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春陽座の舞台に見た凛とした生きざま

神戸新開地劇場平成26年12月公演
☆12月5日『雲霧仁左衛門・外記(がいき)——不知火お藤』
☆12月6日『刺青奇遇(いれずみチョウハン)』
 主人公の凛とした生きざまを浮き彫りにした両作品はたがいに姉妹編といえるくらいテーマが共通する。主人公はどちらも女性だが、二人とも親の愛、さらには人の愛に飢えた生い立ちをもつ。しかしひとりの男との出会いをきっかけに魂のレベルで凛とした生き方に目覚める。とはいえ人恋しいという人間のもろさはぬぐい去れないままで。その後ひとりは犯罪者として処刑され、もうひとりは病をえて、ともに若くして亡くなる。二人を演じた女優澤村かなが見せる確かな演技力のおかげで強烈な印象を残す出来映えに仕上がったと思う。

 さて『雲霧仁左衛門・外記——不知火お藤』は座長口上挨拶によると、池波正太郎・原作『雲霧仁左衛門』からヒントをえて(初代座長で現在劇団責任者をつとめる)澤村新吾がひとりの女の物語として創作したとのこと。初代座長の演技力と脚本執筆・舞台構成の腕前は大衆演劇界屈指のものなので今回の成果も納得できる。池波の原作や(そのタネ本である)雲霧仁左衛門伝説では不知火お藤は登場せず、澤村新吾の純然たる創作である。

 幼かった頃の主人公お藤の境遇は悲惨である。実母は愛情をこめてそだてようとするが、継父はお藤に冷たい。口減らしのため継父は妻の留守を狙ってお藤を捨てる。それに気づいた実母が必死に探すが、行方知れずのままで数年が立つ。身元を明かす守り袋を身につけるお藤だが、捨て子の身の上につけ込んで世間(男)に利用され続ける。が、ふとしたことから雲霧仁左衛門に救われ、そのことに恩義を感じ、また手下として暮らすうちにこの男の誠意と義侠心に心を揺すぶられていく。裕福な大店相手の夜働きが数年続き、やがて奉行所の厳しい追跡に切羽詰まった二人は獄門打ち首を覚悟する。捕縛される前に自分を捨てた(とお藤本人は思い込んでいる)母に会って真意を確かめたいというお藤の頼みを入れて雲霧仁左衛門は生家のある土地へお藤をひとりで訪ねさせる。故郷についたお藤は追っ手に気づかれ慌てて一軒の家に逃こむが、その家にひとりいた老女と話をするうちに互いに生き別れの母と子だと気づく。母が自分を捨てたのではないと納得し、心の迷いが晴れたお藤は雲霧仁左衛門とともに自ら進んで縄につき、獄門台の露と消える。

 春陽座による創作版が評価に値するのは(池波ファンならずともすでに映画やTVドラマでおなじみの)雲霧仁左衛門を背景に退かせて、あらたに創造した不知火お藤を前面に押し出した点だろう。江戸時代なかばに暴れ回った伝説の盗賊というか義賊、その神出鬼没ぶりから人呼んで「雲霧仁左衛門」なる人物は当時から講談「大岡政談」で虚実ないまぜの話としてその名を知られていた。春陽座版は義賊雲霧仁左衛門の設定を改変。不知火お藤が人の愛、さらにほのかながらも男女の愛に目覚めるきっかけを与える人物として、また凛とした生きざまのモデルとして描く。いわばお藤にとって自分がいままで気づかなかった本性を知る鏡であり、理想のお藤の姿を映す鑑(かがみ)なのだ。今回の上演を見て、筆者のひとり勝ってながらこういう解釈をしたくなった。
 相手役の百戦錬磨の大物義賊をまだ若い三代目座長澤村かずまが熱演。この役を先代座長澤村新吾が演じた舞台は未見だが、空想で比較すると三代目はまだ役作りに不満を感じてしまう。かれが得意とする二枚目半ぶりが時々顔を出して貫禄が十分出せていない。とはいえ今後の修練に期待したい。

 余談ながら、「外記」は筆者にはなじみがない言葉だ。原作の派生という意味で「外伝」に近いのだろうか。外来語でなら「スピン・オフ」もどきというところか。

 他方、歌舞伎でおなじみの『刺青奇遇』(長谷川申・原作)も澤村かなと澤村かずまの共演だ。いつもながら澤村かなの演技が光る。足抜け遊女のお仲は親にも世間にも邪険にされ、利用されるだけされてきた二十年あまりの人生に絶望している。癒しようのない人間不信に陥ったお仲は海に身投げをする。偶然その場にいあわせた博奕好きの風来坊手取りの半太郎——「手取り」?仲介業を意味する「瀬取り」と関係あるのかな?——が助けるが、人間不信のお仲は礼の言葉一つ口にせずふて腐れた態度のままである。が、助けた見返りに体を求めることなくあっさりと去っていこうとする半太郎にお仲は生まれて初めて人の情の暖かみを感じる。

 押し掛け女房になったつもりのお仲はやくざ仲間とのけんかがもとで旅に出ざるをえない半太郎とともに新しい土地に移り、そこで二年ほどの時が過ぎる。半太郎の博奕好きはやまず、貧乏暮らしのなかでお仲は肺の病に冒され余命幾ばくもないありさまである。自分の死期を悟ったお仲は愛する亭主半太郎の将来を案じ、博奕断ちの願いをこめて半太郎の二の腕に自らサイコロの刺青を刺す。博奕はしないと誓った半太郎だが、せめて世間並みの所帯道具をそろった家でお仲を死なせてやることで余命短い女房に対する罪滅ぼしをしようと決意。そのためになんとしても金が欲しい半太郎は一文無しで賭場に出かける。胴元がイカサマをやったと因縁をつけて金をせしめようとするが、相手をおこらせたあげく逆に半殺しの目にあう。そうこうするうち賭場の経営者(貸元)があらわれ、貸元が言い出した賭けで幸運にも半太郎が勝つ。大喜びで帰宅しようとする半太郎。そんな折りも折り、姿を見せないままお仲から半太郎にむけた愛情あふれる別れの言葉が舞台に響く。こうしてすでにお仲が息を引き取ったことが暗示されるという皮肉な結末で終幕となる。

 ちなみに筆者は今年9月鈴成座の公演で同作品を澤村かな、二代目座長澤村心共演で見ている。澤村かずまと澤村心がそれぞれのスタイルで雲霧仁左衛門を演じたわけだが、出来上がった人物像は(筆者からすると)対照的だ。澤村かずまの「半太郎」はクールに博奕を楽しむという信条は表向きで、貸元相手の人生最後の大博奕が展開する大詰めが示すように長らく本人も気づかなかった情愛深い人間像が浮き上がる。かずまが演じる半太郎を見ると、たとえこの世でお仲と添い遂げられなくても魂の絆があるという意味で救いがある。これに対して澤村心の半太郎は情に安易に溺れないクールさが災いしてお仲との夫婦関係が悲痛な結末を迎えるという人生の皮肉が鮮明になる。救いがないといえばないだろう。だが、あまりに苦い人生の皮肉がこの作品の悲劇性を高めるという意味で観客に(残酷な話の展開に苦痛を感じる観客の心を浄化する)カタルシスを味わわせてくれる。両者ともに各自の芸質が生かされていて筆者は楽しめた。

 春陽座版の上記二作品は基本的に上質の芝居に仕上がっている。ただし、クライマックスで盛り上げたいという意図からだろうが、既成の演歌が流れるのはどうもいただけない。たしかに扇情的な音楽は一時的に人の心を高揚させるだろう。けれど、この手法は人物の心理を説明する道具でしかない。結局、観客の側からすれば盛り下げ効果しかないと思われる。観客としては静かに上質の悲劇の余韻を味わっていたいのだ。

 最後に『刺青奇遇』の歌舞伎版について一言。大阪は難波にある「なんばパークスシネマ」で来年(平成27年)1月3日(土)から1週間限定でシネマ歌舞伎シリーズの『刺青奇遇』(平成20年4月歌舞伎座)が再上映される。半太郎は勘三郎(平成24年12月逝去)、お仲に玉三郎という願ってもない配役だ。この歌舞伎版を合わせて見ると大衆演劇と歌舞伎、それぞれのよさが見えるのではないだろうか。

 ついでながら、『刺青奇偶』は少なくとも2度映画化されている。1933年に同名で監督・脚本が伊丹万作片岡千恵蔵の主演。2本目は『いれずみ半太郎』と題されて1963年にマキノ雅弘による監督で当時の人気俳優大川橋蔵と丘さとみが主役を演じた。