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下町かぶき組「劇団 悠」が描く青春グラフィティ「新選組」

2015年12月13日明生座。正式な外題は『新組~時代を駈けた男たち~』である。劇団 悠の12月公演は(長らく下町かぶき組傘下の別の劇団で活動していた)高橋茂紀、別名「高橋シゲコ」がメンバー復帰していて座長とはひと味違うおもしろみが加味されている。

 

この芝居は新組の誕生から滅亡までを描いたものだ。あらすじはすでに他のブロガー氏が記述されているのでここでは省略。その代わりというのもなんだが、芝居をみた私の第一印象は、その思想、信条を肯定するかどうかはさておき動乱の幕末に新組を結成し命を賭けた若者たちは純真であったということだ。近藤勇土方歳三は二人とも武蔵国多摩郡の農村出身で幼ななじみであった。おたがいを「かっちゃん(幼名宮川勝五郎」)、「トシ」とよびあい気が合っていたそうだ。世に言うバディbuddy、オトコの絆の典型だ。この二人のあいだに芽生えた友愛が芝居の冒頭から強く印象づけるように仕組まれていた。このように若者の絆に焦点があたっているのでそれを青春グラフィティとよぶのはまちがいではない。ちなみに組というテーマは十年ほど前にNHK大河ドラマ化されたが、脚本を書いた三谷幸喜は自作の『新組』を「青春グラフィティ」ととらえている。すごく新鮮な視点だ。(残念ながらこのNHKドラマ、私は基本的にテレビドラマが好かないので未見。)あらずもがなの説明になるかもしれないが、「グラフィティgraffiti」とは公衆の目に触れやすい建築物の壁面などにスプレー・ペイントで大書された落書きのことだ。とうにアート、正確にはポップ・アートとして社会的に認知されている。社会において政治的発言力がない若者たちが思いの丈をぶちまける手段として生まれた。(落書きを必要とするのはなにも現代の若者ばかりではない。日本の中世、近世の大人たちもおおっぴらには口にできない不満などを落首(らくしゅ)や落書(らくしょ)という手法で表現していた。)

 

今回の上演で注目したいことがひとつある。通常のように全編を生の舞台で通すのではなく、事前にビデオ収録した動画を何カ所か挿入されていた。たとえば芹沢鴨が暗殺される場面。生来傍若無人な芹沢の異常ともいえる行動は新選組という組織が内に抱えた爆弾とみなされ死の制裁をうける。この場面は新組にまつわる一連の出来事の単なる一コマというより、新組の精神史の一環として無視できないと座長松井悠は判断したのだろう。動画化することでこの出来事が前面に押し出されて強調される効果がある。このような舞台と映像のコラボは演劇一般を見渡せばことさら目新しくはないが、大衆演劇界の試みとしては評価できる。もう一点、これも演劇技法として珍しくはないが、(多少視界は悪くなるが背後が透けて見える)紗幕を用いる場面がいくつかある。鮮明な見通しを妨げる紗幕のおかげで劇中の時間あるいは空間が重層化する。何ごとにせよ、ことの発端と結末は直線的に結ばれてはいないと観客に意識させる作用があるのではないか。現象の直線的な推移を信じたい人間の無意識の欲求を抑制し真相をより深く見ようという願望を刺激する。こういう実験的な舞台づくりは下町かぶき組という丸々大衆演劇的ではないハイブリッドな劇団だからこそ可能なのだ。

 

ところで、座長をはじめ劇団員の活躍は賞賛にあたいするが、私としてはとりわけ新組総長(近藤勇局長を補佐する幹部隊士の一人)山南敬助(やまなみ けいすけ)を演じた藤 千之丞の功績を特記したい。いつもながらかれは光っていた。「山南」という人物は近藤や土方らどちらかといえば思索を実践に移す事を重視する行動派であるのに対して紅一点、ただひとり異彩を放つ沈思黙考の人、懐疑派である。そのためついには組織に害する者と裁決され自殺に追い込まれる悲劇の人だ。こういう役柄はまさに藤 千之丞の仁(にん、すなわち役者としての持ち味、芸風)だった。藤だけでなく、ほんとうに出演者全員がそれぞれ仁が合う役を演じていた。

 

最後にもう一言。この上演がビデオに収録されていれば、劇団にとって次回の反省材料になるだろう。いや、今回の上演は上質の出来だった。なのでビデオ映像をDVD化して販売してほしいとねがう。(ご存知だろうが、技術的方法については「動画や画像をブルーレイ/DVD/CDに書き込む方法」などでネットサーチすればよい。)しかし録画していない場合、ぜひ来月の公演で再上演して録画してほしい。著作権をもつ劇団じしんがDVDの制作および販売をするのだから法律上問題はなかろう。

 

<追加> 

1月18日、『新組~時代を駈けた男たち~』木川劇場で再演。

 

再演の仕上がり具合は前回の上演を凌いでいた。劇の進行につれて緊張感が高まるが、その高まり方が前回と比べてなめらかであったと思う。幕切れ近くの近藤勇の死(新政府軍による処刑)がクライマックス。そのクライマックスの、いわば予兆として劇の後半で山南敬介の自裁(自らに課した切腹)が提示される。一見したところ近藤と山南は言動において対照的である。近藤は幼い頃からの親友で新選組という劇的変革を志向する組織にあっては盟友でもある土方歳三に補佐されながら「行動の人」として生きる。それに対して山南は「思索の人」である。山南は慎重に作戦を練る知的参謀として新選組にとって不可欠の存在である。行動の人と思索の人は組織を安定させ発展させるため両輪である。しかし片方の輪がはずれれば組織は長続きできない。今回の再演で山南の死が前回以上に丁寧に描かれたことは意義深い。というのもクライマックスである近藤の死、ひいては激動の幕末にあって日本の行く末を憂えて新選組に結集した若者たちの死をいっそう鮮明に浮かびあがらせたのだから。近藤の死がなにを暗示するするのか、見る者が自らに問いかけるきっかけを与えてくれたように思う。

 

この芝居がDVDとして発売されるといいのだけれど、どうも期待薄だ。劇団は劇中に挿入された動画を作成できるのだから、経費を抑えてこの芝居全体をDVD化するのは充分可能であるはずだが。