(現代)狂言に今も息づく「世阿弥以前の猿楽」のエネルギー

金剛能楽堂

<茂山狂言 笑いの収穫祭2018>
 ~古典・昭和・平成 各時代の選りすぐり三本立~

 ・狂言「素袍落」茂山千作、茂山七五三、茂山あきら

 ・狂言「宗旦狐」茂山 茂、茂山千五郎

 ・新作狂言「かけとり」茂山逸平茂山宗彦、茂山童司

       ◊◊◊◊◊◊◊◊◊◊◊◊◊◊◊

伝統ある茂山狂言を支える親子2世代が繰り出す笑いの波に飲み込まれて快感。

 古典狂言「素袍落」では主人は叔父のところへ太郎冠者を使いに出す。いつもながら調子のよさを発揮して無意識に小智恵を働かせてしまう太郎冠者である。思いがけず酒を振舞われ、その上貴重な晴れ着(素袍)を頂戴する。主人に頂戴物をとり上げられるのを恐れてここでまた悪智恵を発揮するも不首尾。それでへこむ太郎冠者ではない。小手先の知恵を繰り出してまんまと大事な素袍を取りもどす。太郎冠者を演じた五世千作さん。四歳で初舞台を勤めて以来七十年という年月の積み重ねがあるからこそ今回の太郎冠者が生まれたにちがいない。私は狂言を熱心に見はじめてから3年くらいしか立っていない。なのでわかったふうな口をきいてはいけないが、それでも千作さんの芸の見事さには魅せられる。

f:id:bryndwrchch115:20181127215436p:plain

http://kyotokyogen.com/actor/shigeyama_sensaku/195027aa_subphoto3_1/

(千作さんの「悪知恵の宝庫ながらも心根が憎めない太郎冠者像」をお見せしたくて無断で拝借しました。画像所有権者の方、すみません。) 

 次いで「宗旦狐」。初めて知ったが、京都では有名な伝説らしい。上京区相国寺に伝わる化け狐、というよりむしろ茶道という芸術文化に通じた、人間でいえば「粋人」だ。外題の由来は狐がが千家茶道の礎となった千宗旦(1578−1658)に化けて茶席に現れるが、そのお点前の完璧さゆえ誰も化け狐だと見抜けなかったそうだ。

 この狂言は昭和の新作狂言で、作者は井口海仙(1900−1982)というこれまた粋人。裏千家宗家の出であり、1950年に創業された京都の書店、茶道を始め美術工芸関係の書籍を出版する「淡交社」の社長を勤めた人だ。そんな事情は初耳だという私の無知は恥じるべきだが、今回新しい発見ができてありがたい。

ちなみに宗旦狐伝説は澤田ふじ子 作『宗旦狐——茶湯にかかわる十二の短編』(光文社文庫)でも描かれている。 

 前説を担当した逸平さんが楽屋で控える宗旦狐役の従兄の茂さんに対して狐ぶりがまだ不足とダメ出し?いわく「ただ舞台で舞えばいいのではなく、狐として舞え」と煽っていたのがおかしかった。このことから推察して、茂山一門の若手の従兄弟同士は仲がいいばかりでなく互いにライバル意識を燃やしているのだ。これは芸能に関わる者として当然のことだろう。

 演目の締めは平成の狂言「かけとり」。これは作者である逸平さんがいうには(故・三代目桂米朝さんの長男)桂米團治さんの同名落語がヒントになったとのこと。米團治さんといえば本職以外の文化芸術の分野でも活躍している才人だ。その才能を生かしてクロスオーバーというか、ジャンルの垣根を飛び越えて落語を活性化し続ける。狂言界で越境を試み続ける若手狂言師の一人である逸平さんが米團治版「かけとり」に感応するのも不思議ではない。

 茂山狂言は二世茂山千作(1864-1950)さん以来京都の豆腐の持ち味同様「控えめで柔軟」であることを一門の方針としているだけあっていつ見ても楽しいし、観劇後も気持ちがほんわかする。

 だが、お豆腐狂言だからといって表向きの柔らかさだけを見ていてはいけない。世阿弥 (1363? ー1443?) が猿楽を高尚な芸術に洗練する以前の野卑でありながらも人間の生命力であり創造力の成果でもある「猿楽」の精神が現代に至るも狂言に引き継がれているのではないか。茂山一門が披露する狂言は厳しい稽古の産物ではあるにしても、いやそれだからこそ舞台に展開する芸はすました秩序を破壊するような笑いを誘発するパワーに溢れている。その精神の次元ではまるで地底のマグマが地表に噴出する際の勢いに通じる。

 能・狂言の元祖たる猥雑な芸能としての猿楽。世阿弥の登場でこういう古い形式の猿楽は消滅したに等しい。世阿弥以前は演者が自らの体を張って行なう<物真似>や<ドタバタ喜劇風の寸劇(スラップスティック)>が猿楽として主に庶民の人気を博していた。世阿弥は親の世代(観阿弥)までの猿楽ではやがて人々に飽きられ長続きしないと考えたのだろうか、自分の生得の美意識、芸術感覚に駆り立てられるようにして高尚な芸術路線へとシフトする。世阿弥の方針は室町時代以降の権力者に受け入れられる。やがて江戸時代になると武家の式楽として規定されて庶民の娯楽とはいえなくなる。(おっと、こんな下手な講釈は無用でした。)

 それでも世阿弥以前の猿楽ってどんなものだったか気になる。『新猿楽記』(平凡社 東洋文庫、1983年)を読むと平安時代中期(1050−1060頃)の猿楽の人気ぶりがうかがえる。作者は学者貴族藤原明衡(ふじわら の あきひら、989?—1066)で一見記録文学形式で一族大勢(妻3人、娘16人あるいはその夫、息子9人)を引き連れてある晩猿楽を見物した様子を身内に対しては結構辛辣な眼差しで描く。藤原明衡は実在の人物だが、家族構成は作り事。それはさておいて猿楽の芸人たちの姿が彷彿する。猿楽芸の描写は当然作者による脚色があるにしても現在見るような枯淡の味わいを特色とする<能>とは似ても似つかない。きっと熱狂の嵐の中で猿楽役者といより芸人たちは得意の技を披露していたのだろう。  

 古い形式の猿楽、能の延長線上に成立した歌舞伎も江戸時代は上演中も観客は静粛にしていなかったらしい。  

 20種類以上もの芸があったとか。猿楽は放浪芸人を含む芸人たちによる<雑芸>の総称みたいなものだったのだろう。博打も猿楽芸の一種だったのがおもしろい。  

 そういう雑芸から能とともに生まれた狂言も笑いを眼目としながら現在では観客も控えめに、上品にしか笑わない、というか芸術鑑賞の嗜みと思い込んでいるせいで笑えない。思うに、東の狂言に比べて西(京都の)茂山狂言はおかしければ大声で笑うべきなのだろう。その方が演者もうれしいにちがいない。今回の公演でも逸平さんによる前説から狂言師の熱情が感じられたし、前のめりで観客に語りかけるスタイルは意図的な挑発だったのだろう。茂山一門は古い時代の猿楽のパワーあふれるおもしろさを再現していると思いたい。