浪花劇団「蛇々丸」は孤高の人

かつては「浪花劇団」という旅役者の正統派の伝統を継承する劇団で四人の若手(現在は三人)がどう成長するか、それが楽しみで応援していた。しかし新之助座長の「自己中」ぶりに辟易して観劇しなくなった。そんな次第でベテラン役者蛇々丸浪花めだかの芸を楽しめない状態だ。

 

先日偶然に蛇々丸ご本人が立ち上げたらしい(?)ツイッターを見つけた。https://twitter.com/jajamalu_offici

ここで最近(2016年7月、8月)の蛇々丸の舞台写真を見てこの役者のすごさにあらためて気づかされた思いがする。

 

前々から蛇々丸橘小寅丸を誘って一座を立ち上げてほしいとは思っていた。でも(わたしが勝手に想像する)蛇々丸ご本人の性格から推察して座長として雑事にも配慮しながら劇団経営、運営するのはむりというかご本人の強みや持ち味をおしつぶすことが危惧される。それで融通がきくというか、わがまま気ままもかなり許される現在所属する浪花劇団で蛇々丸固有の立ち位置を保つのがベストだろうと思うようになっている。

 

上記ツイッターをはじめネットに掲載された舞台写真を見るとどれも蛇々丸がいかに孤高の人だと思い知らされる。蛇々丸が舞台に立つとき蛇々丸は浪花劇団という現実的文脈などその意識から完全に消滅しているにちがいない。わたしとしてはあえて孤高の「芸術家」とよびたい。

 

蛇々丸はそういう単にベテラン役者という域をはるかに凌駕した希有の存在なのだ。群舞であれ芝居の一登場人物を演じる場合であれ、蛇々丸は集団の和を乱すことなくただ一人屹立する芸人、役者、芸術家だというほかない。とにかくスゴイ。

たつみ演劇BOXーようやく舞台復帰した愛飢男さん

でも若手女優のあいも変わらぬキンキン声で萎えた!

たつみ演劇BOX

2016年10月4日、神戸新開地劇場

 

久しぶりに見たたつみ、ダイヤ両座長は業界トップクラスの芸人、役者だ。これほどお笑いがたっぷりありながら正統派の芸を提供できる劇団は数少ない。 

 

しかし、しかしである。開演直前のアナウンス。アタマのてっぺんから出ているみたいな甲高い女声。不快きわまりない。来るべきではなかったかと不安になってきた。おまけにこの女優さん芝居では主役のダイヤ座長の恋人という重要な役どころ。劇中でもいつもの金切り声で、これまた相変わらずの(美女役特有の)白塗り。真っ白塗り。21世紀の大衆演劇では御法度の「反則」がふたつもそろえば観客に嫌われるのも当然だろう。美女役の女優や女形が白塗り化粧したのは半世紀以上昔のこと。それからあの声。現実世界はいうまでもなく劇中でも狂人役ならいざ知らずあんなキンキンと耳障りな発声はするものではない。化け物じみた発声と白塗りはもういいかげんおやめくださいといいたい。

 

いやなことはさておき、愛飢男さんは第三部の舞踊ショーでやっとこさ登場。待ってました。立役の踊りだったが、プロの芸を楽しませてもらった。 劇場に来た甲斐があったというものだ。

 

いつもなら愛飢男さんの演舞中に「コケコッコー」など音の妨害がはいるのだが、今回はたった一度だけたつみ座長の一声「ジャニーズ・シニア!」がマイクを通して聞こえてきただけ。拍子抜けではあったが、愛飢男さんの正統派の踊りが堪能できてよかった。(ついでといってはなんだが、ベテラン宝 良典さんの舞踊もシブくてよかった。)

 

最後にありがたくない驚きをひとつ。先月は連日場内がわきかえった劇団 花吹雪公演。それを体験した身としては(昨日だけしか観劇していないが、)客入り不良が気になる。比較すると客席に活気がない。おまけに舞台にも両座長の奮闘にもかかわらず熱気が感じられない。最近健康を害したたつみ座長は辛さをこらえて観客サービスをしているにはちがいない。それにして今月はきびしいひと月になりそうだ。

 

人づてに傑作、名作芝居だときている『稲荷札』が11日に上演される予定だからぜひ見に行こうと思う。また愛飢男さんが姿よく踊り、芝居では滑稽ぶりを見せてくれるのを期待してもいる。

『月光町月光丁目三日月番地』を書いた唐十郎は舞台に立つ詩人

唐十郎・作『月光町月光丁目三日月番地』(1964年)

2016年9月15日ー19日

大阪 船場サザンシアター

演出:当麻英始

出演:織田拓己(男:患者)、白亜(女:看護婦、唐的には「看護師」ではまずいと思う)

 

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劇団花吹雪、怒濤の進撃 千秋楽前日

H28.09.28、新開地劇場

お芝居外題『踏切番』

 

松竹新喜劇風現代劇を下地に京之介座長大活躍でお笑いをたっぷり加味。

両座長がペアで踏切番を勤める。ある日先輩格の踏切番(春之丞)が列車飛込み自殺をはかった婦人を間一髪のところで救助する。その後事情をきこうと婦人を詰所に案内して二人は退場。すると後輩格の踏切番(京之介)が登場。そこへ先輩の妹(彩夜華 [あやか])が兄を尋ねてくる。後輩が先輩を呼び出す。事情があって芸者を稼業としている彼女は近々某社長に身請けされて妻になる旨を兄に伝える。話をするうち兄は当の社長が既婚者であり、その妻というのがさきほど自殺しかけた婦人だと悟る。人の不幸で幸福になるのは許せないと妹の結婚に大反対の兄。

 

ここからの展開は大衆演劇でおなじみの『追われゆく女』のパクリかと思えた。妹が芸者になったのも兄の病気治療費を支払うため。健康をとりもどした兄だが、貧しくてその借金をいまだに返済できないでいる。しかし(現在の妻とは離縁するという)社長の妻になればその借金も完済できる。だから妹は結婚したいという。おのれの幸せしか眼中にない妹に対して兄はきょうだいの縁を切るといいだし二人は決裂。

 

このあとは『追われゆく女』のパクリでなく劇団お得意のお笑い路線をとることに。縁切りだといった兄だが、むざむざ妹を不幸したくないと一計を案じる。後輩をヤクザに扮させて結婚相手の社長宅に乗り込み、妹に手を出せばただではおかないと脅迫して破談にしようというのだ。場面は社長宅へ転換。社長(酒井健之介)と本物のヤクザ西か見えないその友人(京誉)がいるところへ後輩踏切番が登場。先輩にけしかけられるもなかなかうまくヤクザらしい格好にならず何度も繰り返し。爆笑の連続。京之介座長はお笑い芸人そこのけの名コメディアンだ。

 

結局はこの偽ヤクザ作戦が効を奏して結婚は破談。メデタシ、めでたし。

 

ところで今日の公演でウレシイ思いができた。というのも劇団目安箱に(劇団最年少の)男優さんに関するリクエストを一昨日投げ入れたところ今日その願いがかなった。同様の進言が複数あったのかもしれないし、また劇団の都合でそうなっただけかもしれないが、それでありがたい。

 

この(中学生くらいの年格好の)男優さんにはインパクト満点の姿を楽しませてもらっている。先週末の公演だった。舞踊ショーで背景のひとつとして「団子を食べるテルテル坊主」。そのあと井桁屋座座長酒井健之介の歌謡にこの少年男優が赤いドレスの女形で絡む。歌唱が終わると拷問シーン。春之丞座長だったと思うが、両脚をつかんで振り回された。でもめげていなかったのがスゴイ。この座員さんのお名前がいまだにわからない。

 

そんなことはさておいて今日は第3部の「花吹雪まつり」と題したラスト・ショー数珠つなぎでこの少年が登場した。立ち姿の両座長が相舞踊ひろうする「ところへこの少年と愛之介がそれぞれドレス姿の女形、というよりむしろ「女装」で出現。愛之介にカツラを奪われたと思うと、京之介座長によるプロレス足技の拷問。いくら好きで入団したとはいえ当人にとって拷問はありがたくないだろう。でもどんな荒技をかけられても敏捷さでかわせると思えるのでわたしとしては楽しませてもらった。

 

数あるラスト・ショーの中から選ばれたもののひとつだからこの少年は人気者だと納得した。

 

今月の劇団花吹雪の舞台に接するとよそが見れなくなって困っている。

劇団花吹雪 模倣(パクリ)の才は創造力

2016年9月26日 神戸 新開地劇場

特別パクリ狂言『龍馬と近藤と沖田と時々ゴルフ』(特別出演:伍代孝雄)

 

物語のベースは落語家桂三枝(現・6代目桂文枝)の創作落語ゴルフ夜明け前』(1980年代はじめ、youtubeで視聴可能)。幕末の鎖国と開国の国家政策をめぐって敵対する坂本龍馬新撰組 近藤勇沖田総司が西欧文化の象徴のようなゴルフに当初は戸惑いながらもやがて打ち興じるようになる。ひいては熾烈な争いをくりひろげていたライバル同士が心を許しあうという現実的にはありえないドラマが展開する。

 

元ネタである落語の秀逸さは(世間に広まっている類型化された性格づけではあるが、)ゴルフに興じる三者の個性のぶつかり合いをユーモアたっぷりに描き分けた点にある。花吹雪はその発想をじょうずにパクってみせた。おみごと!

 

とりわけ印象深い人物は無骨を売り物にしている印象の強い近藤勇だ。近藤役の伍代孝雄は達者な役者ぶりを披露してくれた。滑稽なのは近藤がゴルフにのめり込み見事なスィングを披露するくだり。ちなみに伍代はゴルフを趣味とするのでクラブの振り方がみごとなのも当然だ。

 

イデアのパクリはこれにとどまらない。他劇団からの関係作品や劇団花吹雪の過去の上演作品からのつまみどりも加わる。春之丞・京之介両座長が事前に予告していたとおり台本なしどころか座長による口立てさえないとのこと。登場する座長をはじめ座員たちが了解していることといえば(両座長から事前に伝えられた「あらすじ」のみ。セリフはその場、その場に応じたアドリブだという。これでほぼ2時間観客を退屈させることなく上演しきった劇団花吹雪に対してa big two thums upを謹んで進呈させたいただこう。それにしてもみなさん各自が経験を通して脳内と体内に構築してきたセリフの「抽き出し」がすごい。ほころびを感じさせない言葉のやりとりが展開していた。脱帽!出演者全員をリスペクトするしかない。

 f:id:bryndwrchch115:20160927185852p:plain (両手の親指が上向きに立ってます。賞賛のジェスチャー。)

終始笑いに包まれた場面展開だった。しかしひとおり物語が終了したあとエピローグでは沖田総司の扮装のまま京之介座長が書状を読み上げる形式で劇中では敵同士ながらも仲良くゴルフに興じていた面々の悲痛な最期が語られる。京之介座長は感情移入しすぎたせいかいささか涙声になっていたようだ。雄々しい男たちの悲劇に涙したにはちがいない。だがそれ以上にあらすじだけ理解している2時間近い長丁場をほとんどつかえることなく滑らかに仕上げた主人公のみならず出演者全員の奮闘に対する感謝の気持ちが座長の涙声としてあらわれていたのだと信じる。

 

感動を覚える舞台を見せてくださった出演者のみなさんの奮闘ぶりに私も心から謝意を表したい。

 

劇団花吹雪の「パクリ」芸は単なる猿真似の霊異記をはるかに超えて創造性あふれる芝居になっていた。

 

<キャスト>

龍馬:春之丞、沖田:京之介、近藤:伍代孝雄、勝海舟:寿美英二、土方歳三:愛之介、中岡慎太郎(龍馬の友人):酒井健之助(劇団 井桁屋座長)ほか

一竜座 「風月光志まつり」H28年9月ーGood job!

歴史好きだという風月光志が構成・演出・主演した『岡田以蔵物語ー izo-K』( K はKoji 光志?とすれば光志版・岡田以蔵物語)は荒削りながらも見応えがあった。

 

「人斬り以蔵」こと岡田以蔵(1838-1865)は幕末という動乱の時代に30年たらずという短い生涯を生きた土佐藩の下級武士(郷士)。田中新兵衛河上彦斎(かわかみ げんさい)、中村半次郎とともに「幕末四大人斬り」として有名だ。風月光志は迷いながらもおのれの魂のあり方を模索するひとりの青年の苦悩を描こうとした。以蔵は剣の修行と尊王攘夷思想に全身全霊で没頭した剛直な人物だが、その一方で幼なじみの娘を恋い慕う純真な面の兼ね備えていた。今回の舞台では後半末を誓ったお光を殺されて苦痛を味わわされる。この時点でかなり絶望の渕に近づいた以蔵。尊王攘夷思想を報じた以蔵の残酷な運命は幕府ならびに土佐藩山内容堂の怒りを買った以蔵を死に追いやる。この以蔵処刑の場面で(おそらく)風月光志が思い描く岡田以蔵のイメージが浮き上がったと思う。牢屋のそばでは桜が舞い散る季節に設定されていて以蔵は死に臨んで最後の望みとして斬首され血にまみれたおのが体を桜の花びらでおおってほしい旨申し出る。観客を楽しませることを狙いとする物語のひとつのまとめ方としてこれはうなづける。

 

ちなみに史実では以蔵が処刑されたのは慶応元年閏5月11日(グレゴリオ暦1865年7月3日)なので桜の季節ではない。だが文芸作品などでは改変は許される。

 

ひとつ不満なのは土佐勤王党弾圧の流れで捕縛された以蔵が取り調べ時の拷問にやすやすと降参し同志の名前などを自白したというほとんど定説とは逆にむしろ英雄視した理由をご本人の口上挨拶時に開陳してほしかった。

 

しかし芝居小屋は歴史学会の会場ではないので特異な解釈をとった事情を述べる必要はないかもしれない。また風月光志の岡田以蔵人物像は次の点からも明らかといえるかもしれない。つまり剣と思想(尊王攘夷論)の師匠である土佐勤王党の中心人物武市瑞山(たけち ずいざん、1829-1865)との関係についてもよくいわれるように以蔵が生涯武市の操り人形ではないこと。以蔵にはみずから判断して袂を分かった趣旨のセリフがあることからも以蔵の自立した生き方を今回の上演では強調されているのだと理解すべきか。

 

言わずもがなの意見をもうひとつ。以蔵の思い人「お光」はとくたろうが演じたが、かれの女形では娘の色気が感じられない。十代後半のとくたろうはよくも悪くも男っぽさが出てきている。立役には好都合である一方女形ではこの面をカモフラージュし抑制しないとまずい。白龍という理想的なモデルが身近にいるのだから教えを乞うべきだ。また多少年長だが他劇団にも女形の模範となる役者がいる。たとえば三咲暁人(18歳、劇団 暁、若座長)、荒城蘭太郎(21歳、劇団荒城、花形)、里見こうた(20歳、劇団 美山)。生の舞台が見られないならDVDを通して学ぶべきところは学ぶという手がある。

 

さて以蔵は歴史に残る大変革の時代状況を的確に認識していたわけではないので同郷で一時親交もあった坂本龍馬ほど注目は浴びない。

 

だが50年あまり前から映画や以蔵本人あるいは龍馬との関連でTVドラマで描かれるようになり司馬遼太郎などの小説でも主人公として取り上げられる。2000年代にはいると舞台やコミックスにも登場。2008年には劇団新感線の「いのうえ歌舞伎」の一環(「IZO」)として上演されたとか。

 

ここで話がとぶが、先にふれたとおり岡田以蔵と同じく幕末四四大人斬りのひとりだった河上彦斎は漫画家和月伸宏・作『ろろうに剣心』に登場する「緋村剣心」のモデルだそうだ。るろうに剣心』といえば昨年6月浪速クラブでの公演だったと思うが、竜美獅童がこのコミックスを元に舞台化している。残念ながら私は見ず仕舞い。これも再度改訂版を上演してほしい。あるいは風月光志と竜美獅童のおふたりがアイデアをもちよって共同構成(脚本)・演出を実現させるのもいいな。

 

最後の最後にもうひとこと。風月光志の持ち芸のひとつであるひとみ婆ちゃん」が見れなかったのはかえすがえすも残念。

『超高速!参勤交代』ー 権威は空虚であることが肝腎

本木克英・監督、土橋章宏・脚本『超高速!参勤交代』(2014年)

続編=超高速!参勤交代 リターンズ』(2016年) 

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猿之助が演じる「八代将軍吉宗」は「エア充」感満載 

最近『超高速!参勤交代(2014年)の続編超高速!参勤交代 リターンズ』が世間の注目を集めている。2014年版を見てからにしようと思い、さっそくgoogle playのレンタル(100円でダウンロード、視聴開始後72時間の範囲で再生可能)で楽しんだ。両作品とも登場人物やストーリー展開が似ているものの続編を劇場で見ても退屈しなかった。

 

時は江戸時代中頃、強大な幕府の権威を笠に着た幕閣の主要メンバーがが参勤交代を終えたばかりの小藩に対して再度の参勤を命じる。しかも通常の所要日数の半分である5日でこなせという。将軍や幕閣に対する手みやげが粗末だったことに起因するイジメである。この手みやげとは藩主が信頼する領民たちが愛情をこめて土を耕しそこに植えた大根でできた漬け物のなのだ。この設定はやや過度にヒューマニスティックであるため滑稽みを醸し出したりする。そのコミカルなヒューマニズムの大甘ぶりとバランスをとるためにはこのイジメの黒幕、陣内孝則演じる老中松平信祝の見せる極悪非道キャラが必要だ。主役佐々木蔵之介のストレートに誠実な役作りと同様、あるいはそれ以上に陣内孝則のグロテスクな戯画的演技もこの映画の人気に大いに貢献しているにちがいない。

 

イジメにあうのは主人公(現在の福島県いわて市にあった)湯長谷(ゆながや)藩第四代藩主内藤政醇(ないとう まさあつ、実在の人物、1711年ー1741年)。その温厚篤実な人柄をみごとに体現した佐々木蔵之介がはまり役だ。湯長谷藩は石高1万石程度で小藩だったが、代々の藩主は堅実な治世をおしすすめて藩を幕末まで存続させた。映画に描かれたように領国の安定と繁栄に農業生産が重要だと認識し農民を人間として扱った領主だったと地元では伝説化しているらしい。

 

悪意の固まりみたいな極悪官僚は通常1年の猶予があるはずの参勤交代なのに帰国直後に即江戸へ再度参れという。そんなむちゃな命令も拒絶できない時代の体制。しかしこの映画の趣旨は小規模大名内藤政醇に味方する。湯長谷藩家老(西村雅彦)が次々にひねりだすのは苦肉の策か名案か。かててくわえて忠義に篤く武道に秀でた側近たちと(奇縁で仲間に加わる)一匹狼の忍者の働きで難題をクリアしてみせるのだ。

 

さて(新味のない前置きが長くなったが、)ここからがようやく本題。タイトルにある「エア充」に話題を移したい。言わずもがなのことをいわせてもらうとエア充リア充の真逆で現実味がまるでなく空気みたいに空疎、空無なヒト、モノ、コトをさす。この「空虚さ」を八代将軍徳川吉宗を演じた市川猿之助に筆者は感じた。空虚といっても否定的な意味ではない。カメラがとらえた猿之助の演技が主役の佐々木蔵之介をはじめ他の俳優たちのそれとは質的に決定的な差異、意義深い差異があるように思えたのだ。演技の質という面では(アイドルグループHey! Say! JUMP所属の知念侑李をのぞけば)映画やTVで活躍する俳優専業の出演者ばかりの中で猿之助ただひとり歌舞伎役者である。それが本木監督の意図なのか演者個人の意図なのかどうかはてんでわからない。

 

猿之助が短いセリフを口にするか無言の大写しが数カ所あるだけで他の登場人物との絡みがほとんどない。(観客がたやすく認識できる)超有名人がちょこっと顔出しするカメオ出演に近い。猿之助の出演時間は全体の5パーセントにも満たないだろう。が、それでも猿之助の存在感は大きい。いや、猿之助というより将軍吉宗の存在感が浮き立つというべきか。

 

実質上他の登場人物との絡みがない「吉宗」は物語的にはリア充を保証されている「内藤政醇」の次元あるいは世界から分断されねばならない事情があるのではないだろうか。

 

吉宗といえば開府以来100年あまり経た18世紀前半惰性に流れがちな幕藩体制を引き締めるべく享保の改革を断行した人物だ。吉宗のめざした改革は丁寧に幕閣を説得して進めるたちのものではない。その意志は断固として実践されねばならない。そのためには吉宗の存在自体が周囲を圧倒する威厳を放つべきである。いわば他者の容喙を許さない権威の<象徴>となるのだ。象徴は物理的作用を発揮しない。にもかかわらず人間の心理、集団の心理に大きく作用する可能性がある。

 

温情大名政醇のように臣下や領民とじかに対話するのとはちがい、<象徴>としての威光を放つことで治世を、政治的支配を遂行する。この映画で吉宗が血肉を欠いた人物に見えるのは映画が2次元的であるからではない。現に政醇らは全員3次元的な生身の存在としてスクリーンにあらわれている。2次元のいわば厚みのない存在が条件がそろえば絶大な威力を発揮する。

 

この映画で展開する物語の世界では将軍吉宗は幕府の頂点に立つ最高権威者である。その意味で現実世界のいかなる力も作用しない<象徴>という2次元的存在でなければならない。 これこそ猿之助が「吉宗」という目に見える存在を通して表象表現するものだ。支配体制に決定的な歪みが生じない限り象徴としての権威は揺らぐことがない。「エア充」感満載という印象を周囲に与えることによって歌舞伎役者猿之助は絶対的権威の象徴として充分に機能していたと思う。「吉宗」に象徴される権威、権力は実質的に空虚である。だが空虚であるがゆえに影響力が絶大だという逆説。

 

象徴の実態が空無だという発想はロラン・バルトを思いださせる。かつてバルトは1960年代フランス文化使節の一員として幾度か来日し、その体験をもとに『表徴の帝国 (L'Empire des signes)』(1970年)を著した。この異邦人にはこう思えた。つまり一見意味ありげな記号や象徴に満ちあふれる日本社会・文化だが実は「空虚」こそその本質だと。そこにバルト自身はある種の救いを見いだしたのかもしれない。バルトにいわせると自分が属する西欧文化は死にものぐるいで意味の追求に奔走する。偏執狂的にあらゆるモノ・コトを意味で充満させずにおかない。それに対して日本は無意識のうちに空無を志向し、その空虚に美を見いだすと。こういう日本人の姿勢に焦りはなくむしろ楽しんですらいるように見えたらしい。ちなみに全身、満身「日本通」のドナルド・キーンはバルトのあまりに素朴な旅行者的感想にドン引きしたとか。

 

猿之助的「吉宗」の象徴的権威は必ずしもバルトのいう「空虚」と重なるわけではない。バルトの場合「空虚」なるものをやや美学的に評価しすぎているが、人間社会というコンテクストを考慮に入れると空虚には積極的な作用力を認められるような気がする。その一例として猿之助「吉宗」の象徴的権威をあげることができるだろう。

 

長めの余談。参勤交代は人間社会の諸相と人間の心の奥底を映しだす鏡といえる。殿様だって人間である。国元の財政が豊かでなくとも見栄を張りたい。いやそうしなければ格好がつかないという脅迫観念にとらわれもする。見栄ばかりでなく現実的な必要性からだろうが江戸中期に当時の日本最南端にあった薩摩藩島津家の場合、片道17億あまりの経費を費やしたとか。また生身のからだゆえ旅の途上で病気にもなる。それに殿様がご老体なら旅をするのは苦痛以外のなにものでもない。いやいや、そればかりではない。トラブルの種はごまんとある。参勤交代途上で見舞われる金銭問題や刃傷沙汰。出立前と帰国後の商人相手の莫大な借金の清算に大わらわ。往きと帰りの藩同士が出くわすとどうなるか。石高の差で優先順位が決まっても譲歩した下位の藩はあとあとまで屈辱を根にもつ。

 

このような参勤交代に見る人間の生々しい現実は安藤優一郎・著『参勤交代の真相』(徳間文庫、2016年9月)に詳しい。内容的に先学の知恵に負うところが多いが、同書は入手しやすく、読み応えがありかつ高速読破可能なおいしい本だ。ほかに忠田敏男・著『参勤交代道中記ー加賀藩資料を読む』(平凡社、1993年)やネット掲載の資料「(金沢市図書館)新春展『金沢から江戸へ』」(www.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinseikanazawakara.pdf)も画像資料が豊富で読み応えあり。