芝居こそ大衆演劇の醍醐味

       浪花劇団 2015年2月7日 朝日劇場(大阪、通天閣

  『忠臣蔵外伝 四十八人目の男 潮田又之丞 妻子の別れ、 武士の一分』

 

最近見た大衆演劇の公演に印象深い芝居がある。2015年2月7日, 朝日劇場で見た浪花劇団による『忠臣蔵外伝 四十八人目の男 潮田又之丞 妻子の別れ、 武士の一分』がいい出来映えだった。史実をヒントにしているが、基本的にフィクションである。とはいえ「武士」に対する現代大衆の幻想を下敷きにして大衆演劇の舞台にはしっくりくる翻案に思える。

忠臣蔵外伝 四十八人目の男 潮田又之丞 妻子の別れ 、 武士の一分』とは。吉良邸討入りを誓う連判状に名を連ねている潮田又之丞は討入り決行間際に集結を命じる極秘の書状を受けとる。討入り計画は周囲の誰にも、妻(ちぐさ)にさえ打ち明けていず、妻には遠隔地での仕官がかなった旨知らせが届いたと嘘をつく。男最優先の武士社会なら夫が人生の一大事を妻に打ち明けないのも然りと思ってしまう。しばらくして潮田は外出。その留守中に碁敵が来訪し潮田の帰宅まで待たせてほしいという。夫以外の男と二人きりになることを躊躇する彼女だったが、断りきれず客の申し出を承諾する。以前から潮田の妻に横恋慕していた碁敵は偶然見つけたくだんの書状を無断で読み討入りの事情を知る。男は自分に身を任せなければ吉良側に討入り計画をばらすと女をゆすって肉体関係を強要する。武家に嫁いだ女として常日頃覚悟をきめている彼女は不埒な相手に同意したようにみせかける。なんとしてでも時間を稼ぎ仇討ちの盟約を結んでいる夫に願いを遂げさせようという考えである。そればかりか幼いながらも息子又太郎には侍の子としてとるべき道をとらせるつもりである。つまり仇討ち成就後に切腹するはずの父を見習い、足手まといにならないよう父に先んじて侍の子として切腹する機会を与える。母は心を鬼にして息子の名誉を重んじ、息子にも夫同様武士の一分を果たさせる。その後彼女は恥知らずな男を隙をみて殺害しようとするが果たせず自決する。その現場へ切腹した息子の首をかかえて討入りに加わるために吉良邸にむかう潮田又之丞が通りかかる。妻を辱めようとした男を斬り殺すが、自身も手傷を負う。これでは討入りに加われないとさとった潮田は自決する。

筆者には潮田の妻の存在が印象深い。ぃかし潮田の妻の思慮と行動は設定にやや無理があるのは否めない。だが、武士に果たすべき面目があるように武士の妻にも夫の名誉を守るために果たすべき面目がある。という次第で妻の行動は理想化され過ぎではあるが、大衆の幻想に沿う設定ではあるだろう。やはり大衆のための演劇という枠組みをはずすわけにはいかないのが大衆演劇界の現実である。

しかし大衆演劇が本質的に大衆の嗜好に迎合するものだといいいたいのではない。(筆者も含まれる)大衆の嗅覚は鋭い。このことは七世紀ごろに現れはじめた放浪芸から徐々に大衆芸能という定義がむずかしいながらも確固たるジャンルが成立してきた歴史をたどればあきらかではないだろうか。大衆は、いや人間社会は生きる喜びを堪能し悲しみをいやすためにさまざまな種類の芸能を求めてきたといえる。大衆芸能は詩歌をはじめいわゆる文学作品のようにリテラシーがなくては楽しめないわけではない。大衆がもつ人間的本能に訴えかけるのが大衆芸能なのだ。大衆演劇も例外ではない。常にとはいえないにしてもたびたび人の心を鋭くえぐる。今回とり上げた芝居のように夫に武士の面目を果たさせるために妻が現世での家族生活、家族愛を断念するという現代人には受け入れがたい選択をするという設定ですら大衆演劇の芝居小屋では成立する。大衆芸能の広い世界の中でほとんど日の目を見ない大衆演劇ではある。だが個人、個性を尊重するといいながらその実個人の存在価値を無化している日本的戦後ミンシュ主義が前近代的だとして社会から抹殺してしまった人間の存在価値が垣間見えるのは大衆演劇ではないだろうか。