喜多流謡曲指南「夢野久作」の能楽に対するなんとも屈折した思い

 最近ネットで洒脱な文章を得意とする山村修さんが書いた簡潔なエッセー形式の謡曲論評『花のほかには松ばかり』(題名は謡曲道成寺」の詞章にちなむ)の存在を知った。山村さんは序説で稀代の小説(探偵小説?推理小説?)『ドグラ・マグラ』(1935年)の著者夢野久作(生没年:1889年〜1936年)の話をし始める。えっ、能楽がテーマなのになんで夢野久作?私の場合夢野久作は偉大なる作家という漠然とした思いしかなかった。これまで随分と色々な批評家たちがこの作家、とりわけその代表作と言われる『ドグラ・マグラ』の存在意義を褒め称える文章に接してきた私だが、作品自体はい恥ずかしながら一度も読んだことがない。人様の賞賛を読んだだけでお腹いっぱいという思いなのだ。

 そんなことはさておき、夢野久作が引き合いに出される言われは彼が杉山萠圓(すぎやま・ほうえん)と名乗って謡曲指南の看板を掲げていた事実にある。多様な遍歴、職歴の人だったから驚くには当たらない。夢野は能楽師でもあった。わずか3歳の頃から祖父(江戸末期の福岡藩士杉山三郎平)に漢籍と能(謡曲と仕舞)の手ほどきを受け、9歳から9年ほどは福岡藩(黒田藩)お抱え能楽師であった梅津只圓(うめづ・しえん、生没年1817〜1910)に教えを乞うた。ちなみにこの人は低迷していた喜多流に新たな命を吹き込むことになる十四世喜多六平太(1874年〜1971年)にとっても十二世喜多六平太と同様に能楽収容において大きな影響を及ぼした人であった。

 山村さんは簡単明瞭にという自らの方針のためだろうが、梅津只圓には触れない。あくまで夢野久作と能との関わり合いにこだわる。夢野久作には「謡曲黒白談」と題した結構長いエッセー集(約130頁)がある。彼にとって能は二十歳近くまで稽古を続け、数年の空白期間を挟んで喜多流に背式入門したぐらいだからこだわりがあって当然だろう。だが、1930年前後の九州地区の喜多流の内部事情は複雑だったらしい。そういういきさつが反映したのか「謡曲黒白談」の冒頭には [謡曲嫌ひの事]という項目がある(青空文庫http://www.aozora.gr.jp/所収)。次の一節には著者自身の能に対する屈折した思いがうかがわれる。

 

謡曲の中でも比較的芝居がゝりに出来て居る鉢の木、安宅等ですら、処々三、四行乃至十四行宛[づゝ]要領の得悪 [にく]い文句が挿まって居て、習ふ本人のみならず黒人[クロウト]の先生方でも何だか解からぬまゝ唸って居のが多く、まして其他の曲に到っては全部雑巾の様に古びた黒い寄せ文句で出来上って居るのだから、局外者が聞いて訳が解かり兼ねて面白くないのも尤もな事と思晴れる。(葦書房、1979年、122頁)

 

 山村さんによると、美文調をひけらかすような謡曲の詞章をからかって「つづれ錦」と評してきたそうだ。褒め言葉の真反対だ。[謡曲嫌ひの事]の後には[謡曲の廃物利用の事]と題した小文が続く。私はここまでしか読んでいないのでその範囲内で物申すが、多少ひねっているとはいえ夢野久作の多少ユーモアセンスは嫌味なところがなさそうである。能楽の舞台が、謡曲が好きなのだ。その点で山村さんも同様だ。『花のほかには松ばかり』は25編の能楽ファンにはおなじみの作品が6頁の分量にきちっと納まる作品紹介を兼ねたウィッティーな劇評で構成されていて著者の能楽に対する愛着が感じられる。私には時々もう少し突っ込んで欲しいという不満を感じたりするが、それは読者各自が深堀すればいいだけのこと。劇評に入る前の序説を使って爽やかな筆致で夢野久作の能、謡曲に対するユニークかつ刺激的な態度に目を向けてくれた山村さんには感謝したい。おかげで夢野久作にとって能の師匠であった梅津只圓に対する人物評『梅津只圓翁伝』(1935年、春秋社、全文ネット上の青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/ にあり。冊子体では約百頁。)を読むことができた。この伝記にはまだ完読していない「謡曲黒白談」と共通するに違いない夢野久作独自の能楽観がうかがえる。この点については別稿で述べてみたい。