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「劇団 悠」の人気コーナー「高橋しげこ & 長縄龍郎ショー」

15日は特選狂言『喧嘩屋五郎兵衛』。最近あまり上演されなくなったが、かつては大衆演劇の代表的狂言(芝居)の一つだったようだ。

 

そんな古典物を若さあふれる劇団がどう料理するか興味があった。座長が演じた主人公(渡世人一家、喧嘩屋の親分五郎兵衛)は比較的あっさりとした人物像だった。これはとりわけ九州系の劇団によく見られるような激情型の人間で恨みの権化みたいなどぎつい人物造形にいささかうんざりしていた私にとってはさいわいだった。

 

五郎兵衛には幼いときにこうむった顔面の火傷という負い目がある。成人し一家の義侠心に富んだ博徒親分として活躍する現在もこの男の心を拘束している。このように複雑な内面をかかえる五郎兵衛がいったん誇りを傷つけられるとはげしい憤怒にかられてしまう。怒りの対象は五郎兵衛自らが一家の客人として迎え入れた旅の博徒

 

幕があいて間のなくこの旅人が滞在中に土地の大店の娘の危ういところを助けるが、自分の名前をはっきり名乗らず、その結果五郎兵衛とまちがわれてしまう。そんな中その娘のたっての願いで「五郎兵衛」との縁談話がおこる。やがてとりちがえが発覚し五郎兵衛はこの旅人に対して憤怒の鬼となるしかしのちに自らの過ちに気づくが、時すでに遅し。五郎兵衛はその客人を斬り殺していた。旅人は自分がはっきりと名を明かさなかったがそもそもの原因だからとあえて自分が勝負に負けることを選んだ。実は五郎兵衛が言い出した決闘に際してドスの刃をつぶして使い物にならないように細工していたのだ。

 

一旦怒りにかられるとそれまでの人生を丸ごと破滅させてしまう物語を見せられても観客にはなにも学ぶところがない。それどころか感動へと結びつくものがない。ただただ鬱々とした気分を味わうだけだ。大衆演劇がかつて「ドサ廻り」とよばれたりしながらエンタメの裏通りに閉じ込められていた時代ならいざ知らず、今の時代はこういう救いのない暗さは好まれないだろう。

 

ただし今回の上演にはすぐれた「救い」の要素が用意されていた。良家の娘から五郎兵衛に申し込まれた縁談話の取りもち役を悲劇・喜劇どちらでもござれの名優藤 千之丞が受けもつ。作品じたいの主調音は大悲劇だが、千之丞の道化ぶりがある種救いであり、同時に逆に悲劇性を強める作用もはたす。千之丞、グッ・ジョッブGood job!

 

身体面(あるいは精神面)のいわゆる「異常」は文学、芸術、芸能どの分野でも扱いにくい。(道義上テーマにしてはいけないとか、不可能だという意味ではない。)たとえば娯楽映画のジャンルで制作・公開されたThe Elephant Man (1980年)はそう意図したわけではないだろうが、「異常(医学的にはプトテウス症候群というらしい)」に対する人間の暗い好奇心の対象でしかなかった。ちなみに昨年暮れ三島由紀夫の『金閣寺』オペラ版(作曲・黛敏郎、ドイツ語台本・クラウス H. ヘンネベルク)を見たが、片手の不具(原作では吃音障害だが、テーマを浮かび上がらせるための視覚効果を考慮して改変)が主人公の世間に対する負い目となっている。しかし金閣寺』は『喧嘩屋五郎兵衛』とはことなり障害という概念が複雑な文脈におかれているためはるかに説得力がある。

 

劇団としては客受けのしそうな(大衆演劇の)古典作であるという理由で選んだのかもしれない。また座長はじめ出演者一同が丁寧に演じていたことは評価したい。

 

さて私にとってはこの日主たる演目ではない方に魅了された。「グランドレビューショー」の一部分だが、「高橋しげこ & 長縄龍郎ショー」がそれだ。

 

舞台に流れる「お花ちゃん」(三橋美智也と斉藤京子のデュエット、1956年)の歌詞に沿う形でふたりの名コメディアンが踊る。「お花ちゃん」は田舎(東北?)から東京へ出る中卒就職が原因となる男女の別離の辛さを歌ったもので発表当時のヒット歌謡曲だ。(「泣いたって 泣いたって あーすっかた なかんべさ」というリフレインが各コーラスの末尾に出てくる。)「高橋しげこ」こと「高橋茂紀」が半袖セーラー服をまとう女学生。脚が長くて贅肉なしという抜群のスタイル。よく似合っていた!?学生服の男は長縄龍郎。最後のオチがおもしろい。別離を悲しんでいた男はコントのラストでお花ちゃんのことが大ッ嫌いだと打ち明ける。男女の愛のコミュニケーションはなりたたなかった。お花ちゃんの片思いだったのだ。恋してやがて振られるお花ちゃんを演じる高橋しげこは身体表現が豊富だった。男っぽい身体を存分にさらけ出しながら踊り?まくる高橋しげこ。傑作なコントであった。

 

退場直前に高橋が女学生コスチュームについて激白。アマゾンの通販で購入。男物もありますと。(たしかにアマゾンで宴会芸あるいは秘密の趣味用にコスプレとしてさまざまなセーラー服が用意されている。)

 

このふたりのお笑いコンビによるコントで格別おもしろかったのは1月前半(日にちは失念)肉体労働者のなりをした長縄がランチをとろうとレストランを訪れる。出迎える怪しいニホンゴをあやつるこれまた怪しい西洋人ふうの高橋ウェイター。ウェイターは客の注文を次々と聞きまちがえる。コミュニケーションがなりたたないことを基本テーマにしたお笑いで、けっして珍しい発想ではない。だが、高橋と長縄の手にかかるとそんな定番のお笑いも実に生き生きとした芸に仕上がるではないか。こういうコントをビデオに撮ってひとまとめにしてDVDグッズとして発売されたら絶対買いたい。こういうDVDには高橋茂紀・藤 千之丞のお笑いトーク「出身県(トチギ vs. イバラキ)対抗仲よしバトル」も含めていただきたい。

 

一度「高橋しげこ & 吉田将基ショー」も見たことがあるが、けっこうおもしろかった。「吉田くん」には今後の芸の向上を期待しよう。

 

ついでといってはナンだが、上記芝居で聞いたセリフの言い損ないについて。「白羽の矢(が立った)」とすべきろころが「しらはのやいば=白刃の刃?」となっていた。舞台で突如襲った一時的緊張が原因だろうが、これでは意味が通じなくなる。「白羽の矢が立つ」は現在では主に「いい意味で選別されこと」をあらわす。しかし本来は雨乞いや洪水を鎮める儀式などで人身御供(ひとみ・ごくう)すなわち生け贄として選び出されることだった。そういう生け贄の家の屋根に白羽の矢が立つと信じられた。

 

もう一つ気になった表現がある。『喧嘩屋五郎兵衛』で喧嘩屋一家の代貸(駿河染二郎)が親分五郎兵衛の妻となるべき人のことをさすのに「女房」は変だ。親分本人が自分の妻になる人を女房とはよんでもいい。しかし子分の代表とはいえ代貸は親分の目下なのだから「おかみ(内儀?)さん(になる方)」とか「姐さん(になる方)」とか、親分と同格に近い女性に対する敬意を示すべきだ。どさくさ紛れに小姑の嫁いじめみたいなことを言ってしまった。ご容赦。

 

最後の最後に劇団の方、どなたかこのブルグ見てくれていたらとはかない願い。昨年12月13日明生座で上演された『新撰組~時代を駈けた男たち~』が1月18日再演される。プロでなくてもいいので手のすいている座員さんが録画して、その動画を自前で(経費節約して)DVD化・発売されるよう乞い願う。ディスク2には「高橋茂紀・藤 千之丞のお笑いトーク」や「高橋しげこ & 長縄龍郎ショー」が収録されることを期待。