大衆演劇界はいまだにmorally blindなのか!(2016年4月 明石)

兵庫県明石市にある「ほんまち三白(みはく)館」は創立ごわずか半年。だが地元商店街などが中心になって立ち上げたNPOが運営しているだけあって劇場内に気が充実している感じがする。

 

先月(3月)は下町かぶき組傘下の「岬一家」が公演していたが、なんどか通って楽しんだ。下町かぶき組というとほとんど東北地方でしか公演していないため関西ではなじみが薄い。そのためまだまだ全国区の大衆演劇劇団と認知されていない。最近「劇団 悠」が近畿圏で活躍しているおかげで認知度があがってきているように思う。劇団 悠につづけとばかり岬一家は関西に初乗りこみして今年1月姫路は山陽シネプラザの特設舞台でなのりをあげた。次いで2月は愛媛県奥道後温泉、3月が明石の「ほんまち三白館だった。4月は滋賀県大津市のJR瀬田駅に近い「琵琶湖座」で公演中。ようやく下町かぶき組の2劇団が近畿圏で活躍する足場を築こうとしている。劇団 悠を応援している私としては下町かぶき組が関西で存在をアピールしているのはうれしい。

 

私の意識の中では下町かぶき組とほんまち三白館の縁が強いのでこの劇場自体に声援を送りたいと思っていた。今月も明石に週1回は通うつもりでいた。あれッ?「思っている」じゃなくて「思っていた」とは?劇場に原因があるわけではなく今月2座合同公演中の劇団、かつき夢二「かつき浩二郎」と三河家桃太郎「三河家劇団」が問題なのだ。

 

とはいえ(裏の)事情は 私にはわからないのでとりあえず劇団が問題だというしかない。つい先日劇場の支配人氏のブログを読んで唖然とした。14日のメイン・ゲストが和・一信会会長だとのこと。この御仁、2年ほど前大衆演劇ファンの話題となったおぞましい暴行事件の中心人物だ。この老人は昨年の裁判の結果執行猶予という条件づきながらりっぱな「前科者」である。この場合前科者一般が問題なのではない。くだんの暴行老人(とその家族 ーー座員ではない)は事件発覚当時から現在にいたるまで公的な謝罪はいっさいおこなっていないという札付きの輩(輩ども=家族)なのだ。

 

この特別ゲストのことを知って一挙に明石通いの気が失せた。明石は観劇もさることながら劇場のすぐ北側にある「魚の棚商店街」で海産物を見たり買ったりするのも楽しみにしていただけにかえすがえす残念なことだ。

 

以前耳にした話によると(男気のある)座長三河家桃太郎はこの暴行事件のことが大衆演劇界で騒がれていたころ九州の座長大会で座員に対する暴行についてはっきり批判的な発言をしたそうだ。そればかりか「和・一信会」からも脱退したとも。にもかかわらず今回の特別ゲストの登場予定はどうしたことだろうか。ばんやむをえない事情があるということなのか。

 

三河家桃太郎座長といえば、かなり前に当時私が住んでいた静岡県浜松市で営業していた「浜松健康センター バーデン バーデン」に三河家劇団が来演したことがあった。私には座長の芸に感服した記憶がある。また当時17歳の京 華太郎が去年だったか梅南座にゲスト出演していて芝居も踊りもずいぶん上達していたので今度もぜひ見たいと思っていた矢先にケチがついてしまった。

 

大衆演劇という社会的にはオモテの芸能とは認知されていない世界だけにこの異常な暴行事件についてマスコミは最下等の三面記事扱いしかしなかった。昨年5月判決が出た際にもほとんどとりあげられもしなかった。ネット上のマスコミの記事はすでに消去されている。ただし少数のブロガーによる記事は今でも読める。(検索語:2014年8月南條隆(矢野正隆)容疑者)。

 

こういう偏見まみれのマスコミの報道姿勢は社会というか世間の意識と無意識の両方を素直に反映していることは否めない。

 

千五百年の昔から(放浪)芸人は社会の周辺に追いやられていた。能楽の大成者として著名な猿楽師、世阿弥でさえ時の権力に寵愛されながら、その一方で社会的には人間扱いされなかったという現実がある。歌舞伎役者の場合も同様だ。歌舞伎役者に対する蔑称「河原者」、「河原乞食」は史実を反映しているが、いまだに社会の無意識ではこういう差別感覚が消えずに残っている。こういう感覚は無意識下にあるので個々人がそれを否定しても意味がない。

 

特異な才能を発揮する芸能者古代、中世では庭作りの名人なども芸能者とよばれていたは社会がその異能ぶりをおそれるあまり賛嘆の対象であると同時に蔑視の対象でもあった、あるいは今もそうだろう。今も昔も大衆芸能、大衆演劇の世界に生きる人たちは(歴史民俗用語でいう)「化外(けがい・かがい)の者」や「制外者(せいがいしゃ)」として社会的に位置づけられる。「化の者」や「制者」は社会的に承認される領域の外側にいる存在だ。端的にいえば、かれらはthose being socially classified as subhuman, or even nonhumanである。人間社会はどういう形の存在であれ化外の者を必然的に生み出すとしかいいようがない。だからmorally blindであることは許容されるべきではない。極力morally sensitiveであるように努めるしかない。

  

ちなみに最近偶然出くわしたブログに驚かされた。関西エンタメ界で活動しているという自称モノ書き兼大衆演劇ファン(女性)なる輩がブログ上でいうには、自分には事件の真相を知るよすがもないので加害者や当該劇団について批判はできないそうだ。毎度のごとくオヤジ口調でそうのたもうた上で自分にとって大事なのは舞台の出来がよければそれですべてよしという趣旨のことを書いていた。やれやれ、それでよく一人前の大人として社会生活が送れるものだと呆れるしかない。社会的常識にのっとったmoral sensitivityなしに人間社会で生きるなどありえない。虫けら同然である。