パリで見たハイテク活用の人形劇

2018年3月下旬パリに1週間滞在。

 

ホテルの近所にあるカフェで朝食をとっていて店のそばにある人形劇場の看板が窓越しに見えた。興味が湧いて劇場をのぞいて見たが、公演時間帯でないので扉が閉まったまま。

 

そこでネット検索したところ通例の人形劇ではなく様々な物体を生き物、生命体に見立てるかなり実験的な舞台作りをしているらしい。 会場はLe Théâtre Mouffetard (住所73 rue Mouffetard, 75005 Paris) http://lemouffetard.com/

 

24日(土)の席がとれ会場へ出向いてびっくり。来場者の大半は10歳未満と思える子どもと少数の付き添いの大人。この作品は数年前からフランス 各地で上演されていて子どもたちに大人気らしい。

 

もっと驚いたのは最初中国系フランス 人かと思えた人形使い?の女性が冒頭で日本語を話したことだ。 航空機の機内放送などでよくあるように電磁波を発するスマホなど電子機器はこれから始まるショーで使う機器を狂わせるおそれがあるので電源オフにするように私以外全員フランス 人と思える観客に日本語で注意する。

 

えッ!観客は日本語を理解できるの?そんなことありえない。 案の定誰もその警告を行動に移さなかった。

 

後日このショーを考案し演出するMathieu Enderlin氏がネットで公開している文章を見てもここで日本語を使う必然性にはまったく触れていなかった。人形劇を楽しむつもりの子どもにもあるだろう予定調和的な感覚を崩して未知の世界を新鮮な目で楽しんでほしいという演出家や演者の期待がこめられているのだろうか。

 

私が見た演目はCubix。Cubeといえば正六面体。ちょうどサイコロの形だ。この英単語の複数形はcubicsだが、それをオシャレ?に変形させてcubixかな。

 

ちなみに cubix というと15年ほど前に製作され海外でも評判になった日本初のアニメ『さいころボット コンボック』(英語題名はCubix: Robots for Everyone)を連想させるが、関係なさそう。

 

実際舞台で使われたのは1辺が10センチくらいのサイコロ状もので、それを二人の女性が数十個随時並べ替えたりしながら光のマジックのようなことをして見せるショーだ。Cubicというサイコロ型のパペット(?)の群を操るのが日仏のご両人、望月康代 (Yasuyo Mochizuki) とオーレリ・デュマレ(Aurélie Dumaret)。(デュマレさんは頭を丸刈りにしているので男性かと思ってしまった。)

 

1時間ほどの舞台。複数のcubicがスクリーンになっているのか淡い色が現れたりする。とりわけ興味を引くのが舞台に立っている二人の女性の顔がそれぞれ20個前後のcubicにくっきり映る。一部のcubicを外すとその部分は背景の黒幕が見えるだけ。二人は百面相ぽい表情で観客の子どもたちを喜ばせる。最後にキュービックでいびつな形の塔を組み上げる。微妙な安定を保つ塔。塔の構成要素cubicをいくつか抜いて見せ観客をハラハラさせたりする。ゲームでありそうな積木くづしみたいなものか。こういう具合で人形劇よりマジック・ショーに近い。

 

言葉で説明するより過去の同様の内容の公演がいいとこ取りで3分間だけyoutubeで見れるのでぜひご覧いただきたい。 “CUBiX Teaser” https://www.youtube.com/watch?v=jfKSTk3b0aw

 

場内の子どもたちには大受け。しょっちゅう笑い声が響いた。 サイコロ型cubic群に投影される鮮明な映像がどういう仕掛けで現れるのか当初わからなかったが、後面投影 (rear projection) 映写技術を利用しているにちがいない。後面投影は映写機の位置がスクリーンの全面、つまり観客の側ではなくスクリーンの背後なのだ。最近よく見かけるがビルの壁面とか窓ガラスをスクリーン代わりにコマーシャルなどのビデオが映し出される。あれと同じだろう。

後面投影参考サイト: https://www.e-tamaya.co.jp/html/faq/projector/503.html http://theaterhouse.co.jp/p_rear/item_top.html#film-list

 

ただ舞台で使われていたのは大型スクリーンなどでない。先に書いたように1辺が10センチ程度の手のひらに乗るサイズのサイコロである。公演の規模から推測して高価な仕掛けを使うとは考えられない。

 

ネット検索で知ったのだが、厚手のトレーシング・ペーパーだとクリアな映像を写すスクリーンになるそうだ。トレーシング・ペーパーだと安く購入できるし、細工もしやすい。

スクリーンの素材参考サイト: https://nichibun.net/case/project/index.php

 

しかしスクリーンの役目を果たすにはほとんど厚みのないものでないと後面投影される映像が映らないのじゃないか。ところが立体的に組み立てたトレーシング・ペーパーが後面投影のスクリーンとしてりっぱに機能することが次のyoutube動画で納得できる。 「リアプロジェクションマッピングを試した【トレーシングスクリーン】」 https://www.youtube.com/watch?v=7ojzRUCpXWQ

1分24秒の時点で現れる高層建築らしい立体物に後方から投影される映像がくっきり映し出されている。

 

一見高度なテクノロジーが随分身近な場面で(おそらく)安価に効果的な映像効果、いや舞台効果を生み出しているではないか。

 

私の無知を自覚させられたことはさておいてハイテクが演劇の進化に役立っている。今時の子どもたちはそれを当然のこととして受け入れているようだ。

 

しかし考えてみれば、後面投影の技術は随分前から屋内、屋外を問わず大規模なコンサートなどでも利用されている。我が身の物知らずぶりが恥ずかしい。

大衆演劇界ではおそらく日本一の人気劇団「都若丸劇団」を久しぶりに観劇

2018年3月、大阪は羅い舞座 京橋劇場。

 

久しぶりの若丸劇団、その人気は衰えていない。千秋楽前日の29日大入り4枚。今月の観客動員数1万五千だと豪語するのも当然か。

 

劇団の(かつての)芸達者ぶりは認める。でも個人的にはそこそこの出来具合のTVお笑い番組的内容を繰り返しているだけだと思えてきてここ数年遠ざかっていた。

 

前回見てから5年以上経過しているので正直言って座員の皆さんは成長したというか老けてきている。また座員の子供さんたちがいい意味で成長して舞台に立つようになっているではないか。

 

この劇団全体としての芸の成長のなさのせいか、かつてのパワーが感じられない。ここ10年ばかり全国区の人気劇団の一つとして活躍してきたようだが、進化がない。みなさんの動き、所作がこわばってきているように思える。

 

10年余り前のこと、当時住んでいた静岡県は浜松から岐阜葵劇場へ。そこで見た都星矢さんの色気オーラはすごかった。お花をつけずにおれなかった。

 

だが、その後もしばらく放たれていたこのオーラがもはや感じられない。踊りの所作が硬い、筋肉の動きでしかない。

 

今回の観劇で一番気になったのは芝居(劇団御得意の『泥棒道中』)で見せる座長の言葉遊びがいただけない。面白くない。以前より明らかに劣化している。スラップスティック芸も同様にだめ。なのにしつこく繰り返す。

 

ここで思い出すのがドリフターズの言葉として身体を使ったお笑い芸のレベルの高さ。準備段階で積み重ねた高度な知的操作は一切感じさせずにあっさりと上質のお笑いを提供するいかりや長介率いるドリフはいまでも世界に誇れる。 またそれを幼稚園児や小学生がそれなりに理解した上で笑うという日本のコドモの高度な知的センス。 1980年代のテレビ文化は優れていたのだろう。

 

いや今もその伝統は消滅したわけではない。『クレヨンしんちゃん』の風刺精神をまだ小学校にも上がらないコドモが察知し、作者に代表されるある種のオトナと共有しているではないか。ただし大多数の大衆は別である。風刺の心を理解しない。

 

現在の若丸劇団ファンは日頃なんとなくTVを見ていて、現在の劣化したTV文化に馴染んでしまっているので若ちゃんのギャグ程度で喜んでしまうのではないか。

 

若丸座長の踊りは齢を重ねているせいで以前より一層踊りの所作が硬くなっている。 座長の舞踊に比べてキャプテン城太郎さんの踊りは(日本舞踊とは何の関わりもないにしても)動きが柔らかくて見苦しくない。

 

最近の若丸劇団は「ブラフ(はったり)が多すぎる」という人もいるが、それどころか、はったりさえないに等しい。単におもろくないだけ。 よその劇団はこの劇団を真似たらダメだ。学ぶところ1ミリもない。それぞれ自分で業界でのサバイバル策を練るしかない。

 

「ブラフ」ですらもゼロの証拠はというと、 劇中(『泥棒道中』)で剛さん演じる商人は商売の資金を懐に旅の途上。この商人は地元で悪名高い泥棒(若丸座長)にまといつかれて困っている。そこでこの泥棒をなんとかまこうと相手の注意をそらしてそのすきに逃げようとする。 商人は遠くのほうを指差して「馬と鹿が喧嘩してる」とかなんとか泥棒の関心をよそに向けようとする。ここではとりあえず成功するも泥棒はすぐ追いついてきて自分のことを「ばか」にしたなと商人をなじる。このくだり聞いてる観客も辛い。アホらしすぎる。千年前のギャグかいな。小学生にもバカにされる。このレベルのギャグもどきが頻出。痛すぎです。 ドリフのリーダーいかりやさんなら激怒するレベルだ。

 

トップクラスの劇団がこの有様では大衆演劇界で生き残れる劇団もその数がますます減ってきているのかと心寂しくなる。

 

劇団荒城が関西に進出できないものかと個人的には思ったりする。

(短期、長期にかかわらず)パリ滞在者にとってコスパの高い公共交通乗り放題パ定期券

2018年3月下旬の1週間にわたる今度の旅行はパリ・オペラ座Palais GarnierとOpéra Bastille)でバレエとオペラを見るのが目的だった。滞在中市内を経済的かつ楽に移動したいとピタパやスイカみたいのものがないかとネット検索して「パリヴィジット」に行き当たる。

 

<ネット情報> PARIS VISITE(パリヴィジット)は、 海外旅行者を対象としているカードで、決められた区域(ZONE ゾーン) を運行する地下鉄・バスなどの公共の交通機関が、全て1枚で乗り放題となるチケットです。 チケットは1日券から5日間券までがあります。 このチケットは加えて美術館や博物館など主要観光スポットで入場料が割引となる観光特典もつきます。http://paris-travel.amary-amary.com/c_trafic/parisvisite.php

料金:

<ネット情報>

①ゾーン ZONE 1-3(注記:パリ市内中心部) 1日間券 12€(子供 6€) 2日間券 19,5€(子供 9,75€) 3日間券 26,65€ (子供 13,3€) 5日間券 38,35€ (子供 19,15€)

②ゾーン ZONE 1-5(注記:パリ市内中心部とその周辺部を含む。観光客でもZONE 1-5は大抵行き来するはず) 1日間券 25,25€(子供 12,6€) 2日間券 38,35€ (子供 19,15€) 3日間券 53,75€(子供 26,85€) 5日間券 65,8€ (子供 32,9€) http://jams-parisfrance.com/info/metroparisien_tarifs/ https://www.ratp.fr/en/titres-et-tarifs/paris-visite-travel-pass

 

出発前からZONE 1-3の範囲で使える5日間券 38,35€ (子供 19,15€)を選ぼうと決めていた。そこで パリの玄関口CDG空港で構内のSNCF( Société nationale des chemins de fer françaisフランス国鉄) 切符売り場へ向かう。入り口付近にはSNCF公式ガイドらしき人たちが数人いる。あるガイドさんから耳寄りな情報。Paris VisiteよりNavigo Découverteナビゴ・デクベ(「デクベルト」とは聞こえない)の方がお得だという。前者が38,35€ かかるのに対して22,80€と安い。

 

耳で聞いただけだから条件付き乗り放題パスNavigo Découverteの綴も意味も不明のままだった。(navigoはラテン語由来のイタリア語動詞navigare [英語のnavigate]の一人称単数現在形らしい。découverteは「発見」の意味するので「我は未知の領域を冒険する」てなことか。)切符売り場のカンターでさっき教えてもらったばかりの乗車定期券(la carteの一種だから乗車カードか?)の名称を口真似して購入。代金22,80€のうち5€はカード本体の料金。1週間なり1ヶ月の期限が切れたら各駅のチケット自販機でクレジット・カードや現金でrechargeできる。参照サイト:http://www.hitoriparis.com/benri/navigo.html(操作方法の画像付きでわかりやすい)

http://www.insidr.paris/paris-tips/paris-navigo-pass-jp

 

<ネット情報>

NAVIGOの週間パス“SEMAINE(スメーヌ)”は大変お得なチケットですが、購入と有効期間には注意が必要です。 これは有効となる期間が「月曜日から日曜日まで」と定められていて、日曜日から月曜日に跨って利用する事は出来ません。例えば「水曜日から翌週火曜日まで」という使い方は出来ず、その場合は月曜日から新たなチケットが必要となります。 近郊列車にも乗れる。NAVIGO SEMAINEは、ゾーン1~5のメトロやRERの他、RER(Réseau express régional d'Île-de-France、イル=ド=フランス地域圏急行鉄道網)以外のフランス国鉄SNCFにも乗る事が出来ます。https://pianotohikouki.com/NAVIGO-SEMAINE/Decouverte/Paris-Metro.html(このサイトは乗車パスの画像もあって有益だが、2016年7月に記されているので料金が改定前だ。)

 

一方こちらのパリ交通公団(Régie Autonome des Transports Parisiens、略称RATP)の英語版サイトでは最新料金がわかる。 https://www.ratp.fr/en/titres-et-tarifs/navigo-monthly-and-weekly-travel-passes

 

繰り返しになるが、(月曜日から日曜日までの)ウィークリー・パス22,80€。

 

もう一点注意を要するのは(上記のサイトなどで触れているように)Navigo DécouverteはID用写真(約3x 2.5cm)1枚が必要だ。パスを購入して切符売場の外でもホテルでもパスの指定箇所に勝手に貼り付け、署名をする。ただし鉄道会社は一切確認などしない。雑誌や広告から他人の写真を盗用しても自分と一見似てそうな極東系の同性人物なら問題なさそうだと思う。ひょっとしたら全然似ていなくても駅員がいちいち点検するわけでなし、パスを改札口の機械にタッチさせるだけだ。こういう詐欺まがいのことはしない方がいいだろうが。

 

日本出国前にこの写真を用意するのがベスト。わたしは用意していなかったのでどこで写真を調達すればいいのかと切符売場で尋ねたところどの駅にもある(日本のスピード写真に相当する)Photomatonで撮れとのこと。料金は5ユーロ。

 

あいにく付近に設置されている2台のPhotomatonは故障中。スクリーンにタッチしても反応しない。そのうち1台は5ユーロ札を飲み込んだきり吐き出さない。パリに着いた途端に損した。

 

そばにいたさっきとは別のガイドにきくと次の駅へ行けとのこと。切符を買わなきゃいけないし、おまけにそこでも故障中かもしれない。そこで再度切符売場で尋ねてみる。するとこの階より二階上に「あるらしい」が保証はしかねると言う返事。あっても故障中かもと不安に思いながらもようやく発見。人目につきにくいので利用者が少ないのかPhotomatonは正常に作動。結局写真1枚入手するのに倍額の10ユーロもかかってしまった。

 

そんなこんなで空港到着後知らぬ間に2時間余りが経過してしまうという始末。しょっぱなからトラブってばかりでこれからのパリ1週間滞在が心配になってくる。時間は午後8時。

 

さてようやく入手したパスで予定通りRERとよばれる急行列車でリュクサンブール駅までいき、そこから15分かけて東にあるホテルまで歩くつもりだったが、すでに日はとっぷりくれている。定期券購入でトラブってかなり疲れた。

 

ちなみに、当分パリ再訪の予定はないので中古の「Navigo Découverteナビゴ・デクベ」(本体のみ、要チャージ)をメルカリとラクマ で売りに出している。送料込み五百円。

 

以下は定期券と無関係なおまけ。

 

リュクサンブール駅はかのリュクサンブール公園Le Jardin du Luxembourgの東端。パリ第6区にあり17世紀に造園された有名な場所だ。それに公園の東側にはエリート養成の高校、(パリ)大学などが点在。カルチェ・ラタンQuartier latinとよびならわされる学生街、知識人街の中心部だ。

 

それはさておきタクシーを見つけてホテル名を告げたが、歩いても5分だからと運転手には儲けが少ないと考えたのだろうか、実質上乗車拒否にあう。

 

仕方がないのでなんども道をききながら20分くらいかけてホテルに到着。

 

こういう時こそスマホの道案内があればいいのだが、翌日になってからネットでは評判のいいFree Mobileブランドのsim(30ユーロ、4千円)を購入予定だったのでこの時点ではスマホは役立たず。 このsimは実店舗で買ったが、店員さんが丁寧に指導してくれたので入店後10分くらいでネットに接続できた。助かった。

 

話変わってパリ市内の印象はというと物乞いが多い。ネット新聞によると人数ではニューヨークをしのぐとか。地下鉄の構内で大男の老人(白人)が床に這いつくばるようにして小銭を乞うているのには驚いたし、痛々しい。また地下鉄構内の座席で寝袋にくるまって寝ている人を何人も見かけた。食べ物はどうするんだろう。構内を出入りするには切符がいるし。。。

神戸能楽界

今年の正月に夙川にある能楽堂「瓦照苑」(上田同門会所属)を初めて訪問し、舞初めを観劇。自宅から30分あまりの距離なのでこれからしょっちゅう訪れたいと思っていた。

 

最近この能楽堂と縁つづきの能楽師を薬剤師の資格がらみで(下品に)非難するツイッターを見てしまって複雑な心境になっている。

 

このツイッター主はかなり偏執的にほぼ同じ内容の非難をくりかえしているので投稿内容がどの程度事実かどうか判断できかねる。

 

とはいえ虚偽なら法的手段も含めて対抗処置をすべきだが、そういう様子はなさそうだ。確かに相手にする値打ちもない単なるデタラメな非難なのかもしれない。

 

確かにツイッターの投稿回数は多いものの世間は無視しているので能楽界も相手にしないのかもしれない。

 

しかし頻繁に投稿されるツイッターの内容はある1点で共通しているので上田同門会としては見過ごすべきだはないと思える。非難の矛先は観世流にも及んでいる。

 

たまたまこツイッターに出くわした人が、(神戸)能楽界に偏見を持つようにならないかと恐れる。

 

こういう現状を考慮すると是非とも上田同門会と縁つづきの重鎮大倉源次郎氏が采配をふるってウチとソトの非を正し、(神戸)能楽界の名誉を守ってほしい。

神戸能楽界

今年の正月に夙川にある能楽堂「瓦照苑」(上田同門会所属)を初めて訪問し、舞初めを観劇。自宅から30分あまりの距離なのでこれからしょっちゅう訪れたいと思っていた。

 

最近この能楽堂と縁つづきの能楽師を(下品に)非難するツイッターを見てしまって複雑な心境になっている。

 

このツイッター主はかなり偏執的にほぼ同じ内容の非難をくりかえしているので投稿内容がどの程度事実かどうか判断できかねる。

 

とはいえ虚偽なら法的手段も含めて対抗処置をすべきだが、そういう様子はなさそうだ。確かに相手にする値打ちもない単なるデタラメな非難なのかもしれない。

 

確かにツイッターの投稿回数は多いものの世間は無視しているので能楽界も相手にしないのかもしれない。

 

しかし頻繁に投稿されるツイッターの内容はある1点で共通しているので上田同門会としては見過ごすべきだはないと思える。非難の矛先は観世流にも及んでいる。

 

たまたまこツイッターに出くわした人が、(神戸)能楽界に偏見を持つようにならないかと恐れる。

 

こういう現状を考慮すると是非とも上田同門会と縁つづきの重鎮大倉源次郎氏が采配をふるって(神戸)能楽界の名誉を守ってほしい。

夙川瓦照苑で <異界>体験

照の会シリーズ「舞囃子の会」  夙川能舞台 瓦照苑  平成30年2月17日(土)午後2時、2千円 ・舞囃子「養老」上田顕崇 ・舞囃子采女」上田拓司 ・舞囃子「歌占」笠田祐樹 ・舞囃子「葛城」上田宜照  囃子方を含む全出演者の詳細はhttp://www.kanshou.com/kouen_1.htm

             =========

阪急神戸線夙川駅に近い<瓦照苑>というこじんまりした能楽堂は今年の1月2日「松囃子」と題された舞初めを見たのが最初。演者を初め会場の雰囲気までもがとても爽やかだったことが記憶に残る。また客席から窓越しに夙川沿いの松林が見えるので能楽鑑賞の気分を盛り上げてくれる。今日で2度目の訪問。

 

舞囃子が四番。若手、中堅、ベテランが共演し演者がそれぞれの技量を最大限発揮しようとする気概の感じられる舞台だった。また舞手と囃子方がそれぞれライバル意識を燃やすと同時にコラボ(協働)しようという意欲が明らかなのが印象的だった。

 

舞を演じた若手能楽師は全員が舞も発声もインパクトがある。瓦照苑代表の観世流能楽師上田拓司のお二人のご子息こと宜照(よしてる)さんと顕崇(あきたか)さん、それから笠田祐樹さん。上田家と笠田家は先代、先々代から交流があるらしい。  

関連参考サイト:  http://www016.upp.so-net.ne.jp/ueda-nohgakudo/profile.html  http://www.yg.kobe-wu.ac.jp/geinou/07-exhibition1/img2007/2007cmokuroku.pdf  http://yukikasada.com/uedanougakudourekishi.html  http://kasada-shouginkai.org/profile.html

 

さて今回の演目が「舞囃子」と題されているが、これは能楽作品の<舞>の部分を抜き出し、舞手は地謡の声と囃子方の楽の音に合わせて面を着けずに直面で演じる形式だ。

 

まず『養老』を上田兄弟の弟、顕崇さんが舞う。時代背景は5世紀後半と思われる雄略天皇の治世。滝あるいは泉に湧く聖なる水が若返りの奇跡をもたらすという「養老伝説(養老の滝伝説)」を元に仏教伝来以前の日本のカミ信仰が讃えられる。森羅万象に宿ると信じられたカミという超越的存在に対する古代日本人の素朴な期待と信頼と畏怖がないまぜになった信仰心がうかがえる。世阿弥(1363—1443年)の時代にもカミに対する古代の集団的記憶が残っていたのか。

 

またこれは二義的なテーマだが、親孝行が<不老不死>の泉の発見につながる説話を通して孝行の功徳を説く点で仏教的響も感じられる。

 

なお今回は「水波之伝(すいはのでん)」という小書き(特殊演出であることを示すも)が付いているそうで、ネット掲載の解説 (http://www.hibikinokai.com/2005-2013/guide/yourou.html)によると、 「『水波之伝』の小書が付くと、間狂言が省略されて前場が終わるとすぐに後場となり、通常の演出にはない天女が登場する。後シテの舞う「神舞」も緩急の変化が大きい舞になり、後シテの面や装束も通常の演出とは異なったものとなる。山神の持つ性格が強調された演出であり、華やかな天女の舞と勇壮な山神の舞など見所が多い能となっている。」 これは通常の能形式で演じた場合のことなので舞囃子形式では下線部のみが該当しているらしい。

 

ストーリー的には若返りの泉を偶然見つけた若い木こりが人生の終わりに近づいた老いた親にその水を飲ませて体力、気力、生気を取りもどさせるという意味では<死と再生>のテーマを浮き上がらせる。 養老の水を飲んで新たに生命を授かることでその当人のみならず取り巻く世界もまた鮮やかに蘇るといえないだろうか。

 

舞が終わると次の『采女』の支度が整うまで兄宜照さんによる10分ばかりのトーク。話がいつの間にか今年の正月早々味わった失恋体験に及ぶ。失恋は若い当事者にとって人生の一大事だろうが、身近にある自然界の姿、青い空や緑鮮やかな常緑樹と比べれば些細な出来事でしかないと思い至ったとか。人生の階梯における脱皮、成長のきっかけ。この人もまた一つの衝撃を通して死と再生の儀式を一人静かにすませたのだろう。『養老』で不老不死というカミの業(わざ)を目の当たりにして世界、ことに自然界の新鮮な鮮やかさに人間が気づかされる貴重な体験と重なるところがあるとご本人は納得された由。そう私は理解した。気の利いたエピソードだと思った。こういう話ができる若さと純真さ。そんな次第で、雄弁ではなくともユーモアのセンスもうかがえる宜照さんの誠実な話ぶりに好感を覚えた。

 

ついで兄弟のご父君であり師匠でもある拓司さんが『采女』を舞う。キマってる!さすがベテランだけあって(若手ながらいくら舞上手とはいえ)息子さんたちの舞とは格が違う。

 

ちなみに(私が勝手に熱烈応援している)大鼓の名手こと山本哲也さんも登場してワクワクさせられる。

 

大陸(中国語)版「采女」のイメージに刺激を受けたと思われる「采女伝説」はその祖型が日本にも古くからあったらしい。それが後に能に取り入れられたが、どうやら『大和物語』(史実に基づくわけではない各種の説話を集めたもので、10世紀半ばに成立)に収められた伝説を踏まえているとか。采女は大陸伝来の女官の一種で天皇の食事に際して配膳を担当するのが本来の職務だが、妾としての役割を担わされることが珍しくなかった。謡曲采女』は帝の寵愛を失った娘(女官)が悲観して猿沢池で入水する悲劇だ。亡霊となって現世を彷徨う彼女は遍歴する僧侶によって祈り鎮められる。采女は救済されたことを感謝して帝の治世を言祝ぐ詩歌を口ずさみ、舞を披露する。

 

ここで注意すべきことは采女が帝の寵愛を失ったことを恨むのではなく、それとは逆に帝の御代に幸あれかしと心底願う点だ。かつてのような(人間を超越した存在が発揮する)神威に対する畏怖や敬服の念が変質している。現世の絶対者である帝、天皇とその治世(御代)を祝福し讃える役目を負っているように思える。人間を圧倒する威力を発揮する自然を崇拝し神格化した遥か昔の日本の心性が日本という国家を統治する政治制度の発達に影響されて変容した証拠かもしれない。

 

この後15分ほどの休憩。

 

『歌占(うたうら)』では少年時代から大学時代にかけてスポーツマンとしてならした笠田祐樹さんが舞を披露。お正月の舞初めでも印象に残ったとおり今回の舞台も実にパワフルだった。見ていて清々しい。

 

このように力みなぎる若手能楽師の舞だが、ネット上の解説などによると、後半ではなんともおどろおどろしい地獄の情景が展開する。

 

例えばhttp://www.tessen.org/dictionary/explain/utaura)では「決して優美さに絡めとられることのない、むき出しの信仰と呪術の世界。そのナマの中世的感覚の世界」が舞台に展開するという。

 

この作品の眼目はカミの超自然的、超人的威力に畏怖する人間を描くことではなく、人間の人間であるがゆえの苦悩を浮き彫りにすることにあったのではないかと思える。作者は人間とは、人間性とは何かという問いに自ら答えようと試みたような気もする。同時代の観客にもそういう関心が芽生えていたのだろう。

 

『歌占』はこんな話だと私は受け取った。つまり、前半でかつて伊勢の神官であった男が旅の途上での突然死を経て三日後に蘇るが、妻子の元から姿を消す。男は占い師として異郷で暮らしている。後に残された妻子。やがて幼子はある男に連れられて旅に出る。その途上ある占い師に遭遇する。その占い師こそこの幼子の父親だったのだ。真相が判明して占い師は数日間の臨死体験を口にする。(幼子の親探しを手伝っていた)男は地獄の様子を舞で語ってほしいと乞う。その求めに応じて占い師は舞で地獄体験を表現する。この体験の凄まじさは一時的ながら彼をトランス状態に追いやってしまう。やがて忘我の境地から覚め、幼子を連れて帰郷する。

 

伊勢の神官・占い師の臨死体験はテーマ的には典型的な<死と再生>だ。神ならぬ生身の人間が地獄の責め苦を体験する。そういう特異な蘇りの体験が息子を伴い伊勢に帰郷した後復帰するはずの神官職で彼の権威を高めるだろう。いやそれより大事なのは彼が一人の人間として成長する点だ。異界との遭遇が彼を人間として鍛え上げる。臨死体験を通していわば人格の陶冶を実践するということに作者である観世元雅(世阿弥の長男)は関心をもち、同時代の観客もまた興味を覚えたのではないかと思える。

 

しかしこの作品は正直なところ解説なしでは訳がわからない。私自身この作品に馴染みがない。その上事前に謡曲を読んでいなかったのでそのおどろおどろしさが理解できずじまいで残念だった。おまけに今回は舞囃子であるため詞章はかなり省略されている。それだけに全体像がつかみにくいという事情はある。  参考サイト:http://www.tessen.org/dictionary/explain/utaura/utaura2012

 

最後に『葛城』。舞手は上田兄弟、兄の宜照さんが舞う。大峰山奈良県)と並び称される修験道のメッカ葛城山(大阪、奈良、和歌山にまたがる山脈)で厳冬のさなか修行中の出羽国羽黒山から来た山伏が地元の女の庵に宿を借りることになる。粗末ながらももてなしを行う女は問わず語りに自分の正体を明かす。実はこの女、葛城明神の化身だという。過ちを犯したため法力で体をツタカズラでがんじがらめにされていると訴える。実は(7世紀に実在したが、極度に伝説化して超自然的な法力をもつと信じられた)呪術師役小角のよって葛城山と金峯山(奈良、吉野)を結ぶ修行者用の橋をかけるよう命じられる。が、自身の顔の醜さを恥じて夜間しか作業をしなかったため架け橋が完成しなかったという事情がある。

 

ストーリーなどこの作品の詳細は、 http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_058.html

 

劇中のカミ(葛城明神)はカミの性別を人間と同列に論じられないにしても女神としてのイメージが強い。『古事記』によると葛城山に宿る神は天皇雄略天皇)を畏れさせるほどの神威があるので女神よりも男神(「一言主(ひとことぬし」とよばれる)としての性格が強そうである。

 

このような私の推測は学術的根拠のないきわめて私的なものだが、この葛城明神の性別について(2016年に亡くなった)歴史学者脇田晴子氏が性別解釈や性別規制の歴史的変遷という観点から適切かつ興味深い議論を展開している。題して「男神から女神へ 能楽『葛城』の背景」がそれでネットで公開されている。 金剛流廣田鑑賞会のサイトで読める: http://hirota-kansyokai.la.coocan.jp/kenkyu/images/05_kenkyu_katuragi02.pdf

 

ここでまた私の妄想にもどるが、『葛城』に登場する<カミ>が超現実的な存在というよりむしろ人間臭く感じられて仕方がない。元ネタになった『古事記』では葛城を守護するカミ一言主に対して雄略天皇は自軍の武装を解除してへりくだる(『古事記』下巻−3雄略天皇記)。ところが『日本書紀』(巻第十四、雄略天皇記)になると共に狩猟を楽しんでいて対等の関係として描かれる。それどころか天皇は自称「朕」(「朕是幼武尊也」)であるのに対し一言主は「僕(やつがれ)」(「僕是一事主神也」)という具合に下手に出る。この落差は『古事記』が天皇の歴史的権威づけを対内的に公言するのに対して『日本書記』が対外的な権威づけであるという根本的趣旨の違いが反映しているのだろう。

 

両書は8世紀に完成しているが、『葛城』など能楽作品は14世紀あるいはそれ以降に書かれている。たとえ異界のカミを登場させるとはいえ、そのカミにも人間的性格を多少とも帯させているような気がする。

 

たとえば、容貌の醜いことを恥じるところなどある種の人間臭さを感じさせる。もっともこれを人間臭いと見るのは誤解かもしれない。だがカミと人間とを完全な対局とはしないところがミソではないか。能が中世庶民の心をも虜にした理由の一つではないだろうか。

 

今回見せていただいた舞囃子四番。どれもが、神聖なカミの威力を寿ぐ『養老』でさえも人間界とカミあるいは亡霊、霊魂が住む異界とはどこかで通じ合っている。けっして無縁の関係ではない。そんなことを感じる。神格、神性と限りある命をもつ人間とは通い合うのだ。そう期待し、信じる人間の思いが能作品に投影されているような気がする。

 

余談だが、何年か前から謡や小鼓も修行しているという落語家桂南光さん。能にご縁が深いようだ。ぜひ下記のサイトを訪問してほしい。

 

「南光の「偏愛」上方芸能」

(1) <激しすぎる楽器!? 大鼓の巻> https://mainichi.jp/articles/20171124/mog/00m/200/011000c

(2) <大鼓奏者の山本哲也さんとのトーク拡大版> https://mainichi.jp/articles/20171124/mog/00m/200/012000c

 

ついでに南光さんの関連記事(今度は山本能楽堂代表山本章弘さんとのトーク)も合わせて。

https://mainichi.jp/articles/20170825/mog/00m/200/019000c https://mainichi.jp/articles/20170825/mog/00m/200/023000c

 

小鼓方大倉源次郎さんにもインタビュー。

<ぽんっ 神秘の音色、小鼓の巻 神様が宿る大事な「お道具」> https://mainichi.jp/articles/20160625/ddn/014/200/059000c

笑いのきっかけのない狂言は辛い

2018/02/03(土)14時開演【公演名】春秋座 能と狂言 京都造形芸術大学内京都芸術劇場 春秋座 ・プレトーク: 片山九郎右衛門、松岡心平、渡邉守章. ・狂言「清水座頭」野村万作野村萬斎. ・能「三輪〜白式神神楽〜」 観世銕之丞(シテ) 森常好(ワキ)、深田博治(間)  藤田六郎兵衛(笛)、大倉源次郎(小鼓) 亀井広忠(大鼓)、前川光範(太鼓)

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最初の演目?「プレトーク」では片山九郎右衛門さんのお話をもっと聞かせてほしかった。こんなに弁舌さわやかなのだから半時間近い独演会形式が望ましかったのでは?

 

次に狂言「清水座頭」。私は初見だったが、いくら狂言がゲラゲラ笑うものばかりではないとはいえ、もう少し笑い、上品な笑いを誘う演出があってよかったのではなかかと思う。特に結末で願かけに清水寺をおとづれた男女が「結ばれる」場面では観客が素直にほほえみ、祝福の思いがこもる軽い安堵の息をもらす工夫がほしいところだ。

 

万作、萬斎の親子共演だったが、盲人、いや視覚障害者の身ごなしを表現する芸は萬斎さんは父親にまだまだかなわない。万作さんの杖をついて歩行する姿は表面的リアリズムを超越して芸能の表現の域に達している。それに対して萬斎さんはどう見ても晴眼者(目あき)の歩き方でしかない。今後の精進を期待しよう。

 

余談ながら、Professor 渡邉 Moriartyの発言に引っかかるところあり。世間では若い時分からイケメンとして広く認知されている)萬斎さんは(狂言の女の被り物 である)ビナン鬘がよくお似合いだとおっしゃった点。

 

う〜ん、そうかな?女性を演じる狂言方で一番愛嬌があって色気も漂わせるのは京都の名門狂言一家の茂山茂さんをおいて他にはないと思う。でもこれは私とProfessor Moriartyの個人的見解の違いでしかないかな?

 

ネットの能楽用語事典によると、

「びなん」:狂言の女役に多く用いるかぶり物。絹麻などを用いた長さ約5メートルの白布で、演者の頭部に巻きつけ、顔の両側に布を垂らして端を帯に挟む。狂言の女役の多くは素顔で演じるが、ビナンを用いることで、男性演者が女性を演じる不自然さがなくなり、また、狂言の女たちが持つ明るさや力強さが表現される。美男鬘、美男帽子ともいう。http://db2.the-noh.com/jdic/2012/11/post_342.html

 

さて今回の件6千円も払って期待していた能「三輪〜白式神神楽〜」なのに急用で狂言の後退席しなくてはならなかった。残念。

 

舞手もさることながら六郎兵衛ら囃子方の楽の音にふれたかったのにこれまた非常に残念だった。

 

ちなみにこの作品中に影を落としている「美輪」伝説は天の岩戸伝説や苧環伝説などが絡んでいて広大な神話的宇宙へと想像を誘うらしい。

 

中でも苧環(おだまき、つむいだ麻糸を巻いて中空の玉にしたもの)をめぐる伝説や説話は北海道から沖縄まで日本各地に伝わるそうだし、古代ギリシャアリアドネの糸も連想される。

 

夜毎忍んでくる<男>に当の娘がその正体を知ろうとして相手の着物に糸を通した針を刺しておく。(アイアドネの場合、糸が窮地を脱する手がかりになるのと違って)日本の苧環伝説は異性の訪問者の正体を知る手がかりとなる。さらに今回の三輪伝説に基づく能作品では三輪明神が<女体>とされているという複雑な構造になっている。作品に対するアプローチの手がかりがいくつもあって無責任に想像の翼を広げる分には面白いといえば面白い。

 

帰宅後youtubeで『三輪』能を見つけとりあえず満足できた。喜多流福岡喜秀会が平成8年9月大濠公園能楽堂(福岡市)で公演したものだ。シテが女性で藤木治子さん、ワキは坂笛 融さんだった。https://www.youtube.com/watch?v=9L8Eweq0KKo