烏丸遊也たちにもっと公演の機会を!

大衆演劇であれなんであれ芸能の「伝統」は排他的に維持するものじゃないはず。

「伝統」は生きている。廃れもするし、新しくよみがえる場合だってある。

 

大衆演劇の劇団という組織のあり方も新たな方向性を模索すべきではないか。

 

そうでなくとも大衆演劇界の衰退ぶりは隠しようもない状況だ。90%を超える劇団は旧態依然たる組織を維持し、100年前炭鉱労働者の慰安として誕生した近代の大衆演劇の公演内容を時代に合わせて発展させることもなく安穏と日々の舞台をこなしているありさま。

 

従来の大衆演劇を愛好してきた世代は止まることなく客席から「引退」し続けている。

それなら若い世代が交代しているかというと、彼らにはバラエティに富んだエンタメの選択肢がある。当然カビの生えた<大衆演劇に>なるものには見抜きもしない。

 

今現在三十歳前後の<芸>がある若手こそが新規に舞台のあり方を変革して現状打破してほしい。

 

ゲスト出演でその場をしのいでいる、たとえば烏丸遊也。自劇団外の有能なはぐれ者に声をかけて新たに一座を旗揚げできないだろうか。

ここでいう「有能なはぐれ者」とはたとえば、せっかく復帰したのにまたもや引退?してしまった一代新之助(元・三代目森川長次郎、松之助)、彼の弟さんの「竹之助」を誘いどうにかして舞台に立ってもらいたいものだ。

 

いろいろ業界の慣習などがあるだろうが、烏丸遊也と一代新之助とが手を組めば未来が切りひら消そうな気がする。誰が座長になるかなどは後の問題。月番で交代したっていいではないか。

 

嵐山金之助も寄ってきてほしいな。

 

劇団といっても結束を緩めにして座員それぞれが(舞台に立てるレベルの)力量を発揮しやすい体制を_作れないものだろうか。

 

そんな劇団体制があるものかと言わないで。部外者の勝手な妄想と切り捨ててほしくない。

『スリー・ビルボード 』と異色のアメリカ人作家フラナリー・オコーナーはホントに通じ合うのか?

難病(自己免疫性疾患「全身性エリテマトーデス」、彼女の父親も13歳の彼女を残して同じ疾患で死去)のため39歳で早逝したフラナリー・オコーナー (Flannery O’Connor, 1925-1964) は現代アメリカ文学の重要な作家の一人。

<作家紹介>https://www.georgiaencyclopedia.org/articles/arts-culture/flannery-oconnor-1925-1964

 

さて英文のネット映画評は Flannery O’Connor’s A Good Man Is Hard to Findを関連づける議論で溢れかえっている。

 

たとえば、 “ Watching 'Three Billboards' with Flannery O'Connor” (https://www.thegospelcoalition.org/article/watching-three-billboards-flannery-oconnor/) などなど。

 

中にはこんな極論を唱える批評家までいる。

Early in Martin McDonagh’s captivating film, Three Billboards Outside Ebbing, Missouri, one of the characters, Red Welby (Caleb Landry Jones) is seen reading Flannery O’Connor’s A Good Man Is Hard to Find. It is the beginning of an O’Connor-esque tale about grace and the grotesque, love and hate, healing and grief.Although the reference to Flannery O’Connor is brief, it is hard to imagine how this story, written and directed by McDonagh (In Bruges), was not influenced by O’Connor’s sense of grace rising from the most heinous examples of human iniquity. It is hard to watch this movie and not think of Francis Tarwater, the 14-year-old character of O’Connor’s novel, The Violent Bear It Away, “His black eyes, glassy and still, trudging into the distance in the bleeding stinking mad shadow of Jesus.”Indeed, the shadow of Jesus, seems always to be in the background of this dark, intense, and sometimes humorous film.

<出典> https://aleteia.org/2018/02/24/three-billboards-outside-of-ebbing-missouri-a-movie-to-enrich-your-lent/

 

<おまけ> 作者の自作 (日本では『善人はなかなかいない』 A Good Man Is Hard to Find ) 朗読(38分) https://www.youtube.com/watch?v=sQT7y4L5aKU

 

たしかに本作に映し出される悪意、敵意、人種偏見と暴力にまみれた南部の田舎町の世界はオコーナーが(読者を深刻な不安に陥れるような)苦いユーモアやアイロニーを交えながら好んで描く人間性の闇との共通性を強く感じさせるかもしれない。

 

しかし『スリー・ビルボード 』ではカトリックの宗教観が身に染みついていたオコーナーが生涯憑かれたように手探りで求めていた<神>の存在が意識されていないように思える。だからといってマクドナーがオコーナーに比べて劣るというのではない。両者はたがいに異質の世界なのだ。

 

私は小さな断片をとらえて異質の二者を重ねるという論調にはついていけない。 劇中で脇役の登場人物がオコーナー作『善人はなかなかいない』を手にしているからといって、それが必ずしもテーマ的に重要だとは限らないと思うのだが。 あれやこれやのシンボルめいたものがあるからといってそれらを全て有意味だと思い込むのは(昨今の文学批評ではもはや顧みられなくなったsymbol huntingのような気がする。

 

創作物の作家ではないが、ノンフィクション系のライターがsymbol hunting やsymbolism huntersに辟易してこんなことをいっている。

The silliness of looking for symbolism in literature – John T. Reed https://johntreed.com/blogs/john-t-reed-s-self-publishing-blog/64283779-the-silliness-of-looking-for-symbolism-in-literature 日付:2015/09/16

 

オコーナーとの表面的共通性とは無縁なところでマクドナーは独自の視点で人間社会を活写しているように思える。

 

正直なところ私にはこのマクドナーが選んだ独自の視点を明快に分析する力はない。それでも性急にオコーナーと同一視するかのような議論には同調できない。

 

ロンドンの大手の劇場でも次々と上演されるほど著名な劇作家でもある本作の監督M. マクドナーはここ10年ほど映画製作に力点をおいている。彼が『スリー・ビルボード』で見せる語り口はアメリカ社会の<よそ者>というか部外者の視点があってこそ成り立つのかもしれない。ましてやアメリカ合衆国の中でも特異な歴史を刻んできた南部は彼にとって遠い異国でしかないはずだ。

 

ロンドンで生まれ育ったのはたしかだが、マクドナーは純粋な英国人ではない。英国在住のアイルランド人を両親に生まれており、マーチンと兄のジョンが成人するまで四人家族だった。貧困にあえぐ故国アイルランドより生活がしやすいからと英国に移住した両親だが、建設労働者だった父親が定年を迎えると両親はさっさとアイルランドへ帰ってしまう。ロンドン残留を選んだ二人は自活せざるをえなくなったようだ。彼らは中等教育をなんとか終えた程度でまともな仕事も見つからず生活保護に頼ったりしたとか。やがて兄ジョンは奨学金を得て南カリフォルニア大学で映画脚本を学ぶために渡米。ひとりぼっちのマーチンの二十代前半の生活はかつかつでいつとはなく興味をもち出した戯曲執筆に萌えていたらしい。

 

両親の帰郷先は父の故郷ゴールウェイ州コネマラ(アイルランド西部、より正確には西海岸の貧しい漁村らしい)。この地域は昔から漁業か農業しかできないアイルランドでも最も貧しい地域として知られる。(私自身十年前に訪れたが、海岸沿いのゴルフ場だけが売りの小さな町だった。

(画像あり:http://www.connemaragolflinks.com/

 

兄弟も子供時代から何度もこの父の故郷を家族で訪ねていたそうだ。

 

<参考>マクドナーの家庭環境についてはアイルランドの演劇批評家(Fintan O'Toole)がアメリカの文芸雑誌『ニューヨーカー』(2006年3月6日)に載せた文章に詳しい。そればかりでなくマクドナーの人となりや芸術的指向性もうかがえる名文だ。https://www.newyorker.com/magazine/2006/03/06/a-mind-in-connemara

<蛇足>『ニューヨーカー』の読者層とは?一般的インテリ層といえそう:http://xroads.virginia.edu/~ug02/newyorker/audience.html

 

そのようにアイルランドの匂いがきつい生活環境に育った監督が自作の舞台劇でたびたびアイルランドの(悲惨な貧しさと侘しさにまといつかれた)寒村を描くのもうなずける。

 

余談ながらマクドナーの劇作品の一つにアイルランドの極度に閉塞した空気に包まれるアラン諸島を舞台にした舞台劇The Cripple of Inishmaan (1997年、『ハリポタ』で有名になった Daniel Radcliffが主演、crippleは日本語にするとケチつける輩が多そうなのでこのまま放置)がある。

<翻訳上演参考サイト>https://www.theatermania.com/new-york-city-theater/reviews/the-cripple-of-inishmaan_68306.html 日本での上演に関しては http://www.umegei.com/schedule/527/ http://blog.livedoor.jp/andyhouse777/archives/66214163.html

 

アラン島はゴールウェイ湾の沖合にある。The Cripple of Inishmaanでは設定に歴史的事実をとりこんでいる。時は1934年、ハリウッドの映画監督ロバート・フラハティー (Robert Flaherty,1884-1951年)によるセミ・ドキュメンタリー映画『アラン (Man of Aran)』に出演させてもらおうと企てる。ビリーにすればハンディだらけの自分の境遇に加えて因習にがんじがらめで息が詰まりそうな島の生活から脱出する手立てがほしいのだ。おまけに彼は貧しい孤児で身体障害者。教育もろくに受けていないという何重ものハンディを負っている。このままでは未来は開けるはずもない。当人にすれば行きながら死んでいるに等しい状況なのだ。

 

フラハティー監督の映画で主役の漁民夫婦を演じたのはプロの俳優なので純然たるドキュメンタリーではないものの漁民たちの厳しい日常をうかがえる映画『アラン』の動画の一部はこちら→ https://vimeo.com/42366691 https://www.youtube.com/watch?v=Pc1SkNsYHig

全編(74分)も視聴可能。https://www.youtube.com/watch?v=rIWYXnxz968 劇映画仕立てではないので退屈といえば退屈だが、漁民の生活の一面がうかがえる。失礼なことを承知でいえば、まるで原始時代みたいだと言う印象。

ミュージック・ビデオ風に紹介される現在のアラン島: https://www.youtube.com/watch?v=spasm30qASE

 

ちなみにアイルランドの代表的劇作家の一人ジョン・ミリングトン・シング(John Millington Synge, 1871-1909年)も似たような(つまり過酷な)状況設定を好んで選んだ。漁民が常時晒される水難事故の危険性がある。他方不順な天候と痩せた農地は飢饉を招きやすい。

 

ダブリンで生まれ育ったシングだが、ダブリンの都会的文化とは真逆といっていい素朴なアラン諸島の人と風土に強い愛着をもっていた。

 

ただし劇作家としてのシングもマクドナーもそういう過酷さは常にエスニックなユーモアと複雑に混じり合っている。

 

マクドナーの場合複雑かついびつに変化してきた社会を意識せざるをえない。シングの時代にはなかったハイテク文明が世界をほとんど覆い尽くしながら人々の生活には極端な格差が生じている。作者がそういう社会と人間を見る目は純粋に悲劇が映るわけではない。アイルランド民衆に伝統的に受け継がれてきたユーモア、いやブラック・ユーモアの精神は過去に比べて一層ねじれの度合いがましている。現代の観客にまがまがしい「死」の予感に通じるような不安と恐怖を引き起こさずにはおれないはずだ。

 

実際マクドナーの劇作品はその個性的なユーモア感覚をつぎのように表現されることが多い。

black comedy, a macabre joke, macabre tragi-comedy, dark comedy, macabre humor, gallows humor

 

最後にあげた「gallows humor(絞首台のユーモア)」は死刑執行間際の犯罪者が死の恐怖におののきながらも冗談を口にするというなんとも皮肉な状況をさす。macabre humorのmacabreは中世ヨーロッパに流行した寓話「死の舞踏la danse macabre」に関連づけられることの多い語で死の予兆として受けとられてきた。

 

おっと、マクドナーとオコーナーとの違いを指摘するつもりが、長らくオコーナーを置いてきぼりにしてしまった。話を元にもどさなくては。

 

たしかにオコーナーの小説もマクドナーの戯曲や映画作品同様暴力性に染め上げられてはいる。そのためdark comedyやdark humorと表現されがちである。 だが、作中に読者を死の恐怖に追いやるような仕掛け(macabre humorとかgallows humor)はなさそうだ。

 

繰り返しになるが、劇中で登場人物の一人が手にする(読んでいる)オコーナーの著作がはたしてマクドナー映画のテーマを浮かび上がらせているだろうか。とてもそうは思えない。マクドナーは21世紀を生きる批評意識の強い芸術家である。諸々の文化的「伝統」に対しては彼なりの敬意を表しているだろうが、手放しで称賛しているわけがない。

 

『スリービルボード 』をめぐるアイルランドとアメリカの作家の重ね合わせについて Irish Times 紙の映画批評家 ドナルド・クラークは疑ぐりの目を向けている。

 

氏の意図を私なりに解釈してみよう。アイルランド人作家の場合自虐的皮肉が混じるかどうかは別にして自国の文化的伝統を反映するステレオタイプ化された事物を作中で披露する傾向が強い。劇作家としてのマクドナーもその例外ではない。アイルランド人批評家もそういう事情をよく心得ていて適宜聞き流したりする。ところがアメリカ映画でオコーナーのようにアメリカの個性的な作家となるとアメリカ人は自国の文化的アイコンに過剰な反応を示すではないか。

 

無教養なRed Wilby君(看板広告会社支店長?)が文学作品を読んでいても知的な雰囲気はほとんど醸し出されないとクラークはいう。だからこの読書のショットはオコーナーの文学性とは無関係だ。

<原文多めに引用> At any rate, arguments for heightened reality have not silenced American commentators who feel that the London-Irishman does not have the local knowledge to attempt such a cross-section of middle-America. Irish critics have been more tolerant of McDonagh’s deliberate dialling up of national stereotypes in his celebrated plays. In that case a conversation is being had with literary history. Having one character conspicuously brandish a Flannery O'Connor novel does not have the same effect in Three Billboards. The intellectual atmosphere feels thin.(下線は私が引いた。)

(注記)文中middle-Americaという表記があるが Midwest [合衆国中西部]というべきところを氏は意図的に言い換えているのかな?

<出典>  ‘Three Billboards’ is not suffering a backlash: some people just didn’t like it https://www.irishtimes.com/culture/film/three-billboards-is-not-suffering-a-backlash-some-people-just-didn-t-like-it-1.3366972

 

『スリービルボード 』の映画批評をいくつかのぞいてみて思うのだが、symbol huntingに血道をあげるのはうんざりだ。

早春の丹波篠山で能・狂言を楽しむ

第45回 篠山能

平成30(2018)年4月14日(土曜)

13時開演

重要文化財 春日神能舞台 (兵庫県篠山市)

前売り一般 5,000円(当日5,500円)

演目・出演:

能 「半蔀(はしとみ)」 梅若 万三郎

狂言「寝音曲(ねおんぎょく)」 茂山 あきら

能 「鉄輪(かなわ)」 大槻 文藏 

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昨年に続いて二度目の篠山能観劇。前回は終演近くになって雨が降り出したが、今回は最初の演目が終わりかけた頃から小雨がぱらつき始めた。本格的な雨ではなかったが、山沿いの町篠山特有の(よそ者には若干ながら)肌寒さと相まって絶好の観劇日和にはならなかったのが残念。でも公演内容は見応えがあった。

 

「半蔀(はしとみ)」はいうまでもなく『源氏物語』の「夕顔の巻」に材をとっている。アサガオとは別系統のウリ科ユウガオ(夕顔)は一晩花開いて翌朝にはしぼんでしまうことから儚さを連想させてきた。『源氏物語』の同名登場人物もそういうイメージで描かる。ある種の気まぐれから源氏に思いを寄せられた夕顔の君は束の間の逢瀬のあと物の怪にとり憑かれて生き絶えてしまう。この怨霊の正体は一説には源氏に激しい恋心を抱く六条御息所といわれたりもするが、物語中では明かされない。

 

源氏の一瞬の寵愛に幸せを感じた夕顔も突然の死で冥界へ追いやられる。死後無念な思いに苦しむ夕顔は現世を訪れ、旅の僧による弔いのおかげでようやく心の平安を得る。

 

能楽では高齢男性が気品溢れる若女の能面をまとって舞うことはよくある。今回の1941年生まれの三世梅若万三郎さんはたしかににそつなくこなされたことには異論はない。 とはいえ儚さの象徴のような夕顔の存在を浮き彫りにできた華道家については少々疑問が残る。

 

古代建築用語「半蔀」について 言わずもがなかもしれない付け足し的語注。 板の両面に格子を組んだ戸。長押 (なげし) から吊上げる。上下2枚に分れ,上半分だけ上げるものを半蔀 (はじとみ) という。寝殿造,住宅風仏堂,神社の拝殿などに用いる。(https://kotobank.jpより)

 

能楽謡曲)では濁音を排して「はしとみ」と読むようだ。

 

次に観客が感じる「半蔀」の重さを癒すような笑いの溢れる狂言「寝音曲」はいつもながら太郎冠者の頓知、機知に溢れる様を楽しませてくれる。太郎冠者日頃から感じている主人に対する不満、対抗心を下地にしてなんとも心憎いユーモア精神満載のワル知恵を発揮するも少々度が過ぎて大失敗。

 

主人が太郎冠者に向かって人づてに聞いたところではお前は歌上手だそうだからぜひ今ここでいい声を聞かせろと迫る。太郎冠者にしてみると主人に歌が上手いことがバレるとしょっちゅう客席などで歌う羽目になると面倒だとワル知恵を働かす。女性(芸妓あるいは妻?)の膝枕でないと歌えないと屁理屈をつけて断るものの主人は自分の膝を貸そうと言い出す。仕方なく膝枕をしている姿勢の時はまともに歌い、起き上がるとわざとしゃがれ声や奇声を発してみせる。寝たり起きたりの姿勢を繰り返すうち間違えて逆転。寝ているときにこそ美声を聞かせてしまう。

 

先月の神戸能楽堂では同じ演目で茂山忠三郎さんの名人芸を楽しんだが、今回もベテラン狂言師茂山あきらさんの見事な芸を見せてもらった。

 

しかし寝たままの姿勢で歌唱できる狂言師の方々には感心するしかない。そのためには単に才能だけでなく地道な修練がなくてはならないに違いない。名人芸を見せていただいて観客としては感謝の一語に尽きる。

 

また主人役のベテラン狂言師網谷正美さんの味わい深い演技もありがたい。

 

最後の演目「鉄輪」は名人大槻文蔵さんの登場。1942年生まれで能楽師として大ベテランだが、今回文蔵さんの動きは夫に裏切られた女性の姿を浮き彫りにしていたと思う。物語の背景で彼女の元夫は別の女性に乗り換えたことになっていてこその二人に対するはげしい恨みが静かな動きの中で視覚的に描かれていた。上半身の衣装の色が若干くすんでいながら鮮やかな橙色であること、そして元夫が新しく娶った後妻をひと束の髪で表象し、それをズタズタに切るかのように手刀を当てる様。このような視覚的表現で彼女の思いが鋭く観客の心を打ったのではないか。

 

文蔵さんで思い出すのは昨年5月に奈良県桜井市にある多武峰(とうのみね)の談山神社で催された『談山能』で演能中に転倒されたことだ。神社の祭壇前を能舞台に見立てているが、橋掛りに見えなくもない短く低い欄干があり、能面をまとって視野が狭められた状態で登場した文蔵さんはその欄干の位置を見損なって大きく転倒された。観客咳が一瞬凍りつくが、すっくと立ち上がりそのまま何事もなかったかのように舞い続けられた。この椿事に肝をつぶした一方で能楽師の日頃の鍛錬のすごさに感じ入った次第である。

 

来年が楽しみだが、うららかな春日和であることを期待する。しかし芸能を守る由緒ある神社での祭り事の一種である演能なのでポカポカした日差しばかりより多少とも冷気と悪天候も混じる方が観客の心を引き締める効果があって好ましいのかもしれない。

2018年春、パリ・オペラ座バスティーユに再度新風を吹き込むミルピエ

去る3月下旬(2018年)生まれて初めてパリ・オペラ座を訪れた。バレエとオペラに関してはまだ初心者のファンだが、第一の目的はバンジャマン・ミルピエ(Benjamin Millpied1977年生まれ)が振付を担当した舞台を観るためだ。迂闊にも知らなかったが、日本でも人気のあるマチュー・ガニオオペラ座エトワール)をはじめオペラ座のトップ・スターたちが交代で今回の2本立て公演『ダフニスとクロエ』(ラヴェル作曲、古代ギリシア恋物語に基づく)および『ボレロ』(ラヴェル作曲)の主役にキャスティングされた(2月24日〜3月24日)。

 

配役詳細: https://www.operadeparis.fr/saison-17-18/ballet/benjamin-millepied-maurice-bejart/distribution#head

 

残念ながら私には両演目の従来の振り付けとの差異を論じることはできない。しかし素人目にも舞台の清新さは感じられた。とりわけ男女共衣装は薄い生地ながらも身体を拘束するような伝統的衣装を廃して白を基本カラーに身体をふわりと覆うようなものだったことが印象深い。

<参考動画> 何年版かは不明だが、今回見たのと似ているーhttps://www.youtube.com/watch?v=0_N60WyJcLM

 

素人の勝手な連想にすぎないが、モダン・ダンス生みの親と言われるイサドラ・ダンカン(Isadora Duncan、1877-1927年)を思い出した。

参考サイト:http://www.duncandancers.com/about.html

 

後半では光の三原色、赤、青、緑を少しくすませた色合いの衣装で男女が踊る。

<参考動画>

2018年版?—https://www.youtube.com/watch?v=7KNpshI0T1g

 

こういう衣装のシンプルさがシンプルなストライプを基調にした(現在80歳になる)ダニエル・ビューレンによる舞台美術と相まって情熱に溢れながら清々しい出来栄えになっていた。

<参考動画>

2014年版—http://www.ina.fr/video/5258740_001_030

 

ちなみにフランス語の批評(google翻訳で英語に転換するとかなり読めると思う)は概ね肯定的。だが、英語で書かれた批評を一つ見つけたが、これは辛口だ。世間に広まった名声に見合うだけの仕事ができていないという。

https://www.fjordreview.com/marie-agnes-gillot-paris-opera-ballet/

筆者はJade Larineとあるが、ペンネームだろうか。同名の人がパリ大3大学の比較文学専攻のポスドク(博士号取得後で求職中の研究者の卵)として見つかったが、同一人物かどうか不明。

 

話を元に戻そう。質素、簡素、清新な色調は(突飛なことを言うようだが)チベットの僧侶の衣装や民族衣装を思い起こさせる。

 

このような根拠の薄い連想を元に発言するので誰にも信用されそうにないが、『ダフニスとクロエ』のフィナーレではミルピエ自身がダンサーの一員として参加していて驚いた。やはり彼の踊りはひときわ精彩を放っていたと思う。とりわけミルピエの姿はチベット僧ではないが、どこかの国の<修行僧>に見えた。一部の隙もないほど自己を厳しく律する姿勢が印象に残る。

 

このようにミルピエはダンスの極地を追求する宗教的求道者を思わせる。その点で旧ソ連ウクライナ出身のバレエ・ダンサー、セルゲイ・ポルーニン(Sergei Polunin、1989年生まれ)に似ている。ポルーニンの存在はドキュメンタリ映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』(2016年)で日本にも紹介された。

<参考動画>

https://www.youtube.com/watch?v=FLcSAJq_HSg N. Osipova, S. Polunin - Giselle(6) 24.07.15. Moscow

https://www.youtube.com/watch?v=9eEhkaNRecw 

 

ところでヨーロッパとは必ずしも同質ではないアメリカで伝統的バレエの訓練を積んだミルピエだが、彼の資質が大きく影響してモダン・ダンスへと方向転換したようだ。もちろん伝統的バレエに対する関心と敬意は失ってはいない。このことは彼が2014年アメリカから故国に呼びもどされて伝統志向の強固なパリ・オペラ座のバレエ団芸術監督を引き受けたことからもわかる。また一年余りでその座を退きながらも今回オペラ座バレエ団を振付けた事実にも表れている。

 

ミルピエはフランス、ボルドーの生まれでバレエ・ダンサーだった母の影響で幼少期からバレエを始めている。十代半ばでNew York City Balletに関係があるThe School of American Balletの夏期講習で渡米。フランス流バレエからスタートして彼だが、アメリカン・スタイルに強く引かれたらしい。その後すぐにフランスの奨学金を得てこのバレエ学校に正式留学。まだ10代後半のミルピエだった。1995年、二十歳になる少し前New York City Balletに入団を許可される。それからわずか7年ほどでバレエ団ダンサーの最高位「プリンシパル」(フランスの「エトワール」に相当)を授けられる。

 

それから約10年間バレエ。ダンサーとして活躍する一方で振付けにも情熱を燃やす。彼の活動領域はフランスやスイスのバレエ界、さらにはメトロポリタン・オペラの振付けにも及んだ。おそらく伝統に固執せず新しい地平を切り拓くのを信条とするアメリカのバレエ界からの刺激があって彼本来の創造性が活性化されたにちがいない。

 

成長し進化する彼の創造性は比較的自由で許容性の高いアメリカのバレエ界でさえも息苦しく感じたのだろうか。2011年長年親しんだバレエ団からの退団意思を表明。

 

同年、信頼の置ける仲間たちとL.A. Dance Projectを設立する。モダン・ダンスの未知の領域の開拓に邁進。

 

その輝かしい才能と活躍振りに注目した伝統重視のパリ・オペラ座がミルピエをバレエ団芸術監督という重責を負うポジションに招く。

 

ミルピエも挑戦心を掻き立てられたのだろう、期待に応えるように真摯に努力したもののバレエ団最高幹部諸氏はバレエ団全体を説得できていなかったらしい。結局ミルピエは1年余りで当人にとって無念にも芸術監督退任となった。だがバレエ団全体の意思が彼を支持しなかったのならその立場にとどまる意味がないし開拓精神溢れるミルピエにとっても不幸でしかなかっただろう。

 

現在ミルピエはアメリカにもどりL.A. Dance Projectを続行しており、国外での舞台でもダンサー兼振付師として活躍中だ。

Three Billboards outside Ebbing, Missouri (2017) はただの推理ものではない。

この映画の真価はGolden GlobeやらOscarにノミネートされたり受賞するかどうかという問題とは無関係である。

 

人間失格というべき男に娘をレープされた上殺され、警察は警察で真犯人をあげる能力も意欲もない。映画を観るまで、いやスクリーンに展開する物語の途中までそんな現実に怒れるママ(ミルドレッド)が地元警察を私的に告発し、犯人を追求しようとするリベンジものの映画かと思っていた。

 

題名にある「3枚の看板」にはグズな捜査指揮しかできない警察署長を告発するメッセージがしたためられている。簡潔に、実に簡潔に、しかも名誉毀損で告訴されないよう細心の注意を払った上で出来上がったメッセージ。「致命傷を負わされながらレープされた」、「なのに犯人があげられない」、「どうしてなの、責任者ウィロビー署長殿?」。

 

これからいよいよ女戦士の復讐が始まる!

 

かと思いきや、この映画はエンタメ作品の形式を踏まえながらもお手軽なモラルが一切通用しない世界を描いている。そこが面白いと思う。

 

この3枚の看板は主人公の家のそばに立っているのだが、そこは人も車も滅多に通らないとんでもない町外れなのだ。とはいえ告発対象の警察は意識せざるをえない。

 

真犯人を見つけ出せという母の訴えを伝える看板は地元のコミュニティ、アメリカ社会、いやそれどころか人間の実態、実相を断片的ながらも照らし出す効果を発揮する。

 

主人公の思いがこもる3枚の看板はそれ自体が重要なのではなく人間の姿をあぶり出す一種の<触媒>の働きをしている。つまりレープ・殺人犯をつきとめることが映画の主題などではない。

 

作品を貫徹する本筋というべきものが意図的に避けられている。だからたとえば某映画批評は的外れに思える。曰く「物語中心主義の作品は、あらすじの紹介だけでもネタバレのリスクを伴う」。この作品は「物語中心主義」とは対極にある。ネタバレの心配は皆無である。

 

もはや娘を殺された母の復讐譚にとどまってはいない。社会的正義という姑息なイデオロギーでは把握できない多面的、複層的な人間性がちらほら見えてくる。

 

南部の保守的人間像はリアルな描写ではなくあくまでカリカチュアなのだ。無教育な貧乏白人の住む地域だから極端な差別意識や偏見が人間性のかけらもない犯罪を生み出すのだとこの映画は主張するわけではない。このようなプア・ホワイト像はアメリカ社会ばかりでなく全世界に広まってしまった通念、いや薄っぺらな認識に過ぎない。そんな見方では人間の実像は見えない。

 

ステレオタイプ化した認識や価値観は社会というか世間に定着しやすい。誰しも楽チンに知識を得たいものだ。だがそういう認識や価値観と称されるものにはかなりの程度嘘が混じることが多い。物事の真相を突き詰めようとすれば一面的見方を避けて多角的に見るべきだろう。人間世界の有様は割れたガラスのギザギザになった断面みたいに実にとらえどころのないものだどいう気がする。

 

主人公もプア・ホワイトの一人だ。しかしある面ではプア・ホワイト的価値観に挑戦せざるをえない状況にいる。孤軍奮闘する女戦士のイメージとはほど遠い。そもそも主人公の家庭生活は順調ではない。崩壊寸前というべきか。夫は家族を捨て小娘を愛人にして別居。母親の元にいる息子も両親に対して微妙な態度をとる。そして後に殺害される娘の生前の姿がフラッシュ・バックで映し出されるが、母親との関係は険悪だ。十代の子どもに全責任を負わせられないにしてもいわゆる「ビッチbitch」の予備軍だ。

 

本作の監督Martin McDonagh (1970年生まれ、英国とアイルランドの市民権を保持)映画脚本、監督であると同時に劇作家としても活躍するだけあってテーマに対するアプローチが一面的ではない。当然Deus ex machine(機械仕掛けから登場する神)よろしく登場人物の誰かがなんお前触れもなく突然絶対的権威、権力を発揮して紛糾する事態を一挙に解決することがない。さすが手練れの作家だけのことはある。

 

主人公はNew Yorker誌の映画評 https://www.newyorker.com/culture/culture-desk/the-feel-good-fallacies-of-three-billboards-outside-ebbing-missouri での指摘とはちがって「女Rambo」とは描かれていないない。Ramboなら決意は変わらないはずだ。ところが結末でかつて娘の殺害者捜査をめぐって仇敵の関係にあったディクソン元警官とともに真犯人に見立てたアイダホ在住の男を成敗に向かう車中で抹殺する決意が揺らいでいることがわかる。印象に残るエンディングだ。これではRamboになれない。

 

欧米、ことにアメリカ社会ではRamboといえばまともな教育も受けず差別意識や偏見まみれの下層階級の象徴みたいなイメージでとらえられる。いくつか英米の映画評を読んだが、Ramboに負けず劣らずの偏見まみれのディクソン警官を否定的、それどころか除去すれば作品自体がかなりましになるとまで主張する向きもある。

<見本> “Why Three Billboards Outside Ebbing, Missouri is so controversial” https://hellogiggles.com/news/why-three-billboards-outside-ebbing-missouri-controversial/

“How Three Billboards went from film fest darling to awards-season controversy” https://www.vox.com/2018/1/19/16878018/three-billboards-controversy-racist-sam-rockwell-redemption-flannery-oconnor

 

しかしこういう視点からの映画評は批評の自滅につながりかねない気がする。というのも作品中の価値観、とりわけモラルや政治観を完全無欠な聖人のそれで断罪するのは納得しかねる。極端な理想主義的平和主義、平等主義などで「人間」を語れるものかどうか疑わしい。

 

ちなみに昨今の日本では権力を批判するのが正しい道だという<偏見>がまかり通っているように思える。権力の座にいる誰でもいい誰かさんを<悪者>にする。ほとんど<スケープ・ゴート>ごっこ遊びでしかない。

 

人間はもっともっと複雑怪奇だ。膵臓癌で余命短いことが原因で自殺するウィロビー署長の後任として登場する頼り甲斐がありそうな黒人男性も南部の偏見まみれの田舎町の不正を断固正すというようなヒーローとは描かれない。

 

人間の多面性に鋭い視線を向けるこの映画の魅力の一つはシリアスとコミカルな側面が同居する点だ。息子を高校まで送ってきた主人公の車に発泡ドリンクを投げつけた犯人と疑える高校生男女の股間を蹴り上げる主人公。

 

またアイロニーも効いている。たとえば署長が法秩序の維持に関心がないだめ警官ディクソン宛の遺書で「法執行者」は人を愛する心が肝心だと愛の功徳を説くくだり。こんな形で人を愛せよと説かれてもはいそうですかと返せないはずだ。

 

もう一つ純粋なアイロニーというより若干暖かい理解の心がこもるアイロニー。様々な意味で差別意識まみれの警官ディクソンが実はホモセクシュアルであることがほのめかされるのが所長の訃報を聞いて先輩警官と抱き合って泣く場面。監督の人物描写は複層的で面白い。

 

このように映画が描き出す危機的状況で垣間見える人間の多面性こそこの映画の魅力だといえる。

 

魅力はもう一つある。The Last Rose of Summerアイルランド民謡『庭の千草』)をはじめとする劇中歌だ。私には未知のカントリー・シンガーTownes van Zandtの歌うBuckskin Stallion Bluesが印象に残る。https://www.youtube.com/watch?v=zJN5W-EreVs

劇中歌一覧はこちら:

https://www.tunefind.com/movie/three-billboards-outside-ebbing-missouri-2017 (曲の冒頭部分のみ視聴可能)

ソプラノ歌手Renee Flemingが歌う The Last Rose of Summer

https://www.youtube.com/watch?v=OzYUvAytrgI

劇中歌全部まとめたサントラ:https://www.youtube.com/watch?v=h4EfNhK4Ep0

 

ただしこのような終始物語の背景に流れる一見牧歌的な音楽は「保守的な南部」特有の文化、感性にいかにもぴったりだとして挿入されているのではないと思われる。こういう牧歌性は映画に頻出する暴力性にまったくそぐわない。牧歌的音楽はいわば不協和音を生じさせる働きをする。あえて異質のものを並存させることで「南部」に関するステレオタイプなものの見方に疑問を提起しているに違いない。通念に異議を唱えることは一種の異化効果だ。観客に従来とは異質の認識を促している。

 

最後に余談めいた話だが、脚本の元ネタにもなったらしい現実の事件がある。場所は同じミズーリ州の田舎町Holts Summit。2003年のこと、Marianne Asher-Chapmanの娘Angie(作中の少女と同名だが年齢は20代前半の既婚者)が突然行方不明に。当初Angieの夫が妻は男と駆け落ちしたと主張。後に自分が誤って妻をベランダから転落させたが、それはあくまで事故だと主張する。Angieは転落死したという。突然のことに判断力を失った夫は妻の遺骸を遠く離れた川に運んで沈めたと主張する。裁判の結果懲役7年だったが、4年後に釈放される。

 

一方遺体の所在は謎のまま。母Marianneは娘の生存の可能性に一縷の望みを失わずにいるそうだ。

<参考サイト> “Two billboards outside Holt Summit, Missouri: the true story” https://www.theaustralian.com.au/arts/in-depth/oscars/two-billboards-outside-holt-summit-missouri-the-true-story/news-story/135867a3ac066b4c0bd1e8e2f2a73d08 https://www.youtube.com/watch?v=IL76oS6CdiE http://www.news.com.au/lifestyle/real-life/news-life/meet-the-reallife-mother-behind-the-heartbreaking-three-billboards-story/news-story/99659bd632a1bacb57e8c0a6ed7cd6ed?from=rss-basic

パリで見たハイテク活用の人形劇

2018年3月下旬パリに1週間滞在。

 

ホテルの近所にあるカフェで朝食をとっていて店のそばにある人形劇場の看板が窓越しに見えた。興味が湧いて劇場をのぞいて見たが、公演時間帯でないので扉が閉まったまま。

 

そこでネット検索したところ通例の人形劇ではなく様々な物体を生き物、生命体に見立てるかなり実験的な舞台作りをしているらしい。 会場はLe Théâtre Mouffetard (住所73 rue Mouffetard, 75005 Paris) http://lemouffetard.com/

 

24日(土)の席がとれ会場へ出向いてびっくり。来場者の大半は10歳未満と思える子どもと少数の付き添いの大人。この作品は数年前からフランス 各地で上演されていて子どもたちに大人気らしい。

 

もっと驚いたのは最初中国系フランス 人かと思えた人形使い?の女性が冒頭で日本語を話したことだ。 航空機の機内放送などでよくあるように電磁波を発するスマホなど電子機器はこれから始まるショーで使う機器を狂わせるおそれがあるので電源オフにするように私以外全員フランス 人と思える観客に日本語で注意する。

 

えッ!観客は日本語を理解できるの?そんなことありえない。 案の定誰もその警告を行動に移さなかった。

 

後日このショーを考案し演出するMathieu Enderlin氏がネットで公開している文章を見てもここで日本語を使う必然性にはまったく触れていなかった。人形劇を楽しむつもりの子どもにもあるだろう予定調和的な感覚を崩して未知の世界を新鮮な目で楽しんでほしいという演出家や演者の期待がこめられているのだろうか。

 

私が見た演目はCubix。Cubeといえば正六面体。ちょうどサイコロの形だ。この英単語の複数形はcubicsだが、それをオシャレ?に変形させてcubixかな。

 

ちなみに cubix というと15年ほど前に製作され海外でも評判になった日本初のアニメ『さいころボット コンボック』(英語題名はCubix: Robots for Everyone)を連想させるが、関係なさそう。

 

実際舞台で使われたのは1辺が10センチくらいのサイコロ状もので、それを二人の女性が数十個随時並べ替えたりしながら光のマジックのようなことをして見せるショーだ。Cubicというサイコロ型のパペット(?)の群を操るのが日仏のご両人、望月康代 (Yasuyo Mochizuki) とオーレリ・デュマレ(Aurélie Dumaret)。(デュマレさんは頭を丸刈りにしているので男性かと思ってしまった。)

 

1時間ほどの舞台。複数のcubicがスクリーンになっているのか淡い色が現れたりする。とりわけ興味を引くのが舞台に立っている二人の女性の顔がそれぞれ20個前後のcubicにくっきり映る。一部のcubicを外すとその部分は背景の黒幕が見えるだけ。二人は百面相ぽい表情で観客の子どもたちを喜ばせる。最後にキュービックでいびつな形の塔を組み上げる。微妙な安定を保つ塔。塔の構成要素cubicをいくつか抜いて見せ観客をハラハラさせたりする。ゲームでありそうな積木くづしみたいなものか。こういう具合で人形劇よりマジック・ショーに近い。

 

言葉で説明するより過去の同様の内容の公演がいいとこ取りで3分間だけyoutubeで見れるのでぜひご覧いただきたい。 “CUBiX Teaser” https://www.youtube.com/watch?v=jfKSTk3b0aw

 

場内の子どもたちには大受け。しょっちゅう笑い声が響いた。 サイコロ型cubic群に投影される鮮明な映像がどういう仕掛けで現れるのか当初わからなかったが、後面投影 (rear projection) 映写技術を利用しているにちがいない。後面投影は映写機の位置がスクリーンの全面、つまり観客の側ではなくスクリーンの背後なのだ。最近よく見かけるがビルの壁面とか窓ガラスをスクリーン代わりにコマーシャルなどのビデオが映し出される。あれと同じだろう。

後面投影参考サイト: https://www.e-tamaya.co.jp/html/faq/projector/503.html http://theaterhouse.co.jp/p_rear/item_top.html#film-list

 

ただ舞台で使われていたのは大型スクリーンなどでない。先に書いたように1辺が10センチ程度の手のひらに乗るサイズのサイコロである。公演の規模から推測して高価な仕掛けを使うとは考えられない。

 

ネット検索で知ったのだが、厚手のトレーシング・ペーパーだとクリアな映像を写すスクリーンになるそうだ。トレーシング・ペーパーだと安く購入できるし、細工もしやすい。

スクリーンの素材参考サイト: https://nichibun.net/case/project/index.php

 

しかしスクリーンの役目を果たすにはほとんど厚みのないものでないと後面投影される映像が映らないのじゃないか。ところが立体的に組み立てたトレーシング・ペーパーが後面投影のスクリーンとしてりっぱに機能することが次のyoutube動画で納得できる。 「リアプロジェクションマッピングを試した【トレーシングスクリーン】」 https://www.youtube.com/watch?v=7ojzRUCpXWQ

1分24秒の時点で現れる高層建築らしい立体物に後方から投影される映像がくっきり映し出されている。

 

一見高度なテクノロジーが随分身近な場面で(おそらく)安価に効果的な映像効果、いや舞台効果を生み出しているではないか。

 

私の無知を自覚させられたことはさておいてハイテクが演劇の進化に役立っている。今時の子どもたちはそれを当然のこととして受け入れているようだ。

 

しかし考えてみれば、後面投影の技術は随分前から屋内、屋外を問わず大規模なコンサートなどでも利用されている。我が身の物知らずぶりが恥ずかしい。

大衆演劇界ではおそらく日本一の人気劇団「都若丸劇団」を久しぶりに観劇

2018年3月、大阪は羅い舞座 京橋劇場。

 

久しぶりの若丸劇団、その人気は衰えていない。千秋楽前日の29日大入り4枚。今月の観客動員数1万五千だと豪語するのも当然か。

 

劇団の(かつての)芸達者ぶりは認める。でも個人的にはそこそこの出来具合のTVお笑い番組的内容を繰り返しているだけだと思えてきてここ数年遠ざかっていた。

 

前回見てから5年以上経過しているので正直言って座員の皆さんは成長したというか老けてきている。また座員の子供さんたちがいい意味で成長して舞台に立つようになっているではないか。

 

この劇団全体としての芸の成長のなさのせいか、かつてのパワーが感じられない。ここ10年ばかり全国区の人気劇団の一つとして活躍してきたようだが、進化がない。みなさんの動き、所作がこわばってきているように思える。

 

10年余り前のこと、当時住んでいた静岡県は浜松から岐阜葵劇場へ。そこで見た都星矢さんの色気オーラはすごかった。お花をつけずにおれなかった。

 

だが、その後もしばらく放たれていたこのオーラがもはや感じられない。踊りの所作が硬い、筋肉の動きでしかない。

 

今回の観劇で一番気になったのは芝居(劇団御得意の『泥棒道中』)で見せる座長の言葉遊びがいただけない。面白くない。以前より明らかに劣化している。スラップスティック芸も同様にだめ。なのにしつこく繰り返す。

 

ここで思い出すのがドリフターズの言葉として身体を使ったお笑い芸のレベルの高さ。準備段階で積み重ねた高度な知的操作は一切感じさせずにあっさりと上質のお笑いを提供するいかりや長介率いるドリフはいまでも世界に誇れる。 またそれを幼稚園児や小学生がそれなりに理解した上で笑うという日本のコドモの高度な知的センス。 1980年代のテレビ文化は優れていたのだろう。

 

いや今もその伝統は消滅したわけではない。『クレヨンしんちゃん』の風刺精神をまだ小学校にも上がらないコドモが察知し、作者に代表されるある種のオトナと共有しているではないか。ただし大多数の大衆は別である。風刺の心を理解しない。

 

現在の若丸劇団ファンは日頃なんとなくTVを見ていて、現在の劣化したTV文化に馴染んでしまっているので若ちゃんのギャグ程度で喜んでしまうのではないか。

 

若丸座長の踊りは齢を重ねているせいで以前より一層踊りの所作が硬くなっている。 座長の舞踊に比べてキャプテン城太郎さんの踊りは(日本舞踊とは何の関わりもないにしても)動きが柔らかくて見苦しくない。

 

最近の若丸劇団は「ブラフ(はったり)が多すぎる」という人もいるが、それどころか、はったりさえないに等しい。単におもろくないだけ。 よその劇団はこの劇団を真似たらダメだ。学ぶところ1ミリもない。それぞれ自分で業界でのサバイバル策を練るしかない。

 

「ブラフ」ですらもゼロの証拠はというと、 劇中(『泥棒道中』)で剛さん演じる商人は商売の資金を懐に旅の途上。この商人は地元で悪名高い泥棒(若丸座長)にまといつかれて困っている。そこでこの泥棒をなんとかまこうと相手の注意をそらしてそのすきに逃げようとする。 商人は遠くのほうを指差して「馬と鹿が喧嘩してる」とかなんとか泥棒の関心をよそに向けようとする。ここではとりあえず成功するも泥棒はすぐ追いついてきて自分のことを「ばか」にしたなと商人をなじる。このくだり聞いてる観客も辛い。アホらしすぎる。千年前のギャグかいな。小学生にもバカにされる。このレベルのギャグもどきが頻出。痛すぎです。 ドリフのリーダーいかりやさんなら激怒するレベルだ。

 

トップクラスの劇団がこの有様では大衆演劇界で生き残れる劇団もその数がますます減ってきているのかと心寂しくなる。

 

劇団荒城が関西に進出できないものかと個人的には思ったりする。