下町かぶき組「劇団 悠」、大衆演劇の新しい路線、ハイブリッドなニューウェーブをめざせ

去る3月に浪速クラブで見た「劇団 悠」は今回日を追って人気が出てきて千秋楽は大いに盛り上がった。この劇団なら今度大阪へ帰ってきたら芸がいっそう進歩して集客力が向上しているはず。そう期待して11月公演中日にさしかかった14日土曜日、大阪は明生座を訪れたのだが、あれッ?案に相違してお客さん少ない。観客席ばかりでなく舞台も活気がないように見えてしまった。変だなー。今月から二ヶ月は芝居も踊りも達者な藤千之丞が長期客演しているし、おまけに当日は沢田ひろしがゲストなのに。ひょっとして最寄り駅のJR桃谷から徒歩約20分の道のりが災いしたのか。(しかし年明け1月に来演する都若丸劇団なら季節、天候にかかわりなく大入りになる。だからアクセスの問題ではない。)ところが翌15日はうってかわってほぼ満席。座長がこの突然の大入りに驚いていた。芝居の外題が座長の父松井誠から受け継いでいるお得意の「化け猫」であったせいか。とにかく観客席が期待感をふくらませていたし、一座の皆さんもやる気に満ちていることがよくわかった。見る側、見られる側の相互作用って大きいんだとあらためて思わされた。

 

それから1週間後の週末、21日と22日と明生座再訪。ショック!空席が目立つではないか。今日22日の芝居「善悪二筋道」はいい出来映えだった。町人の男兄弟二人、学業に秀でた兄は御家人株を買って侍の身分を獲得する。(江戸時代も後半になると小金を貯めた町人が侍に成り上がることもあまりめずらしくなくなったようだ。徳川幕府の治世は天下泰平が長続きしすぎて武士階級もサラリーマン化してしまう。)他方弟は親譲りの大工職人。誠実さと腕の良さで評判が高い。領主の屋敷の普請まで請け負うほどだ。もともと仲のよい兄弟だったが、兄は自分の出世に慢心して弟を軽んじるようになり、そのうえ武家の出の妻が同居する姑に対していじめをする始末。挙げ句に兄は母を屋敷から追い出す。この兄弟に目をかけている領主が一計を案じて弟を見下すようになってしまった兄をいさめる。結末はハッピーエンドだ。芝居全体の流れがいい。結構感動させる仕上がりだった。テーマは反目と和解だが、いつの世にも絶えない問題だ。敵対するばかりでは人間身がもたない。どれだけいがみ合っていても心の奥深くでは互いの歩み寄りを望むのが人間なのだろう。そういうかすかな、儚い?願いをいっとき実現させてくれる舞台上の世界はありがたいものなのではないか。

 

本作で主演した座長の健闘ぶりは言うまでもないが、助演の二人、藤千之丞(兄嫁)と竹内春樹(兄)の存在なしには感動作にならなかったにちがいない。とりわけ鬼嫁を生き生きと描き出した藤千之丞の功績は特筆にあたいする。また老母を演じた高野花子の丁寧な演技ぶりも忘れてはならない。

 

しかし本日は大入りでなかったが惜しい。こんないい出来の芝居をもっと多くの人に見てもらいたかった。

 

思うに、失礼ながら「劇団 悠」が受けるにあたいする評判を獲得できないのは大衆演劇界では毛色がかわっているせいではないだろうか。これは下町かぶき組所属の劇団全体に共通するのだが、いわゆる「大衆演劇」特有の色合いあるいはクサ味の足らなさに原因があるようだ。座長以外の座員たちの演技の質は商業演劇、新劇、小劇場などの系列にかなり近い。さらにいえば座長松井悠でさえも両親が大衆演劇の役者であり、幼少時子役として舞台にたった経験があるにもかかわらず演技の質があっさりしている。これでは生まれも育ちも大衆演劇(旅芝居)というライバルたちと競い合うのは苦しい。

 

だが、この弱点は見方をかえれば強みにもなるのではないか。古くからつづく伝統に根ざした芸ではない、かといってその伝統と絶縁してもいない新しいタイプの芸をめざせばいいのだ。広範囲にわたる新旧の芸能のさまざまな分野から取り込んで、いわばハイブリッド(混血)の芸能を生み出す。これは舞台人(役者)にとって結構わくわくさせる企てというかアドベンチャーではないだろうか。座長が役者モデルと意識しているらしい松井誠も新しい可能性をさぐった冒険家だった。松井悠とその一座には21世紀舞台役者の可能性を拓いてほしい。今現在の座員構成は強力だ。大衆演劇の芸をしっかり身につけた硬軟、剛柔、変化自在の藤千之丞もいい。時代劇の凛とした男を彷彿させる竹内春樹もいい。また若手座員たち、嵐山錦之助、なおと、高野花子、長縄龍郎、駿河染次郎、吉田将基も有望株だ。そしてなにより座長松井悠の才能と熱意に期待したい。

 

ちなみに、本日21日の発見は(長年のファンはとうからご承知かも知れないが、)長縄龍郎の女形がきまっていたことだ。開幕前観客席を回っていたようだが、後ろ姿が美しい。男優だとはわかったが、新規に参加した下町かぶき役者かなと思ったら、 長縄龍郎だった。すごい色っぽさ!淡い柿色の着物が似合っている。私はかれのことを怪しげでひょうきんな役者とばかり思い込んでいたのでビックリ。開幕後の個人舞踊でもさまになっていた。長縄龍郎さん、おみそれいたしました。

 

ついでにひとこと。今見たいのは錦之助の出ずっぱり「殺陣ショー」となおとの「若女形七変化」。

 

最後にさらにもうひとこと。劇団新路線の一環として特定の舞台公演を有料で動画配信するのはいかがだろう。この事業に不慣れな場合、日々の多忙極まる公演活動にくわえて余分な手間がかかるので実現はむずかしいかもしれない。だが、諸事情で生の舞台を見れない人には歓迎されそうだ。財政事情が許すなら、専門業者の手を借りることも考えられる。(たとえば、「ニコニコ動画」のニコニコチャネル開設サービスを利用するなど。)

 

追記。 23日、三連休最後の日。なのに大入りではない。しかも芝居は「劇団 悠」が得意とする「藩命に死す」だというのに。この芝居、いわば大衆演劇版「武士道残酷物語」だ。座長以下キャストの熱意が伝わってきた。

 

ただ筆者には今どきのヒューマニズムに傾きすぎたのではないかという不満がちょっぴり残る。藩、組織、集団、国家と比較してひと一人のいのちの重さをを訴える。いつの時代にも深刻な問題ではある。しかしその葛藤に安直な判断は避けるべきではないか。というのも昨今安保法案イコール戦争準備法案と曲解して騒ぎ立てる輩が少数いて、いかにも人間は争いごといっさいを好みませんとのたもう。小さなコミュ二ティーどころか家庭内でも刃傷沙汰がたえずおこっている。これをすべて時代のせい、為政者のせいだとすませておのれは手が汚れてませんと言い張るのは解せない。薄っぺらなヒュマーニズムを喧伝する一部の近現代の社会科学者の言い草はたしかに俗受けしてきた。この俗受けがあぶない。大衆演劇は大衆の娯楽だから俗受け大いに結構とはいいたくない。大衆演劇には過去も現在も人間の本質を深くうがつ名作がいくつもある。われわれ大衆はばかではない。筆者としては次回の上演でいっそう練り上げた「藩命に死す」を見たいものだ。余計な付け足しでごめん。