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大衆演劇は芝居より舞踊が大事となったらもうおしまい

オンラインで公開されている学術雑誌(2013年3月発行)に掲載されたエッセイだが、大衆演劇の最近の傾向として芝居に対する「舞踊の優位」が指摘されている。http://www.agulin.aoyama.ac.jp/opac/repository/1000/13173/00013173.pdf

こと芸能に関しては解釈、批評、見解、意見が種々様々であってかまわない。

しかし、観劇年数10年に満たない若輩者がいうのも少々気が引けるが、芝居は二の次で舞踊こそが大衆演劇の華という方向へ向かっているとはとても思えない。

上記エッセイで「舞踊の優位」が問題になる背景には旅芝居の現場を体験した大衆芸能を研究する社会学鵜飼正樹の発言がある。鵜飼はかつて、1980年代初め研究者の卵だった時期に1年あまり市川ひと丸劇団(当時の座長は現・「劇団花組むらさき」組長こと南條すゝむ)で新入りとして座員生活を経験している。そういう鵜飼によると1990年代後半から従来、劇団若手中心の「前狂言」と座長以下幹部座員による「切狂言」という2本立てだったそうだ(『季刊・上方芸能』170号、2008年12月)。これら2本の芝居に舞踊が加わる。鵜飼は新米座員時代を思い出して、芝居の2本立てという形式の利点をいくつかあげている。とりわけ肝心なことは前狂言が若手座員にとって貴重な修練の場だという。それがなくなれば、芝居が1本しか上演されず、したがって未熟な若手にとって不利になるばかりでなく芝居と舞踊が対等の扱いを受ける変則的な事態が生じる。舞踊が2本で芝居が1本では「本末転倒」なので「芝居こそ本道という原点に立ち戻るべきだと鵜飼は主張する。

たしかに若手の修練の機会がぜひとも必要だという鵜飼の主張はもっともだ。しかし現在の観客の立場からすると短めの芝居を2本見せられるより演出、演技ともに充実した1本に絞り込む方が好ましいと思う。若手は芸をそばで見て覚えるしかない。

そこで考えるのだが、従来のように個々の劇団で代々伝わってきた口立て形式の芝居は可能な範囲内でできるだけ台本に写しとれないだろうか。この期待が実現困難であることは想像に難くない。なにしろひと月間連日日替わりで芝居を打つのだから、台本づくりにさく時間などなかなか捻出できないだろう。それに加えて新作物を上演することも大衆演劇そのものの発展に不可欠な事情もある。ますます時間的余裕がなくなる。(とはいえ都若丸劇団のように積極的に新作を上演する劇団もあるのだ。)

江戸時代の歌舞伎のように劇団が専属の座付き脚本作者を雇うのはどうだろうか。だが、人材確保と経費の捻出がかなり困難そうだ。話を現実に引きもどすと、たとえば小泉たつみ率いる「たつみ演劇BOX」は故・小泉のぼるが遺した台本が何点かあるそうだ。たつみ座長はそういう台本を活用する努力をしている。また先代から伝わる台本や口立ての芝居を現代の感覚に合うように改作することにも意欲的である。この劇団にかぎらず、ほかにもそういう努力をしている劇団はいくつもあるだろうとは思う。芝居あってこその大衆演劇をもり立てるという意味で台本を充実させるいい手だてがないものだろうか。

本題からそれるが、座員のバンド演奏が演目に組み込まれていた時期もあったようだ。この点も鵜飼が自身の役者体験をかなり赤裸々に語った『大衆演劇への旅——南條まさきの一年二ヵ月』(1994年、未来社)で触れていた。ちなみに「梅沢富美男チャンネル」2014年2月3日付け「第十四回『二代目座長梅沢武生の演劇改革』」

http://umezawatomio.jp/engeki/history_20140203.html」では大衆演劇界でバンド演奏を取り入れたのは実兄梅沢武生の独自のアイデアだとする。1970年も間近な頃だったとか。ただし、梅沢武生が伝統的な演目の構成形式を改変したのも大衆演劇の外見という衣装を新たにしながら要は観客を呼び寄せ、芝居をじっくり見てほしいからである。かれの意識の中ではバンド演奏はあくまで添え物であり大衆演劇の眼目は芝居だったにちがいない。

たとえ舞踊がきらびやかな衣装と演出で展開されていても、役者にしろ観客にしろ芝居があってこそ大衆演劇という理解は従来からかわっていないのではないか。芝居のできがよければ場内の空気が濃くなる。時に笑いが観客席におこり、また目に涙を浮かべもする。さらには場内が静まり返る緊張の一瞬もある。ただ、典型的な喜劇なら笑いの連続が普通だろう。しかし喜劇にだって笑いがすべてでない場合もある。次々に笑いを誘いながら、その中に生きることにともなう悲哀を感じさせる、そういう喜劇もある。ほかにとるべき道がないままに破局に突き進む悲劇が日常生活では意識に上らない人間の心の闇に一瞬の光をあてる。あるいは、喜劇ならおおらかな笑いの中に一抹の悲哀を潜ませる。こういう芝居に出会う機会に恵まれなければ大衆演劇に足繁く通う意味がないと思うのだが、どうだろう。やはり芝居こそ大衆演劇の眼目なのだ。