溝口による1939年映画版(主演・花柳章太郎 / 森赫子、脚本担当・依田義賢)でお徳が不甲斐ない菊之助を親の家に追い返してやったと啖呵を切る場面である。養父である五代目菊五郎によって菊之助との仲を裂かれたお徳が以前二人で暮らした裏長屋を再訪する。すると顔見知りの娘になぜ二人で連れ立って来ないのかと問われて慎ましやかなお徳の口から意外に激しい言葉が出てきたのだ(佐藤忠男溝口健二の世界』1982年筑摩書房145-148頁)。

 

こういう場面は原作小説にはないが、社会の矛盾や抑圧に敏感な溝口がお徳にそう言わせたのだろう。佐藤によると「溝口が、愛ではなく意地を描くのだということに、どの程度、意識的であったかはよくわからない。ただ、「残菊物語」は舞台化され、他のスタッフ、キャストによる再映画化もされているが、私の知るかぎり、いずれも愛の哀話の域を出ない。ただ、溝口の「残菊物語」だけが意地の激しさに輝いているのである」(147-148頁)。

 

だが、この場面だけで溝口がお徳の人物像に新たな発見をしたとは言いにくいような気がする。というのも映画化されたお徳の全体像は現代から見るとやはり明治時代の旧弊な女性像と思えるからだ。

 

溝口の映画と今回の劇団花吹雪の芝居を比較してみると全編を通して女の意地(人間の意地というべきか)を打ち出したのは溝口が配役した 森赫子ではなく「小春かおり」ではないだろうか。劇団の一座員たる彼女に大役を振った座長桜春之丞と桜京之介の懐の大きさに感心するばかりだ。

 

今回の舞台構成にひとつ注文をつけるとすると、臨終の床にいるお徳の背景に若き名優に成長した菊之助の口上挨拶を置くのはお手軽すぎないか。これではお徳の強い意志に支えられた献身があってこそ菊之助の成功が成立つことが曖昧になってしまう。やはり(お徳の死後やがて菊之助も夭逝する場面で幕を閉じる原作小説とは違って)溝口の独自のアイデアで結末におかれた「船乗り込み」とお徳の臨終とを二重写しにすべきだ。この作品の男の成功は何よりもまず女の成功なのだから。

 

溝口監督『残菊物語』(1939年)はネットで全編視聴できる。

笑いの喚起力で京都茂山狂言は東京勢(マンサイ様)に負けません!

西宮能楽堂主催公演「笑いの原点」

2019年05月11日(土) 西宮能楽堂(阪神電車鳴尾駅南)

演目:

■「解説・狂言ワークショップ」 島田洋海

狂言「昆布売」 演者:茂山あきら、松本薫  

後見:増田浩紀

狂言「察化」 演者:茂山千三郎、丸石やすし、島田洋海  

後見:増田浩紀

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茂山狂言のお弟子さんたちが活躍する舞台を見たいという願いがようやくかなった。 毎年数回京都府立文化芸術会館で若手お弟子さんの独自公演があるのだけど公演時間とかアクセスのことがあってまだ一度も感激せず仕舞い。

 

島田洋海さんは狂言技も優れているし、トークもおもしろい。話の展開が滑らかだ。また聞きたい。京都府立文化芸術会館に行くしかないな。

 

今日の公演は2本とも茂山あきらさんと茂山千三郎さんというベテランが出ていて舞台を盛り上げたが、今回印象づけられたのは(多分)先代(四世)千作さん(1919-2013年)のお弟子さんだったと思われる松本薫さん、丸石やすしさんそして島田洋海さんの の芸の達成度が狂言師代々の家の面々に引けを取らないと気づいた。これは何も本家をないがしろにしているわけではない。そう感じさせるほど狂言師としての存在感が強かったのである。

 

とりわけ丸石やすしさんのの詐欺師(室町時代の呼称は<察化>とか<すっぱ>)ぶりは人のよさとずる賢さが絶妙に混じり合っていて見るものを楽しませる。

 

ちなみに2017年5月に姫路城薪能では五世千作さん演じる察化を見たが、細かい演技がお得意な千作さんのずる賢さ、人の悪さを表現する芸にも感心させられた。丸石さんも千作さんもそれぞれの持ち味を生かした人物造形がお見事だ。

 

最後に是非とも言いたいのは増田浩紀さんは後見として出演されたので声と動きのある舞台姿を見れずにいて大変残念だった。次の機会に期待しよう。

劇団あやめの工夫:舞台と観客の距離を縮める

大衆演劇の「お花(祝儀)」

2019年5月、元号も改まって劇団あやめ公演初日。

先月九条笑楽座での千穐楽が大いに盛り上がったので尼崎三和劇場に公演場所をあらためても大入りだろうと予想。実際人気は衰えなかったどころか満席だった。

 

劇団一小柄な劇団マスコット「ひよこ」さんが鏡獅子のクライマックス「毛振り」を披露。歌舞伎役者に引けをとらない勇壮な獅子の毛振りでありました。ひよこさんが得意とする<小>を<大>に見せる逆転わざが堪能できてよかった。だけど、歌舞伎役者も述懐していたのを聞いたことがあるが、脳震盪を起こしそうになるとか。ひよこさん無理せんといてほしい。

 

さてこの劇団で注目すべきは観客がお花をつけやすい工夫をしていることだ。千円単位で個々の役者さんに対してご祝儀をつけることができる。ドル紙幣か何かを4倍くらいに拡大した物が1枚千円。他にも一つ2千円、3千円の花飾りがある。役者さんはあとで換金できる仕組み。

 

劇団のアナウンスによると「エンブリー」と聞こえる。だけどエンブリーって芳香剤と柔軟剤入りの洗剤のことだけどな。ひよっとしてエンブレムemblem(ブレザーにつけるこってり刺繍のワッペンとか高級車のおしゃれな紋章などある種の権威の象徴)がなまってエンブリーになったのかな。

 

2度目の劇場訪問では「エンプリー」と聞こえた。でも意味わからん。座員さんに尋ねるしかないか。

 

以前別の劇団でも(ハワイ島特有の)「レイ」もどきの一つ千円のお花を見たことがあるので劇団あやめ独自ではないだろう。3、4年前だが、この時は(いや最近まで)お花は5千円単位か1万円単位と思い込んでいたので千円がみすぼらしく思えてしまった記憶がある。

 

しかし考えてみれば5千円って結構大きな出費だ。それが千円単位となれば大分気安くお花をつけられるように思う。

 

とはいえ劇団あやめのように座長はじめ幹部座員にだけ応援の気持ちを表すのではなく6人全員にお花をつけたいと思うとこれまた結構な額になってしまう。となるとその時の懐具合に応じて慎ましく舞台芸を楽しませていただいた謝意を表すしかないかな。

座長姫猿之助「劇団あやめ」ー 客を楽しませることに徹するという大衆演劇の本筋をわきまえている

大衆演劇のはるかな祖先の息吹を感じさせる>

2019年4月 劇団あやめ大阪公演(九条笑楽座)

昨年6月大阪は庄内天満座で観劇して以来ほぼ1年ぶりだ。あの時は座長(あやめ猿之助改め)姫猿之助に私が勝手な期待をかけて批判的なブログ内容になってしまった。それ以来私の意識から消えていたが、つい先日大阪で公演中だと人づてに聞き、千穐楽間際(28日、29日)に劇場に駆けつけた。ガッカリさせられたらどうしようという不安はあったが、それでも猿之助の舞台姿は見たいという思いが強かった。

 

けれどもそれは杞憂だった。観劇してよかった。姫猿之助が当初から目標にしていたらしい歌舞伎役者、先代(三代目)市川猿之助(現二代目市川猿翁)。三代目猿之助ケレン味たっぷりの舞台をあやめ猿之助は自分流に仕立てることに成功していると思う。前回の観劇時は座長一人が浮き足立っていた記憶がある。だけど今回は座長も自己主張しながら座員一人ひとりにも自分を売り出す機会を与える配慮が感じられる。

 

劇団あやめの舞台にはまだ去年から今年にかけてわずか三回しか接していない。それでもこの劇団は数多ある大衆演劇の劇団の中でとてもユニークな存在だという気がする。

 

ユニークな存在だという根拠は座長が男であるにもかかわらず劇団自体が今から四百年あまり昔江戸時代に花開いた歌舞伎を生み出す原動力となった女役者、通称「お国・出雲阿国(いずものおくに)」を思わせるからだ。 これなら現在の大衆演劇界をおおう(シニア世代の観客が心身の老化などでリタイアし、その後継者が育っていないということが原因と思える)沈滞ムードを打破してくれそうな予感がする。そういう現状を考慮すると「おくに」さんの登場は必然だと言えそうだ。

 

この実在したらしい女役者は放浪しながら役者業に携わり、時には遊女業も兼ねたと伝えられている。だけど、「おくに」なる人物は個人として特定できるわけではないようでむしろ同時多発的に「阿国」と名乗る女優が出現したというのが真実に近いのではないか。出雲阿国と呼ばれることが多いことから出雲大社と関連づけられ、古代末から中世にかけて出現した歩き巫女と呼び習わされたされた放浪芸人兼遊女の部類に属する人(たち)だったかもしれない。

 

と、こんな余計な議論はさておこう。劇団あやめが「阿国」率いる役者集団あるいはいろんなタイプの「阿国」の集合かもしれない。

 

劇団の主要メンバーとして(若手リーダー)<咲之阿国(しょうのおくに)>がいることは知っている。だから、さも私が大発見したみたいなこと言うのはおこがましいことはわかっているつもり。

 

しかし咲之阿国ばかりが「阿国」ではないのではないだろうか。個人的な意見だが、女優陣をうまく引き立てる座長猿之助は見かけが「大(おっき目)」の阿国に思える。猿之助は生物学的には男ではある。が、生まれつきの役者であることが幸いして(舞台での女形の演技のみならず)集団内部の対人関係でも必要に応じて柔軟にオトコとオンナの切り替えができる人に思える。だから男の沽券に関わるなどとは言い出さない。他方、副座長格の咲之阿国がちっちゃ目の阿国のような気がする。「咲」は音読みで「しょう」。「しょう」と読ませるからにはご本人が小柄であることも観客に意識させる。大と小の阿国コンビが率いる劇団あやめ。二人の阿国は強力なコンビだ。

 

ちなみに「咲」は「笑」を意味するそうだ。劇団の明るさ、笑いの重視の姿勢が芸名に反映しているのだろうか。

 

調子に乗ってさらに言わせてもらう。「咲」と言う漢字は日本神話ではアマテラスの孫(天孫)であるニニギノミコトの妻とされるコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)を連想してしまう。咲之阿国の美形と舞姿は桜の木の花が咲くように美しいコノハナサクヤヒメとの連想関係がふさわしい。

 

大小の二人阿国こと姫猿之助と咲之阿国のかたわらにはミニ阿国たちが控える。軽業(かるわざ)ガールこと花形<初音きらら>。初音ミク(バーチャル・アイドル)世代を代表するきららさんかな。それだけでなく初音というからには歌舞伎や文楽の『義経千本桜』で描かれる「初音の鼓」と関連づけたくなる。初音きららが舞台で見せるキレのいい殺陣や宙返りなどの離れわざは『義経千本桜』で静御前が奏でる初音の鼓をめぐる話と相性がいい。というのも忠義の心があつい狐の(人間に変身するという)超能力のイメージが初音きららのアクロバット的動きとすんなり重なるからだ。さらに大仰な台詞回しや特大の小道具を駆使して超小柄な身体を大きく見せるという「逆転わざ」に秀でた<ひよこ>。歌ガールこと<千鳥>。最後にデビュー半年足らずながら先輩たちに追いつこうと必死な<胡蝶蘭羽蘭>(ウランってアトムの妹とは無関係?)という一男五女の六人衆。それぞれが得意技を駆使して観客を魅了してほしい。まだ役者としては未熟な胡蝶蘭羽蘭も自分独自の売りを公言できるようになると期待している。

ロイヤル・オペラ・ハウス2019年1月公演『スペードの女王』映画版、見応えあったけど、世間の評判悪い?

プーシキンの原作(といっても私の場合日本語訳)も読んだことないし、チャイコフスキーがオペラ化 —— La Dame de Pique(日本語タイトルに同じ)——したのも見たことない。今回シネマ録画でこの作品に初めて接した。でも感動した。私だけかな?

 

今回と同様の解釈でノルウェーの演出家ステファン・エアハイム (Stefan Herheim、1970年生まれ) が2016年に国立アムステルダム・オペラ劇場で上演している。この演出家は1999年『魔笛』以来20年近い演出経験を積んでいる。私の場合エアハイムのオペラ演出は今回初めてなので解釈や演出の特徴、傾向など知らない。

 

ここしばらくMETを中心に主に映画版でオペラを楽しんでいるが、エアハイムが手がけた本作品は作品構成の面で強く印象に残る。すでに死語になったような感があるポストモダンポストモダニズムという批評用語がまだ生きていると思えたからだ。私の錯覚?

 

しかしネット上の(英語版)劇評を読むとどれもこれも5点満点の2点、良くて3点にすぎない。しかもかろうじて点を稼いだのが一部の歌手、作曲家チャイコフスキーとエレツキー公の二役を演じ、心地よいバリトンを響かせたウラジミール・ストヤノフ (Vladimir Stoyanov) や高齢(74歳)ながらも往年の輝きをしのばせたリーザの祖母で伯爵夫人役のフェリシティー・パーマー (Felicity palmer) の健闘だ。

 

採点が辛い主たる原因は演出意図を過剰に露出させたせいだろう。こういう説明過剰の罪過を指摘したオペラ批評家Peter Reedは正しい。

http://www.classicalsource.com/db_control/db_concert_review.php?id=16080

 

演出意図を観客にわからせようと字幕を出したり、チャイコフスキーの同性愛志向、コレラ菌に汚染された水の飲用による自殺(実証されていずあくまで噂)をわざとらしく視覚化するのは素人の仕業だとReedは言わんばかり。とりわけこの批評家の機嫌を損ねたのが(エアハイムが3年前のアムステルダムでの演出プランを元にしているとはいえ今回コヴェント・ガーデン公演の観客の多くは初見だろうと配慮?して)配布されたプログラム。エアハイムは文章で演出意図を縷々語ったのがいけないようだ。(東宝さんの内容スカスカのチラシよりこのゴテゴテしたプログラムの方がずっとましだろうという気もするが。)上演内容で観客に訴えんかい!(a production should explain itself.)

 

このくだりを読んで論文指導の教師用マニュアルを思い出した。脚注、尾注でくどくど説明や言い訳をするな。本文で説得せんかい!ごもっとも。

 

でも私はエアハイムを擁護したい。演出意図をあざとく露出する。これって昔懐かしい(20世紀前半に)ロシア・フォルマリズムで提唱され随分人気も博した「仕掛けの露呈」ではないか。今は亡き山口昌男が自分流にこなしてすぐれた文化現象の分析をしてくれたことを思い出す。だけど、その手法を21世紀の演劇人エアハイムは拙い手法で模写したわけではない。舞台上で演劇性溢れる視覚化を通してチャイコフスキーのオペラ『スペードを<メタ化>(原作のオペラについて語るオペラを創造)するのに利用したのだ。原作オペラはもちろんチャイコフスキーが自分の同性愛志向なんかふれはしない。1890年ロシアはサンクト・ペテルブルクのマリインスキー劇場で初演されたのだからそれから100年余り経過している。エアハイムとしてはいくぶん現代風味を付け加えながら基本は原作に忠実な再現などするわけにはいかないだろう。<メタ化>は不可避である。どんな思想、イズムが背景にあるにせよ<予定調和>は不変ではない。いつか崩壊する。はそういう次第で今回の上演は高く評価したい。

 

<上質文化>拡散に貢献する東宝さんだが、(あいかわらず)ロイヤル・オペラ・ハウス作品紹介のチラシが無内容。Storyの項にしるされているのは極度に切り詰めて想像力を刺激しそうもないそっけないアラスジ。ないほうがマシ。ノルウェーの演出家ステファン・エアハイム (Stefan Herheim、1970年生まれ) が試みた途轍もなく大胆な構成・演出は完全無視ではないか。とはいえ東宝さんばかりを責めるのは酷だろう。短文でまとめるのは難しい、いや不可能か。

 

正直なところ予備知識なしでエアハイム版はまず人物関係でつまずいてしまうだろう。私は事後に知ったのだが、英語版作品評のうち次のものが大いに役立つ。

seenandheard-international.com/

Tchaikovsky Plays the Hand Herheim Gives Him in the Royal Opera's The Queen of Spades. 24/01/2019. United Kingdom Tchaikovsky, The Queen of Spades: Soloists, Chorus and Orchestra of the Royal Opera House / Sir Antonio Pappano ...

 

登場人物の中でもポーリナ (Paulina) がどういう人物なのかわからずじまいだった。同じ女優 (Anna Goryachova) が異性としてズボンを履いた少年(青年?)ミロフゾール (Milovzor) 役でも登場する。上記劇評を読んでポーリナが劇中の主要人物 —— チャイコフスキーになぞらえた作曲家、同じ俳優が演じるエレツキー公 (Prince Yeletsky) 、その友人、軍人でギャンブル狂のゲルマン (Gherman) 、そしてこの二人の男に否応なく関わってしまう貴族の女性リーザ (Liza) —— の一人リーザだと知った。事前に準備しなかった私が悪いのだが。

 

ちなみに昨年2018年2月ボリショイ劇場が上演している。おそらくチャイコフスキーのオペラ版を比較的忠実に再現したと思えるが、詳細はこちらでご覧になれる(英語版)。登場人物は生身の人間というより各登場人物自身の想像力が視覚化されたものを表すとか。この想像世界は一定不変の固定されたものではない。比喩的にも物理的にも<揺らぎ>がキーワードらしい。その趣旨を生かすために各登場人物の登場の仕方も工夫されている。照明装置の助けを借りて(舞台袖の)暗闇から徐々に姿をあらわすのだとか。結構面白そうだ。

16 February 2018 - Репертуар Большого театр

https://www.bolshoi.ru/performances/en/2997/roles/

 

英語版劇評はリンク先が次のサイトにまとめられている。

http://www.bravoopera.com/spettacoli/queen-spades-2019-royal-opera-house-2/

命を愛でる狂言『靱猿」の世界にちなんで

 猿の皮を狩猟にいつも携帯する靭(矢筒)に飾りとして貼り付けるため猿引に向かって猿を「貸せ」と意味不明なことを言い出す大名。小猿の頃からわが子同様に愛情を込めて育て芸を仕込んだ猿を(生き皮を剥がれて)むざむざ殺されてはたまらないと猿引は必死で城名を懇願する。それでも傲慢な権力者はなんだかんだと屁理屈をつけて猿をよこせと迫る。しかし太郎冠者の助成もありようやく大名は諦める。それどころか猿を愛おしく思うようにさえなる。

 靭猿』にうかがえる命あるもののを大切に思う考えには仏教の殺生戒が反映しているのだろう。「放生会(ほうじょうえ)」という言葉を思い出した。事典類(ブリタニカ)によると、放生会は古代日本の朝廷に鎮圧された反乱部族の怨霊を鎮める目的で始まったそうだ。大和朝廷に隷属させられていた南九州を本拠地とする隼人族が8世紀初め反乱を起こすが鎮圧される。その後20年ほどして8世紀半ばに強権的に服属させられて深い恨みをいだく隼人族を慰撫するために鳥獣や魚を自然界に放つようになり、これが一つの習俗となった。生き皮を剥ぐと騒ぎ立てた大名が改心するのも一種の放生会的行いだ。

 放生会については某ブロガー氏(yukashikisekai.com)が興味ふかい体験談を披露している。仏教徒の多い東南アジアではこの風習が現代にも生きているそうだ。カンボジアを訪れたこのブロガー氏は「放鳥」の行事に参加したが、金銭を要求された。スズメ2羽で1アメリカ・ドル払う羽目になったとか。1日の糧を得るのが精一杯の貧しい庶民のたくましい商魂なのだろう。あまり非難する気にもならない。

 このブロガー氏にはさらに面白い逸話がある。10年ほど前の中国での話。次のネットニュースの見出しが出来事の内容を如実に語る。

 「放流したトラック13台分のコイ、末路は下流で住民の食卓へ」

  (www.afpbb.com

当の中国のネットでの反応にはこういう行為に呆れるものが多かったようだ。ブロガー氏はかつて日本に仏教を輸出した中国がこの有様ではどうか思ったらしい。

 だがカンボジアの場合と同様、これも豊かな食卓とは縁遠い庶民のかわいい欲望の表れと寛容な態度をとりたい。

 わが日本はどうかというと、つい昨年9月の九州福岡の放生会で醜態を晒してしまった。

  【閲覧注意!!!】【逮捕の瞬間!!!】【福岡】放生会公務執行妨害逮捕!! 男3人を逮

   捕「酒を飲み過ぎて記憶がない」と否認も 福岡市 (18/09/13)

   https://www.douga-news.net/sokuhou/

こちらは寛容な気持ちになれない。情けないとしか言いようがない。

 人間というもの、自然、天然、ありのままでは如何ともしがたい。やはり倫理の手本が必要かな。

2019年1月新春 能と狂言 —— 蘇りの時節

大槻能楽堂 自主公演能 新春公演>

大槻能楽堂大阪市)、1月3日
★「」片山九郎右衛門(翁、白式尉) 茂山千三郎(三番三[大蔵流の表記]、黒式尉) 片山峻佑(千歳) 鈴木実(面箱持ち)
 笛 竹市学 小鼓 大倉源次郎 吉阪一郎 大倉伶士郎 大鼓 山本哲也
★能「高砂 八段之舞」観世喜正(翁・住吉明神 永島充 福王和幸 是川正彦 喜多雅人 茂山逸平
 笛 杉信太朗 小鼓 清水晧祐 大鼓 亀井広忠 太鼓 中田弘美
狂言靭猿茂山千五郎 島田洋海 茂山千作 茂山蓮(猿)

 

 殊更いうまでもないが、「翁」は能楽の中でも特異な位置づけだ。他の能楽作品と別格に扱われてその主旨は祝言・言祝ぎである。「物語」をほとんど排してもっぱら「儀式」として執り行われる。だから新しい命の芽生えと古い命の再生への期待が膨らむ年明けの公演演目としてふさわしい。

 「翁」は能楽師狂言師がそれぞれ老人の面をつける。その面は白と黒に色分けされ、能楽師が白に対して狂言師が黒である。翁と尉(じょう)はともに男性の老人をさす。

 「白」と「黒」という色彩が並ぶとコクビャクなど対立概念を連想しがちだが、意外なことに相補的な関係にある。オンラインで公開されている徳川美術館の解説がわかりやすい。以下イタリックスの箇所は引用文。


  白式尉と黒式尉は、天下太平・国土安穏・五穀豊穣・子孫繁栄を祈る祝言能「翁」で用いられる能面です。能楽の発生以前から神の面として神聖な祝い事に使われてきました。白式尉は、しわの刻まれた白い顔にボウボウ眉と呼ばれる白い飾眉と長く白い顎髭を生やし、天下の平和を祈り長寿を称える円満福徳の相を表します。対して、黒式尉は、黒く彩色された顔に額と頬に朱を入れています。日に焼け、土になじんだ健康的な好々爺を思わせる面です。

 

 ちなみに「尉」はどういう成り立ちなのだろうか。その語源は某ブロガー氏によると、「尸シは人が椅子などに腰かけている形で、これに二がついた『尸+二』は、人が座って下に二枚の布を押さえる形で、いわゆる寝押しで布を伸ばすかたちと思われる。『火+又(て)』は、火(おき火や炭火)をいれた容器を手にもつ形。尉は、火のし [火熨斗](昔のアイロン)を手にもちで布に当ててシワをのばす意」なのだそうだ。さらに、このように混乱や混沌を正すという意味から転じて天下国家を安定させる働きもあるとのこと。

<出典>https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/7f5490f26c2b18413f06957931143761

 

 それから特殊な位置付けの「翁」がどういう構成をもつのかも知りたいところ。能楽師柴田稔さんによると(https://aobanokai.exblog.jp/29176177/)、

  登場人物:翁(シテ方)、千歳(シテ方)、三番叟・三番三(狂言方)、   

   面箱持ち

  場面構成:

   前半 千歳の舞、翁の舞 

   後半 三番叟・三番三の舞  

   

  *千歳の舞:舞が展開する場を浄める露払いとしての役目をもつ

  *翁の舞:白式尉の面をつけることで神として顕現し、天下泰平、国土安穏を祈る

  *三番叟・三番三の舞:五穀成就を祈願

    揉(もみ)の段:躍動的に舞うことによって国家安寧の基本にある豊穣を祈念

    鈴の段:黒式尉の面をつけ鈴を打ち振りながら五穀豊穣を祈り躍動的に舞

     うことによって国家安寧の基本にある豊穣を願う

   翁も三番叟・三番三もそれぞれの立場から同じく国家、国土の繁栄と平穏無事を

    祈願する。

 

 今回の演目のうち『翁』と『高砂』がともに直裁に生と再生 (birth & rebirth)をことほぐ。一方狂言『靱猿』も一見祝祭性が表面化していないが、命をめぐる問答をとおして同様の趣を打ち出すように思う。大名は当初権力を笠に着て威張り散らす。この驕れる権力者は偶然見かけた生き物(猿引が連れている猿)の生き皮をはいで己の靱(矢筒)を飾り立てようとする。だが、猿引の必死の訴えに傲慢な大名もやがて改心する。ここには命を慈しむことの意義深さが浮き彫りになる。

 

若手・新人芸能者の登場と活躍

 タイトルにあげた「蘇りの時節」を如実に表すのが若手、それも10歳前後の初々しい能楽師狂言師囃子方だ。並み居るベテランに伍して堂々たる技芸を披露してくれた。

 「翁」で千歳を演じた片山峻佑(片山伸吾さんの長男)だが、まだ中学1年生ながら堂々たる発声に驚いた。恵まれた才能を引き出し伸ばす片山伸吾さんたちの指導のし甲斐があるというものだ。

 この時の小鼓方の一人大倉伶士郎さんは小学6年生。父大倉源次郎さんと吉阪一郎さんというその道の超ベテランとの連奏をみごとにやってのけた。この少年の腕前は3年前の4月、篠山春日能での舞台を拝見して強く印象に残っている。腕前はさらに向上していて今回もまことに心地よい鼓の響きを聞かせていただいた。

 狂言靭猿」では2011年4月生まれの茂山蓮さんが見世物の猿。猿引役の祖父五世茂山千作さんに連れられて登場。人間の台詞はないものの、物怖じせず猿のモノマネを演じていた。父茂山茂さんは息子さんの舞台が気になるのだろう、特別後見役で猿引の綱を持つ千作さんのそばに控えていた。

 

 今回の新春能と狂言公演はこの3人の若手が登場することで命の蘇りと新たな命の誕生を強く印象づけてくれたと思う。新玉の年を迎えたばかりの時節にふさわしい公演といえる。