近松「文楽」—— 特異な心中物

2017年11月国立文楽劇場(大阪)

『鑓の権三重帷子』(やりのごんざかさねかたびら)

『心中宵庚申』(しんじゅうよいごうしん)

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近松門左衛門の心中物といえば『曽根崎心中』や『心中天の網島』など10編以上ある。ほとんどの場合、遊女と商人など惚れ合った男女が世間の理解を得られず世を儚んで自害するストーリー展開になる。中には『卯月紅葉(うずきのもみじ)』やその続編『卯月潤色(うずきのいろあげ)のように若夫婦(従兄妹同士)が夫に対する舅(夫にとっては実の叔父)の悪感情から進退極まって心中へと至るケースもある。

 

だが、今回観劇した『心中宵庚申』と『鑓の権三重帷子』は事情が異なる。両作品とも心中の当事者である男女は世間に対する義理を可能な限り最大限に果たそうという意志は疑えない。それでいながら彼ら自身の誇りというと曖昧になるが、強い自覚に基づく<矜持>を世間に対して見せつける点で特異である。

 

『心中宵庚申』で心中するのは若夫婦だが、夫(半兵衛)は武士の出で事情があって結構大きな商家(青物商)の養子になる。養父母には実子はないものの血縁の甥子がいるが、養子である半兵衛を見込んで店を継がせる。この意味で彼には養父母に対する重大な義理ができる。自分の才能、人柄、将来性に大いなる期待をかけてくれる養父母の意思には逆らえないのだ。

 

半兵衛は好き同士で結ばれた女房千代がいるのだが、なぜか養母は彼女を毛嫌いする。ついには半兵衛に千代を離縁するように迫る。養母に対する義理と孝行心に篤い半兵衛は女房に対する愛も全うするべく究極の判断をせざるをえなくなる。つまり養母の意思を重んじて千代を離縁し、そののち自分たち夫婦が比翼連理のたとえのごとく相思相愛の仲であることを世間に知らしめようと心中を決行する。

 

現代の観客にとっては半兵衛と千代の二人が前近代の実に旧弊な時代と社会の犠牲となったことが痛ましいと思える。しかし筆者には彼らが哀れな犠牲者だとは思えない。逆に誇らしい理想家に見える。二人は世間対する義理を果たし己の尊厳を守るという離れ業をやってのけるのだ。

 

『心中宵庚申』と同様に『鑓の権三重帷子』も<義理と矜持の葛藤>が主題であることを確認したい。ここでいう「義理」は『心中宵庚申』のように世間一般だけでなく武士社会も意識しているように思える。主人公笹野権三は某藩の小姓であって歳は若くともれっきとした武士である。「鑓の権三」と異名をとる武道の達人であり、その上美男子である。人並み優れた武芸の才能と容貌、ことに後者が一人の年上の女性の心を惑乱させて、その結果思いもよらぬ悲劇が彼に降りかかる。

 

笹野権三は同僚であり、茶道の相弟子でもある川側伴之丞(かわづらばんのじょう)の妹雪と密かに契りを交わしている。日頃は馬術で互いにライバル意識を燃やしている二人だが、藩の重大な行事に際して二人は茶道の腕前を競い合うことになる。

 

相手に先んじるには茶の師匠浅香市之進が保管する奥義書を見なくてはならない。折しも市之進は出張中なのでその妻さゐに頼み込んでこっそり奥義書を覗き見するしかない。伴之丞は伴之丞で悪巧みを講じているが、純朴というか機転が利かない権三はさゐにこの願いを直接ぶつける。

 

さゐは以前から権三をぜひ娘菊の婿にとりたいと考えているのだが、娘思いの感情にいつしか自分が権三と契りたいという欲望が重なり合う。ある夜更け、さゐは権三を屋敷に招き入れ奥義書を見せる。ちょうどその時さゐを欺して奥義書を盗み見ようと企んだ伴之丞が屋敷の庭に忍び込んでいて障子越しに権三とさゐの姿を見てしまう。伴之丞は二人が主人の留守をいいことに密会していると上司に訴え出る。

 

ここからの展開はやや強引ではある。夫市之進の名誉を守るため妻であるさゐは権三に向かって二人は不義を働いたので二人でいっしょに夫に成敗される「女敵討ち」の運命を受け入れてほしいと無理を承知で懇願する。(権三の言い分や意思は明かされないまま)権三は承諾し、他国の京都伏見でみごと市之進に成敗されて果てる。

 

さて、近松がこの作品で描く男女関係をめぐる男尊女卑イデオロギー丸出しの倫理観は現代では到底受け入れられない。ましてや「女敵討ち」は封建時代の悪しき倫理観にのとった習わし以外の何ものでもない。同時代を生きた近松自身そう考えていたに違いないだろう。だとすればなぜそういう作品を今尚繰り返し上演し感動する観客が少なからずいるのだろう。今回この作品を初めて目にした筆者も感動した。

 

『鑓の権三重帷子』と『心中宵庚申』は筆者にとっていつの時代であれ己が置かれた状況や環境を簡単に無視することは不可能だろうと気づかせてくれる。少なくとも無視することが困難な場合が多いのではないか。人は誰もがそれぞれの人間関係の中で生きている。確かにその人間関係を切り捨てるしかない状況がありうることは否定しない。己と関わりをもつ人間の顔を立てるというか少なくともその人間の事情に配慮する必要に迫られる。しかしその一方で己の尊厳をうっちゃるわけにはいかない。世間の義理と己の尊厳という究極の二律背反を正面から受けとめるには半兵衛と千代(『心中宵庚申』)あるいは権三とさゐ(『鑓の権三重帷子』)が選んだ自死をおいては他になかったのではないかと思えてくる。

 

正直なところ現実世界で同じことを実行できるかと問われると答えに窮する。だが、現実的な判断とは別の判断がありうると納得させてくれるのが文学・芸術の世界ではないだろうか。

 

この二つの作品が描く世界とは違い、昨今のニュースから読みとれる価値観は首をかしげることが多い。万人が平等だという価値観があまりに平板に理解され、誰もが可能性も能力も同じでなくてはいけないとあちこちでがなりたてる輩がうじゃうじゃいる。それをまたマスコミが煽り立てる。例えば議員が職場である議場に乳児を連れてきて当然か?違うだろ!と言いたくなる。入学試験を全廃すれば社会の知的レベルが向上するか?これに対してはしませんと断言できる。義務教育以後の教育費を全て無償にするって?それはアカン。義務教育の学習内容を必要なだけ習得していないのにそんなことして害悪が生じるだけでしょ!

 

最後になったが、義太夫語りについてはとりわけ竹本千歳太夫さん(『心中宵庚申』)と豊竹咲甫太夫(『鑓の権三重帷子』)のいつもながらのドラマチックな語り口を堪能できてありがたかった。

 

両作品のストーリーは南条好輝さんのサイトが便利:http://tikamatu24.jp/a-19.htm

 

筆者とは解釈が異なるが、『鑓の権三重帷子』のキーワードである「女敵討ち」についてはデジタル論考「女敵討ちを考える〜吉之助流『仇討ち論』・その4」が興味深い:

http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/geinohsi17.htm