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春もまた茂山狂言がたまらなくいい

1.『花形狂言 2017』2017年3月31日 兵庫芸術化センター 演目:「蝸牛・改(改訂版)」、「かけとり~落語「かけとり」より~」、「寄せ笑い」、 「My Sweet Home~旅は道連れ~」、「狸山伏」

2.『春爛漫 茂山狂言会 五世茂山千作・十四世茂山千五郎襲名披露記念公演』 2017年4月1日 兵庫芸術化センター 演目:「三番三」、「縄綯」、「髭櫓」

 

 今回幸いにも二日づづけて茂山狂言を楽しめた。茂山社中といえば、昨年7月同じ芸文センターで『花形狂言 2016 — おそれいります、シェイクスピアさん』を見て狂言のおもしろさに気づかされた。ベテラン落語作家小佐田定雄の脚本を元に演出を担当したのがわかぎゑふ(劇団リリパットアーミー II [ツウ] 代表)。こんな豪華版スタッフの功績もさることながら茂山若手陣の活躍が印象に残った。シェイクスピア劇と台本書きに追われる作者としてのシェイクスピアを下地に現実と虚構がごちゃ混ぜになるルイジ・ピランデッロもどきの世界観が舞台に展開する。とてもウィッティな作品だ。

 また近いうちに伝統的狂言から逸脱した芝居が見たい。どういう伝統芸能であれ硬直した「型」、「形式」ばかりが世代から世代へ継承されても仕方がない。伝統の死でしかないだろう。伝統には新しい息吹をふきこまなくては。世代が新しくなれば演者の身体も精神も変化しているはずだ。伝統からの<逸脱>を恐れないように願う。能・狂言の先祖、祖型であった曲芸や物真似などの雑芸が芸術のレベルにまで発展してきたのは伝統の先へ踏み出そうという欲求、衝動があるせいではないか。

 たまたま十二世茂山千五郎(1919—2013年)著『千五郎狂言咄』(講談社、1983年)を読んでいたら、狂言以外のさまざまな芸能分野に踏み出して活躍されていたことを知った。特に興味を引かれたのは30代後半(1955年)で三島由紀夫 作・武智鉄二 演出『綾の鼓』、50代後半(1978年)には(映画監督)中島貞男 作・(実弟)千之丞 演出のギリシャ喜劇風『田舎親爺ソクラテスを殴打したること』という演目だ。故 千五郎ご本人の意欲が感じられる。こういう芸術的野心を受け継ぐ孫や又甥あたる若手連のさらなる冒険が楽しみだ。

 こういう茂山社中との出会いがきっかけで関西での上演作を中心に能・狂言を堪能している。

 今年の花形狂言では「かけとり」と「My Sweet Home~旅は道連れ~」がとりわけ気に入っている。 「かけとり」は元ネタの落語をきいたことがある。人によりさまざまな趣味などに打ち込むというのは世の常。ただし趣味の一種とはいえ「縄綯」にあるような賭け事は要注意だ。暮れの節季には毎年苦労してない知恵を絞り出す庶民の明るさとたくましさが心を打つ。謝金とりに責め立てられる長屋の住人を茂山逸平が演じた。大家が能が趣味だと女房に知恵をさずけられ、相手の趣味を出しに借金の支払いをごまかす。深みのある逸平の声音が大いに効を奏して説得力があった。狂言師だけあって物真似が上手だ。

 もう一つ特筆すべきは囃子方の物真似。女房を演じた茂山茂が能管(笛)のコミカルな口まね。つづいて島田洋海による大小の鼓と太鼓を口と膝打ちで再現。島田の大鼓は素っ頓狂とも思えるかけ声と打ち込みが作品の喜劇的効果を高めていてすばらしかった。

 ついでながら黒々とした髭が自慢の「男」は『源氏物語』に登場する「髭黒の大将」を連想させる。男の身勝手さの典型みたいな人物だ。「髭黒の大将」の方は妻がいながら「玉鬘」を第二の妻にする。もっとも平安時代の貴族階級の規範では複数の妻を娶るのは不道徳ではなかったが。この「玉鬘」というのは光源氏が興味をもっていたのに親友の頭中将がさっさと正妻にしたといういわくつきの女性だ。男女のあいだには複雑な事情が絡むことが多いのか。しかし、一夫多妻の慣習は別にしてこと男の横暴さに関しては室町時代の女性たちも腹に据えかねていたようだ。

 つぎに「My Sweet Home~旅は道連れ~」はなにやら哲学的なテーマかいなと思えた。京から江戸へもどる旅人と逆に江戸から京へもどる別の旅人とのあいだに生じる日常空間が奇妙なぐあいに歪むという現象。今現在の自分の居場所が次第にわからなくなるという認識の混乱をネタに喜劇がうまれる。至極当然の事柄も視点を転換するとまるで別物に変化するのか。別の機会にこの作品の発展形=「続編」に出くわすことを期待したい。

 ところで「新 千作・新 千五郎襲名」関連の公演はこれで二度目だ。昨年10月大槻能楽堂(大阪)では両氏の『襲名披露公演』を見ている。今回の公演と比較するべきではないかもしれないが、わたし的には皮切りの「三番三」ほか三曲とも初めての演目ばかりで10月よりも濃く楽しめた。

 「三番三」は五穀豊穣を願う祈り、予祝が趣旨なので足を踏みならし、手にもつ鈴を振り鳴らす。まさに魂振りだ。季節、気候、その他の理由で衰えた生命のエネルギーを再度活性化させようと地の神、田の神(畑の神)に呼びかける。ただ少し残念だったのは稲穂の象徴である鈴の音がお囃子に負けてしまったことだ。もっとよく響く鈴を振り鳴らしてこそ神々の耳に届く、また「鈴舞い」のありがたさが観客に伝わるのではなかろうか。

 「三番三」(「三番叟」)は大衆演劇で正月三が日に演じられるものは親しんできたが、神事という点では両者に共通する原始的な宗教性を感じる。

 4月1日の公演での「三番三」と「髭櫓」はわたしにはひとつ驚くことがあった。わたしが知らなかっただけだが、http://www.nohkyogen.jp/visitor/noh7/noh7.htmlによると能だけでなく狂言でも囃子方が登場するそうだ。登場したメンバーは大倉源次郎(小鼓)と山本哲也(大鼓)という手練の奏者が入っていてわたしにとっては喜びが倍増する思いがした。

 能狂言の舞台に接して毎回思うのだが、演者、奏者ともに苦痛をともなうと思える姿勢を長時間とらねばならないのは若干痛々しい。こんなこというのは余計なお節介どころか失礼にあたることは承知しているつもりだ。それでも老年期になるとやはり大変だろうなと思わざるをえない。たとえば立位から座位に移る場合、床に膝がぶちあたる音。痛そうだ。どうせ袴で隠れて見えないのだからニー・パッドをつけてほしいと思ったりする。