Three Billboards outside Ebbing, Missouri (2017) はただの推理ものではない。

この映画の真価はGolden GlobeやらOscarにノミネートされたり受賞するかどうかという問題とは無関係である。

 

人間失格というべき男に娘をレープされた上殺され、警察は警察で真犯人をあげる能力も意欲もない。映画を観るまで、いやスクリーンに展開する物語の途中までそんな現実に怒れるママ(ミルドレッド)が地元警察を私的に告発し、犯人を追求しようとするリベンジものの映画かと思っていた。

 

題名にある「3枚の看板」にはグズな捜査指揮しかできない警察署長を告発するメッセージがしたためられている。簡潔に、実に簡潔に、しかも名誉毀損で告訴されないよう細心の注意を払った上で出来上がったメッセージ。「致命傷を負わされながらレープされた」、「なのに犯人があげられない」、「どうしてなの、責任者ウィロビー署長殿?」。

 

これからいよいよ女戦士の復讐が始まる!

 

かと思いきや、この映画はエンタメ作品の形式を踏まえながらもお手軽なモラルが一切通用しない世界を描いている。そこが面白いと思う。

 

この3枚の看板は主人公の家のそばに立っているのだが、そこは人も車も滅多に通らないとんでもない町外れなのだ。とはいえ告発対象の警察は意識せざるをえない。

 

真犯人を見つけ出せという母の訴えを伝える看板は地元のコミュニティ、アメリカ社会、いやそれどころか人間の実態、実相を断片的ながらも照らし出す効果を発揮する。

 

主人公の思いがこもる3枚の看板はそれ自体が重要なのではなく人間の姿をあぶり出す一種の<触媒>の働きをしている。つまりレープ・殺人犯をつきとめることが映画の主題などではない。

 

作品を貫徹する本筋というべきものが意図的に避けられている。だからたとえば某映画批評は的外れに思える。曰く「物語中心主義の作品は、あらすじの紹介だけでもネタバレのリスクを伴う」。この作品は「物語中心主義」とは対極にある。ネタバレの心配は皆無である。

 

もはや娘を殺された母の復讐譚にとどまってはいない。社会的正義という姑息なイデオロギーでは把握できない多面的、複層的な人間性がちらほら見えてくる。

 

南部の保守的人間像はリアルな描写ではなくあくまでカリカチュアなのだ。無教育な貧乏白人の住む地域だから極端な差別意識や偏見が人間性のかけらもない犯罪を生み出すのだとこの映画は主張するわけではない。このようなプア・ホワイト像はアメリカ社会ばかりでなく全世界に広まってしまった通念、いや薄っぺらな認識に過ぎない。そんな見方では人間の実像は見えない。

 

ステレオタイプ化した認識や価値観は社会というか世間に定着しやすい。誰しも楽チンに知識を得たいものだ。だがそういう認識や価値観と称されるものにはかなりの程度嘘が混じることが多い。物事の真相を突き詰めようとすれば一面的見方を避けて多角的に見るべきだろう。人間世界の有様は割れたガラスのギザギザになった断面みたいに実にとらえどころのないものだどいう気がする。

 

主人公もプア・ホワイトの一人だ。しかしある面ではプア・ホワイト的価値観に挑戦せざるをえない状況にいる。孤軍奮闘する女戦士のイメージとはほど遠い。そもそも主人公の家庭生活は順調ではない。崩壊寸前というべきか。夫は家族を捨て小娘を愛人にして別居。母親の元にいる息子も両親に対して微妙な態度をとる。そして後に殺害される娘の生前の姿がフラッシュ・バックで映し出されるが、母親との関係は険悪だ。十代の子どもに全責任を負わせられないにしてもいわゆる「ビッチbitch」の予備軍だ。

 

本作の監督Martin McDonagh (1970年生まれ、英国とアイルランドの市民権を保持)映画脚本、監督であると同時に劇作家としても活躍するだけあってテーマに対するアプローチが一面的ではない。当然Deus ex machine(機械仕掛けから登場する神)よろしく登場人物の誰かがなんお前触れもなく突然絶対的権威、権力を発揮して紛糾する事態を一挙に解決することがない。さすが手練れの作家だけのことはある。

 

主人公はNew Yorker誌の映画評 https://www.newyorker.com/culture/culture-desk/the-feel-good-fallacies-of-three-billboards-outside-ebbing-missouri での指摘とはちがって「女Rambo」とは描かれていないない。Ramboなら決意は変わらないはずだ。ところが結末でかつて娘の殺害者捜査をめぐって仇敵の関係にあったディクソン元警官とともに真犯人に見立てたアイダホ在住の男を成敗に向かう車中で抹殺する決意が揺らいでいることがわかる。印象に残るエンディングだ。これではRamboになれない。

 

欧米、ことにアメリカ社会ではRamboといえばまともな教育も受けず差別意識や偏見まみれの下層階級の象徴みたいなイメージでとらえられる。いくつか英米の映画評を読んだが、Ramboに負けず劣らずの偏見まみれのディクソン警官を否定的、それどころか除去すれば作品自体がかなりましになるとまで主張する向きもある。

<見本> “Why Three Billboards Outside Ebbing, Missouri is so controversial” https://hellogiggles.com/news/why-three-billboards-outside-ebbing-missouri-controversial/

“How Three Billboards went from film fest darling to awards-season controversy” https://www.vox.com/2018/1/19/16878018/three-billboards-controversy-racist-sam-rockwell-redemption-flannery-oconnor

 

しかしこういう視点からの映画評は批評の自滅につながりかねない気がする。というのも作品中の価値観、とりわけモラルや政治観を完全無欠な聖人のそれで断罪するのは納得しかねる。極端な理想主義的平和主義、平等主義などで「人間」を語れるものかどうか疑わしい。

 

ちなみに昨今の日本では権力を批判するのが正しい道だという<偏見>がまかり通っているように思える。権力の座にいる誰でもいい誰かさんを<悪者>にする。ほとんど<スケープ・ゴート>ごっこ遊びでしかない。

 

人間はもっともっと複雑怪奇だ。膵臓癌で余命短いことが原因で自殺するウィロビー署長の後任として登場する頼り甲斐がありそうな黒人男性も南部の偏見まみれの田舎町の不正を断固正すというようなヒーローとは描かれない。

 

人間の多面性に鋭い視線を向けるこの映画の魅力の一つはシリアスとコミカルな側面が同居する点だ。息子を高校まで送ってきた主人公の車に発泡ドリンクを投げつけた犯人と疑える高校生男女の股間を蹴り上げる主人公。

 

またアイロニーも効いている。たとえば署長が法秩序の維持に関心がないだめ警官ディクソン宛の遺書で「法執行者」は人を愛する心が肝心だと愛の功徳を説くくだり。こんな形で人を愛せよと説かれてもはいそうですかと返せないはずだ。

 

もう一つ純粋なアイロニーというより若干暖かい理解の心がこもるアイロニー。様々な意味で差別意識まみれの警官ディクソンが実はホモセクシュアルであることがほのめかされるのが所長の訃報を聞いて先輩警官と抱き合って泣く場面。監督の人物描写は複層的で面白い。

 

このように映画が描き出す危機的状況で垣間見える人間の多面性こそこの映画の魅力だといえる。

 

魅力はもう一つある。The Last Rose of Summerアイルランド民謡『庭の千草』)をはじめとする劇中歌だ。私には未知のカントリー・シンガーTownes van Zandtの歌うBuckskin Stallion Bluesが印象に残る。https://www.youtube.com/watch?v=zJN5W-EreVs

劇中歌一覧はこちら:

https://www.tunefind.com/movie/three-billboards-outside-ebbing-missouri-2017 (曲の冒頭部分のみ視聴可能)

ソプラノ歌手Renee Flemingが歌う The Last Rose of Summer

https://www.youtube.com/watch?v=OzYUvAytrgI

劇中歌全部まとめたサントラ:https://www.youtube.com/watch?v=h4EfNhK4Ep0

 

ただしこのような終始物語の背景に流れる一見牧歌的な音楽は「保守的な南部」特有の文化、感性にいかにもぴったりだとして挿入されているのではないと思われる。こういう牧歌性は映画に頻出する暴力性にまったくそぐわない。牧歌的音楽はいわば不協和音を生じさせる働きをする。あえて異質のものを並存させることで「南部」に関するステレオタイプなものの見方に疑問を提起しているに違いない。通念に異議を唱えることは一種の異化効果だ。観客に従来とは異質の認識を促している。

 

最後に余談めいた話だが、脚本の元ネタにもなったらしい現実の事件がある。場所は同じミズーリ州の田舎町Holts Summit。2003年のこと、Marianne Asher-Chapmanの娘Angie(作中の少女と同名だが年齢は20代前半の既婚者)が突然行方不明に。当初Angieの夫が妻は男と駆け落ちしたと主張。後に自分が誤って妻をベランダから転落させたが、それはあくまで事故だと主張する。Angieは転落死したという。突然のことに判断力を失った夫は妻の遺骸を遠く離れた川に運んで沈めたと主張する。裁判の結果懲役7年だったが、4年後に釈放される。

 

一方遺体の所在は謎のまま。母Marianneは娘の生存の可能性に一縷の望みを失わずにいるそうだ。

<参考サイト> “Two billboards outside Holt Summit, Missouri: the true story” https://www.theaustralian.com.au/arts/in-depth/oscars/two-billboards-outside-holt-summit-missouri-the-true-story/news-story/135867a3ac066b4c0bd1e8e2f2a73d08 https://www.youtube.com/watch?v=IL76oS6CdiE http://www.news.com.au/lifestyle/real-life/news-life/meet-the-reallife-mother-behind-the-heartbreaking-three-billboards-story/news-story/99659bd632a1bacb57e8c0a6ed7cd6ed?from=rss-basic