野村万作85歳 ー 枯淡の芸

 『万作萬斎狂言兵庫県立芸文センター

2016年10月15日

野村万作「月見座頭」、野村萬斎「吹取(ふきとり)」

 

 万作氏の現在のお姿を拝見したくて観劇。恥ずかしながらこれまで野村父子の生の舞台を見たことがなかった。

 

はるか昔のこと、TVで万作演じる「釣り狐」を見て喜劇専門だと思い込んでいた狂言ギリシア悲劇そこのけの悲劇を舞台に創造すると知って驚いた。しかしそのときの感動を狂言鑑賞へとつなげなかったのはわれながら情けない。

 

狂言といえば去る(2016年)7月茂山一門の若手が上演した『おそれいります、シェイクスピアさん』を見て感動。これがきっかけで茂山狂言の関西公演を楽しませてもらっている。

 

狂言に興味が湧いているわたしは野村狂言が地元で公演するなら見逃すわけにはいかない。

 

盲人を演じる野村万作が杖をつきながら舞台をめぐるすがたはある種の悟りをえた人間の姿を彷彿させる。僭越ながら「お見事!」と賞賛するしかなかった。わたしには杖のつきかたの軟らかさが印象に残る。人間がセンサーを目一杯働かせて周囲の世界を観察するというのとはまたちがう何かがある。月を愛でる盲人は視覚以外の聴覚で月見の季節を味わう。虫の音を通して深まる秋の風情を丸ごと感じる。みずから身を乗り出して外界を観察するのではない。外界が響かせる風情を素直に、いわば受け身で感受するというべきだろうか。

 

静謐な境地に達している万作に対して萬斎はまだ上達の道程を歩んでいる最中だ。そういう目で父子を比較すると、お年を召された万作は体がいくぶん小さくなっているように思える。だが、それでも元気はつらつとした息子さんよりもはるかに大きく見える。これも芸道の名人であることの証しなのだろう。

 

ところで能・狂言について能楽は静のなかに動を秘め、逆に狂言は動のなかに静を秘めるとわたしは勝手に決めつけていた。しかし最近狂言をたてつづけに見るようになって考えを改めた。どちらの芸も「動」と「静」が微妙にないまぜになっている。

 

とはいえ今回野村父子の狂言を鑑賞して、野村流の狂言は茂山流の芸風と比較すると極論すれば「静」であり茂山流が「動」に思える。そこで勝手な期待だが、野村、茂山両流派の合同公演を見たいと思っている。

 

大衆演劇もいいのだが、狂言が描く人間世界も魅力に満ちあふれていることにようやく気づいた。視野が広まってきてありがたいことだ。