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「童」と能・狂言 — コドモ(中学生未満)は侮れない

 

 

『初笑い狂言201719日、金剛能楽堂(京都)

午前の部

 

 『柿山伏(かきやまぶし)』 演者:茂山仁、茂山

 

 『附子(ぶす)』 演者茂山宗彦、茂山童司、茂山逸平

 

午後の部
 『鶏聟(にわとりむこ)』 演者:茂山千五郎(正邦改め)、丸石やすし、

   田浩、茂山あきら  地:茂山童司、茂山逸平田洋海
 『仏(ぶっし)』演者:茂山あきら、茂山童司
 『二人山伏(ふたりやまぶし)』 

   演者茂山宗彦田洋海、茂山逸平

 

 

 

 『初笑い狂言』は今回が第29回目というからほぼ30年前からつづいているとのこと。恥ずかしいことに大阪出身でありながらわたしはこれまで一度も観劇したことがない。能・狂言に対して本気で興味をもっていなかったと認めざるをえない。

 『柿山伏』や『附子』は小学校高学年向け国語教科書に掲載されているそうだ。前者はテーマ的には民話『猿蟹合戦』に通じるので小学生にはとっつきやすいのだろう。後者も強者と弱者の間で繰り広げられる知恵合戦という設定は人間社会に普遍的なものなので年齢にかかわらず興味をかき立てる。そういう意味でも両作品とも古典芸能に対する関心を芽生えさせる効果がありそうだ。

わたしは午後の部だけ見たが、コドモの観客向けに構成された午前の部からひきつ づき午後の部を見ている(らしい)小学生がたくさんいて驚いた。京都のコドモたちはあんなに幼くても —— オッと、コドモ衆の皆さん、失礼な発言ごめん —— 高感度の芸術的センサーを身につけている。

午後の演目は一見コドモに不向きに思えたが、それはオトナの偏見。かれらは笑いのツボを心得ているようだった。『鶏聟』は室町時代にまだ残存していたらしい婿入り婚制度を背景に純真すぎる人物同士がでたらめな礼儀作法をまじめにうけとったことからおこる滑稽話。コドモたちが親しんでいるマンガやアニメにもありそうな設定だ。素直だが常識に欠ける婿が舅に挨拶するに際して知人に礼儀の教えを乞う。意地悪というかイタズラ心のあるその知人はニワトリのトサカに似せて赤烏帽子(あかえぼし)をかぶり玄関先で羽ばたきながらトリの声をまねろと助言。婿も婿だが、舅も舅でニワトリの鳴き声で応じないことには常識を疑われると案じた結果二羽のニワトリが誕生する。聴覚的だけでなく視覚的にも楽しめる。『仏師』は自宅で祭る仏像を求めて都へ出てきた田舎者が仏像制作の職人になりすました詐欺師にだまされてあやうく金を巻き上げられそうになる。生真面目な田舎者が世慣れた詐欺師に翻弄される。都会対田舎の価値観のバトルだ。最後に若手狂言師のひとり茂山童子の手になる新作狂言『二人山伏』。かつて山伏は厳しい修行で修得した法力ゆえに大いに恐れられ尊敬されもした。法力自慢のふたりの山伏が出会って法力比べをする。だがふたりは茶店の親爺にインチキぶりをからかわれるはめになる。権威者同士の深刻な対立という命題が部外者、アウトサイダーの機知でまるでちゃぶ台返しのごとくみごとにご破算になる滑稽さ。マンガでもよく見られる仕掛けだ。

さて話が狂言そのものからはずれるが、以前から気になっていたのが能・狂言の観客席のコドモの存在だ。今回主催者側の意図があるとはいえ、大勢のコドモが狂言に打ち興じる姿は印象的だった。いまさら何を驚いているのかと不思議がられるかもしれない。たしかに随分以前から初等・中等教育のプログラムには能楽師狂言師による学校出張公演や劇場での観劇が実施されてきたのは承知している。それでも観客席に何人もいた小学校低学年くらいの児童の姿は印象に残る。

コドモ、童、童子。場所が京都だけに「京童」を連想してしまった。京童、平安時代末(1011世紀ごろ)に登場したらしい徒党を組んで市中を徘徊し些細な出来事をきっかけにして騒ぎをおこすのを常とした輩。今でいう「半グレ集団」みたいなものか。のちに意味が拡大され、物見高くて口さがない連中をさすようになる。また14世紀ごろの体制に対する反逆者である「ばさら」、さらにのちの16世紀から19世紀に世間の注目を浴びる「かぶき者」の系譜にまでつながるようだ。

これまたあらずもがなの連想だが、漢字の研究で有名な故・白川 静・編著『字訓』、『字通』、『字統』によると、「童」の語源は眼の上に入墨をいれることであり刑罰として入墨をほどこされた罪人、受刑者をさす。(刺青と書いていれずみとよむが、これは谷崎一郎の小『刺青(しせい)』に由来する。刑罰とは無関係で体制からの逸脱を志向する心根、ある種かぶき者の精神を暗示する。)上の「たつへん」は元々「辛」だとのことで把っ手のついて大きな針の形をあらわす。この針で入墨をいれるのだ。ここから「児童」という意味が派生したのは受刑者が結髪を許されず髪を垂らしていた習わしに基づくとか。話がますます古典芸能を堪能するコドモから離れてしまった。

当然のことながらこんな暗いイメージは金剛能楽堂で見た10歳前後の観客とは重ならない。現代の京都のコドモたちは全部が全部でないにしても芸術愛好家の風貌をもつようだ。

年少者はおとなにはない鋭い芸術的感性があるのか。なにかしら聖性を読みとりたくなるコドモたち。聖化されたコドモといえば、いまだに完全に消滅していない「七つまでは神のうち」(数え年7歳)という言い草が思い出される。江戸時代、いやそれ以前もそれ以後も医学の未発達や栄養学的知識の貧困のため乳児死亡率が高かった現実を背景に生まれた思考。10歳近くまで育たないことには「ヒト」としての存在を認められなかった。このように年少者たちはいつなんどき現世を去ってカミ・ホトケの世界に帰っていくか知れない。それほど危うい存在なのだと信じられていたことになる。またこの発想には近代のはじめごろまで残存していた間引きという習俗との関連性を無視できない。間引きを決行した理由がどうであれ社会の側が自らの罪意識を弱めるために創作した言い訳でもあるだろう。

わたしの場合、コドモという存在の脆弱さをめぐるこの通念を知ったのは日常的生活の場面ではなかった。たまたま必要があって歴史学者黒田日出男・著『境界の中世 象徴の中世』(1986年)を読んだからだ。第十章「『童』と『翁』—— 日本中世の老人と子どもをめぐって」で黒田は人間のライフ・サイクルの幼少期と老年期はカミ・ホトケ、すなわち彼岸に近接すると解釈する。間引きが原因である場合をふくめ幼くして死亡したコドモは慈愛深いカミ・ホトケの元にカエル(還る)、あるいはカエス(還す)のだと言い習わされたと指摘する。それゆえ(老人は別として)新生児から七、八歳のコドモまで葬式はいっさい出さなかったという。このように幼いコドモが聖なる存在として扱われていたことになる。

しかし巷に流布する聖化されたコドモという概念が批判の的になっていることに最近ようやく気づいた。柴田純の論考七つ前は神のうちは本当か日本幼史考」(国立史民俗博物研究報告、第141集、20083)がネット上に公開されているのだ。(ちょっと疑問なのは「七つまで」と「七つ前」とでは分別の基準が違うように思える。)著者柴田は広範囲に資料を援用しながらこの信仰めいた概念が近代の産物にすぎないと説く。(2008年ごろはまだM. フーコーの近代科学の思い上がりに対する批判が大いなる影響力をもっていたのかと思うと懐かしい。)「七つ前は神のうち」説は柳田國男震源地らしい。「七歳になる迄は子供は神さまだと謂って居る地方があります」(「神に代りて来る、『定本柳田国男集』第二十巻、345頁」。この発言はほとんど柳田の憶測に近いと柴田は考える。

柴田が提示する資料によると古代、中世はコドモを社会的に認知していない。近世になると保護の対象として意識され将来社会の構成員とするべく一定の教育をほどこすべきだという考えに転換する。

門外漢のわたしには柴田説が正しいがどうか判断できない。かなり説得力があるような気もするが、2017年1月の現在ネット上の専門家や素人の言説をみるかぎり学会の定説とはいえなさそうだ —— これも素人判断にすぎないが。

柴田説はひとつ疑問に思う点がある。柴田が援用した資料を見るかぎり社会(オトナ)が絶対的主権を発揮してコドモをどう処遇するか、社会の維持発展に貢献させるかを判断している。だが、はたしてコドモがオトナ(社会)の「内部」(理解可能な範囲)に納めきれるのだろうか。オトナには完全には把握しきれない、「外部」というか埒外の存在という側面もあるのではないか。

コドモにはその年齢層特有の感性、現実的価値基準ではわりきれないセンスを身につけているような気がする。ただし上記柴田が指摘する近代の妄想を意識する今となっては「七つまでは神のうち」の発想でコドモを聖化するのは抵抗を感じる。とはいえ能や狂言の観劇時にわたしはコドモには鋭敏なセンサーがあるのではないかと思わせる経験をしている。大槻能能楽堂や大阪能楽堂で二、三度見かけた(祖母と思える女性に伴われた)10歳くらいの小学生も印象的だった。大阪の能舞台ではコドモの観客は少ない。いたとしても舞台自体に興味はなくてなにかほかのインセンティブ(餌?)につられて仕方なく座っているという風情だ。しかし偶然比較的近い席に座っていたこの子は能であれ狂言であれ舞台に対して自発的、積極的に反応していた。たしかにこれは私見にすぎない。憶測以下の単なるあやふやな勘でしかないかもしれない。

わたしのコドモに関する観察のあやふやさは認めよう。たしかに何かを主張するにはサンプルの数が少なすぎる、というより証拠にならないというべきか。

でももう少しこの件に粘着したい。今後の観劇で観客席のコドモの反応を観察しよう。