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幕末動乱のただ中に海外遠征に出かけた軽業芸人たちの心意気

徳川幕府がしいた鎖国政策のため国際政治の場では孤立を貫いていた日本だが、19世紀に入ると200年あまりつづいた幕藩体制の矛盾が吹き出し始める。武士階級など知識人ばかりでなく一般庶民のあいだにもほとんど無意識のうちに変革を求める気運が高まる。19世紀なかばには下級武士を中心に討幕運動が高まる。そういう物理的、心理的の両面で動乱が連続する幕末とよばれる時代に西洋人の手引きがあったとはいえ欧米というかぎりなく未知の世界へ乗り込んだ集団が複数いたとは驚きだ。

 

ここで興味をそそられるのは海外遠征組が知識階級に属する面々ではなく、おそらく各集団のリーダー以外は読み書き算盤もままならない人たちだったのだ。かれらは軽業師とか曲芸師とよばれていた。かれらの曲芸技、鞠、傘、樽、綱、竿、梯子、刀剣などを四肢、頭などで自在に操る技は世界的にも誇れるほど高度に発達していた。(たしか濱碇定吉ー1832年生れ、没年不詳ーだったと思うが)人気の足芸は大樽を足で回したり、蹴り上げたり、はては樽の中からかれの子どもが飛び出すというものだった。

 

日本の軽業は突然出現したのではない。7世紀に中国大陸から興行目的で渡来した芸人たちから学んだ芸が長い時間を経て日本の軽業として定着。そういう芸が江戸時代を通じていっそう絢爛豪華なものになった。

 

(ネット上にも種々の情報が掲載されているが、)記録や文献資料が多少とも見つかる国際派軽業芸人たち、その主だった太夫元はといえば、早竹虎吉(生年不詳、維新直前の1867年出国、1868年アメリカの巡業先で病死)、濱碇定吉(足芸、1832年生れ、1883年帰国、没年不詳)、隅田川浪五郎(手品、1830年生れ、没年不詳)、松井菊次郎(独楽回し、生没年不詳)だ。早竹虎吉は長い竹竿を肩で支えたまま三味線の曲弾きをしたり足で支えた長い竿の上に子どもや動物をのせる芸を披露。残る三者は「帝国日本芸人一座The Imperial Japanese Troupe」としてアメリカへ、サンフランシスコからニューヨークなどで巡演。三人の座長はそれぞれの十歳前後の幼い実子が芸人として加わっている。ちなみに当時まだアメリカ大陸横断鉄道は未開通だったのでパナマ運河経由の船で移動した。(開通は1869年5月。)さぞ大変な旅だったことだろう。その後大西洋を欧州へ渡航する。欧州各地で公演したという。1867年の第2回パリ万博でも大好評を博した。

 

海外遠征を挙行した同時代の芸人たちとしてはほかに松井源水、林虎吉、鉄割福松、鳥潟小三吉らがいる。

 

1864年アメリカ人、通称、リズリー『先生」(Professor Risley; 本名 Richard Risley Carlisle [カーライル], 1814-1874 ) 率いるリズリー・サーカスが来日し人気を集める。アメリカのサーカス界では団長がDoctorとかProfessorという称号を使うこともまれではないらしい。権威の強調が集客につながるというのは理解できる。この一座は動物サーカスと曲芸を組み合わせた芸を得意とする。リズリー・サーカスについてはアメリカ人でアニメなどをふくむ日本文化の研究者Frederik L. Schodtが幕末の欧米流サーカス団団長がサーカスと軽業を通して日本と欧米との交流を促進した過程と意義を論じた Professor Risley and the Imperial Japanese Troupe: How an American Introduced Circus to Japan and Japan to the West (Stone Bridege Press, 2012)を書いている(筆者未読)。The Japan Times にその書評があってリズリー先生の仕事を急いで概観するには便利だと思う:"Globe-trotting acrobat left a mark on Japan"と題してwww.japantimes.co.jpのサイトに掲載。

 

欧米のサーカス・見世物事情に通じたリズリー先生の存在は見知らぬ世界へ乗り出す日本人芸人たちにとってさぞかし大きかっただろう。また通訳として横浜アメリカ領事館の職員とかいうエドワード・バンクス Edward Banks なる人物も一行に加わっている。このバンクスは芸人たちが「ヘンクツ(バンクスが日本語風に訛った呼び名、「べんくつ」が日本語化?)」よんでいたが、巡業の途上一座の金をくすねて姿を消してしまう不届きなやからであった。それでもいるあいだは通訳ならびにアメリカ文化の解説者として役立っていた。

 

この海外遠征にはもう一人特記すべき人物がいる。一行のいわばマネージャーをつとめた高野広八(1822ー1890)だ。現在の福島県福島市飯野町に生まれた。実家は農家だが、絹織物の売買にも関わっていて裕福とはいえないまでもそこそこの生活レベルだったらしい。博奕好きの広八は十代半ばで出奔、ヤクザ者にありがちな仲介、斡旋業のまねごとなどで糊口をしのいでいたし博奕代の足しにもしたようだ。どういう事情からか芸人の斡旋稼業をするようになった。日記にいささか素っ気ない言葉づかいながらも的確な観察力をしのばせることからして読み書きもそこそこできたのだろう。

  

海外遠征に乗り出した芸人たち。座長はいずれも齢三十を超えた分別盛りの大人だ。一座の芸人たちもたいてい二十歳あるいは三十歳を過ぎている。当時は予備知識も外国語の知識も皆無といていい状況だった。(現代の日本人でも海外旅行は楽々とはいえない。)西洋人同士でも文化が違えば交流は困難だったはず。ましてや江戸時代の庶民が欧米を渡り歩き、しかもビジネスを実践するとなると苦労は並大抵のこどえはなかったにちがいない。にもかかわらず、かれらはさまざまな困難を克服しながら果敢に新しい環境に適応しようと努めた。これは同じ時期に欧州を訪れた最後の将軍徳川慶喜の弟、昭武(1853年ー1910年)の警護役をつとめた、尊王攘夷思想にこだわった水戸藩士たちとは正反対だ。たとえ精神的にも大人(ある種の老化?)になっていて適応能力や学習脳力にブレーキがかかっていても芸人たちは歴史上の放浪芸人に見られた自由の精神を伝統的に受け継いでいるのだろうか。

 

広八にいたっては日本(横浜)出航時は四十半ばにさしかかっていた。それでも異文化に対する関心はしっかりもっていた。感情をあらわにしない文体ではあるが、西洋社会と文化に興味深々だったことはまちがいない。さらにかれの異文化に関する理解力も並ではない。広八は曲芸師、手品師を含む芸人の斡旋にも長年関与していただけあって未知の機械など仕掛けを見抜く能力にたけていたのだろう。サンフランシスコのホテルの設備、たとえばガス灯、水栓エレベーターなどの仕組みもりかいしていたことが日記から読みとれる。

 

広八の理解力は安岡章太郎をたまげさせる ー「『ガスのことをあかりの息』と考え、ガス管を『あかりの息の通ふ道』としたあたり、ほほえましさと同時に胸に迫ってくるものがあるではないか」(『大世紀末サーカス』67頁)。首都ワシントンで red-light district へでかけるが、そこでの体験を正直に語るくだりもおもしろい。(同書、112ー115頁)。ロンドンではred-light districtで窃盗に合い、仕法に訴えたおかげである程度溜飲が下がる思いもしている(269ー280頁)。安岡は広八の日記から人ごとだから滑稽だと思えるような体験談をあれこれ紹介している。しかし広八はけっして異国で遊んでばかりいたのではない。二年あまりにわたる海外巡業ではマネージャー業もしっかりこなしていたのだ。横浜を立つ前は博奕鍬の遊び人だった広八はいわゆる「通り者」だった。一面では犯罪の影を背負ったヤクザものでありながら表裏両方の社会をとりもつ庶民にとっても、また場合によってはお上にとっても便利だし、いなくては困る存在だった。こういう流浪と自由が広八と芸人たち全員に共通する特徴だったのである。

 

こういう自由人には勤王だ佐幕だ、尊王攘夷だなどというイデオロギーに影響されない図太さがある。これが見知らぬ世界をかけめぐる旺盛なエネルギーの源なのだろう。

 

ちなみに総勢19名の「帝国日本一座」は横浜からアメリカへ西部と東部で巡業したのち欧州各地でjも従業をつづける。その後再度アメリカへもどる。巡業期間は2年あまりにわたる。途中で1名が病死、残った18名はニューヨークにもどった時点で帰国組と残留組に別れる。帰国組は高野広八に率いられてサンフランシスコ経由で横浜へ。濱碇一座を中心とする残留組はそのほとんどが1884年に帰国するまで欧米で興行を継続したらしい。

 

<手頃な関連web資料ならびに図書>

*国立歴史博物館、歴史系総合誌『暦博』第118号、連載「歴史の上人・写真による所蔵品紹介:サーカスの夜明けー軽業芸人の海外交流」www.rekihaku.ac.jp

 

*『高野廣八日記ー幕末の曲芸団海外巡業記録』(福島県飯野町史談会、1977年):大規模な図書館でしか所蔵していないようだ。次の安岡章太郎の本はこの日記をかみ砕いて書かれているのでそちらを読むのが賢明。

 

安岡章太郎『大世紀末サーカス』(朝日新聞社、1984年):手だれの小説家だけに語り口がうまい。読んでいて楽しい。

 

*宮永 孝『海を渡った幕末の曲芸団ー高野広八の米欧漫遊記』(中公新書、1999年):正確でわかりやすい論述で当時の芸人による海外遠征について楽しく眺める効果がある。

 

*三原 文「海を渡った日本の見世物 ー リトル・オーライこと濱碇梅吉の大活躍 ー 」、『別冊太陽』 日本のこころ 123、2003年6月)。

*三原 文『日本人登場ー西洋劇場で演じられた江戸の見世物』(松柏社、2008年):巡業先の新聞をはじめ丁寧に資料をあさって詳細かつ正確な記述がなされている。詳細すぎるので、まず安岡、宮永両氏の本を読んでからこの本にとりかかるべきだろう。