片山九郎右衛門は芸も人柄もすばらしい

観世流能楽師シテ方山九郎右衛門さんの

能はゆかしい おもしろい」

2017年10月4日、高槻現代劇場大阪府高槻市)午後2時—4時

 

前半は楽屋ウラ話っぽい、気楽に聞ける談話。それでいながら能という芸術の真髄にふれていて傾聴にあたいした。

 

まだ二十代の九郎右衛門氏が古くから伝わる「伝統」に今・現在の風を当てていささか硬化した伝統をリフレッシュしようとしたそうだ。その意図は新しい観客層を開拓すべく新規な発想に基づく「企画」ものを次々と打ち出した。だが、先代(九世)片山幽雪(1930-2015)は大いに不満。そこで十世は若き日(1954年)の父が(現代劇の)劇作家木下順二・作『夕鶴』を能形式に翻案した新作能で主役「つう」を演じたことを指摘したとのこと。痛いところを突かれた父君曰く、「あれは(構成・演出担当した演劇界の鬼才)武智鉄二(1912-1986)に乗せられた(ハメラレタ?)だけ」と弁明することしきり。

 

この時のお話には出なかったが、ネットで調べてみると片山幽雪氏の新作能への取り組みはまだ他にもあった。上演年が不詳だが、武智鉄二と(能楽界の大名人)観世寿夫(1925-1978)が構成・振り付けを担当した新作能高村光太郎原作)『智恵子抄』でも活躍している。血筋は争えないというべきか。

 

ちなみに新作能智恵子抄』は現在で劇中の印象的な箇所を抜粋した「舞囃子」もしばしば上演されるそうだ。

https://style.nikkei.com/article/DGXDZO76769520Y4A900C1BE0P01?channel=DF130120166057&style=1

 

それに続いて来月11月8日おなじく高槻現代劇場で上演される「高槻名月能 『殺生石(せっしょうせき) 白頭』のクライマックスの一節を題材に聴衆を相手に謡の指導が始まった。

今日は本公演の岩場前哨戦だったのだ。

 

殺生石』は全身が金色の毛でおおわれ、尾を九つもつ(女)狐(妖狐の化身である玉藻前たまものまえ)が天竺(インド)、唐土(中国)、日本を舞台に波乱万丈の活躍(暗躍?)を展開する話。ついには日本の那須野で討ちとられ、その激烈な執念が石に変じたと言い伝えられる。その石を「殺生石」というのだそうだ。

 

文楽でもこの伝説は舞台化されている。最近では2015年と2017年に『玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)』として上演。

 

話を元に戻そう。

先ほどのクライマックスの一節とは、

那須野原に立つ石乃 

那須野原に立つ石乃 

苔に朽ちにしあとまでも

執心を残しきて

また立ち帰る草の原」

 

謡も歌唱の一種だが、自他共に認める音痴の私は(例え誰も聞いていなくても)人前で大声を出すのが嫌だという変な性分。恥ずかしくて先生たる九郎右衛門氏の指導に従わなかった。でも考えてみると九郎右衛門氏がおっしゃるように観客も声帯と腹筋を使うつもりで観劇することで舞台と客席が橋で繋がるのだろう。能舞台には劇場構造として<橋掛り>があり、此岸と彼岸を橋渡ししている。それと同じことなのだと気づいた。

 

コーヒー・ブレークを挟んで後半はまず前半の謡の指導で紹介された「那須野」の箇所をお一人で『仕舞』という形式で謡い、舞われた。うまい!名人芸だ。

 

それに続いては観客から有志を募って能衣装の着付け体験の時間だ。男性がお一人出現。九郎右衛門氏はこの男性ばかりでなく聴衆全員に対して丁寧な着付け指導をなさった。しかも実に楽しそうに指導される。このことから能を広く世間に知らしめたい。こんなに楽しい芸能ですよと訴える心がわれわれ観客にひしひしと伝わる名解説だった。

この有志の方も、ひょっとして現代劇の役者さんじゃないかと思わせるほどのshowmanshipを感じさせる男性だった。

 

今日は意義深い二時間だった。

 

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今日の催しは代理で来たとはいえ、かねがね尊敬する(十世)片山九郎右衛門氏のお話と舞(仕舞)を楽しみにしていたし、実際楽しませてもらった。それゆえ九郎右衛門氏に(また主催者にも)ケチをつける気は毛頭ないのだが、コーヒー・ブレークにおぞましいものを見てしまった。

一見人目につきにくいようでいて参加者は見てしまう場所に崩壊の只中にあるあの<クズ政党(ヤマオの繰り返されるscandalゆえガソリン臭い党か)>の中にあって誇らしくも<偉大なるクズ政治屋>こと」ツジモト某」が画像とともにわざとらしいメッセージを掲示していたのだ。これは違法なセンキョ運動ではないか。こいつはジョウ夫とつるんで革命ごっこを生きがいとする輩。劇場のそばにまでいかにも善人ぶった顔をでかでかと載せたポスターがあるではないか。やれやれ。とっととウセロ!