劇団花吹雪 小春かおり・讃

芝居『残菊物語』、2019年7月24日、浪速クラブ

 

おそらく今回の上演意図は身分違いの恋物語を通して男の芸の成長と成功を陰で支える健気な女の姿を浮き彫りにすることだと思われる。日本的感性では幕が女の死で閉じられることで物語は女を描く哀歌というか挽歌だと信じられている。この設定に従うと原作小説(村松梢風、1938年)や翻案物(劇作家巌谷慎一による新派劇・1937年、映画監督溝口健二・1939年など)と同様男が主役で女は脇役という位置づけになる。観客、とりわけ女性観客たちの涙目から判断してその意図は達成された。題名どおり(盛りの季節をすぎた時期外れの残り花)「残菊」女を描く悲劇という定説は根強い。

 

しかし個人的な印象にしか過ぎないかもしれないが、菊之助役の座長桜京之介を相手に小春かおりが演じた「お徳」こそが主役だと思えてならない。小春かおりの役者魂が無意識のうちに女としての<意地>、いや<一人の人間としての意地>を発揮して凛としたお徳の生きざまを描き出したと信じたい。断片的に知れるお徳の恵まれない過去はけっして彼女をいじけさせなかった。それどころか不幸せな境遇が一見哀れっぽい女を人間としての誇りを失わない芯の強い存在に鍛え上げたと言えるだろう。そういう人物像を小春かおりが舞台に創造したと思う。

 

小春かおりは役者の子として生まれたらしいが、興行主や座長の家柄ではなさそうだ。縁あって両親共々劇団花吹雪に入団したと聞いたことがある。絶えず脚光を浴びる花形的な存在ではなく一介の座員という地味な立ち位置にとどまってきたようだ。それでも普段芝居では脇役として渋く光っていたし、舞踊も芸達者だ。

 

私個人の印象ではあるが、とにかく小春かおりの「お徳」は斬新だという気がする。斬新だという根拠は今回の「お徳」が原作や翻案物の趣旨を逸脱している点にある。この場合逸脱というよりというより一切言挙げせずに黙って耐える女という定説化した人物像がもたらす束縛から自由になったというべきか。その結果従来表面化しなかった芯の強い女としてのお徳の姿が浮き上がる。

 

<意地>といい<芯の強さ>といいお徳には不似合いな評価かもしれない。実際、世間では原作と翻案とを問わず『残菊物語』といえば、自分のことはたえず控えめにして男に尽くす健気な女を描く作品だと見る傾向がある。だが私には小春かおりがそれとは異質のお徳、自分の信念を静かに主張する女を打ち出したと思えてならない。小春かおり本人がそのことを自覚していたかどうかはわからない。しかしこの女優のこれまでの生きざまがいわば自己主張したと思える。

 

ちなみに、お徳が男にとって都合のいい「尽くす女」だとする常識にすでに四十年前に反旗を翻した人がいる。映画評論家佐藤忠男である。佐藤が注目したのは溝口による1939年映画版(主演・花柳章太郎 / 森赫子、脚本担当・依田義賢)でお徳が不甲斐ない菊之助を親の家に追い返してやったと啖呵を切る場面である。養父である五代目菊五郎によって菊之助との仲を裂かれたお徳が以前二人で暮らした裏長屋を再訪する。すると顔見知りの娘になぜ二人で連れ立って来ないのかと問われて慎ましやかなお徳の口から意外に激しい言葉が出てきたのだ(佐藤忠男溝口健二の世界』1982年筑摩書房145-148頁)。

 

こういう場面は原作小説にはないが、社会の矛盾や抑圧に敏感な溝口がお徳にそう言わせたのだろう。佐藤によると「溝口が、愛ではなく意地を描くのだということに、どの程度、意識的であったかはよくわからない。ただ、「残菊物語」は舞台化され、他のスタッフ、キャストによる再映画化もされているが、私の知るかぎり、いずれも愛の哀話の域を出ない。ただ、溝口の「残菊物語」だけが意地の激しさに輝いているのである」(147-148頁)。

 

だが、この場面だけで溝口がお徳の人物像に新たな発見をしたとは言いにくいような気がする。というのも映画化されたお徳の全体像は現代から見るとやはり明治時代の旧弊な女性像と思えるからだ。

 

溝口の映画と今回の劇団花吹雪の芝居を比較してみると全編を通して女の意地(人間の意地というべきか)を打ち出したのは溝口が配役した 森赫子ではなく「小春かおり」ではないだろうか。劇団の一座員たる彼女に大役を振った座長桜春之丞と桜京之介の懐の大きさに感心するばかりだ。

 

今回の舞台構成にひとつ注文をつけるとすると、臨終の床にいるお徳の背景に若き名優に成長した菊之助の口上挨拶を置くのはお手軽すぎないか。これではお徳の強い意志に支えられた献身があってこそ菊之助の成功が成立つことが曖昧になってしまう。やはり(お徳の死後やがて菊之助も夭逝する場面で幕を閉じる原作小説とは違って)溝口の独自のアイデアで結末におかれた「船乗り込み」とお徳の臨終とを二重写しにすべきだ。この作品の男の成功は何よりもまず女の成功なのだから。

 

溝口監督『残菊物語』(1939年)はネットで全編視聴できる。