劇団 悠はますます大衆演劇「新世代」の様相強まる。

1月11日(月)木川劇場、昼の部。

今月の「劇団 悠」は連日にわたって(かつてなかったほど)威勢がいい!(おそらく)無意識のうちに大衆演劇の伝統を塗り替えようとしている。これはけっして伝統の否定ではない。長らく一定の枠組のなかに納まりながら変化し発展してきた大衆演劇。そういう大衆演劇の心と芸の伝統を受け継ぎながらもその伝統に新しい息吹をふきこんでいるように思える。

 

旗揚げ6年目の一座をしきる若き座長松井悠の牽引力は目をみはるものがある。それと怪優「高橋茂紀」の存在も大きい。大衆演劇外の演劇文化と人生経験を身につけた高橋は大なり小なり大衆演劇の伝統に出自をもつ座長にとって異質な役者だ。この二人の外見のちがいも無視できない。舞台上で視覚化される身長差、さらに(女形むきの)「柔」対(立役むきの)「剛」という(舞台上に限定した)容貌の差。この顕著なコントラストは舞台演出の観点からすると使い道が盛りだくさんだ。そのいい例が11日の舞踊ショーで見せた座長と高橋の相舞踊(?)だろう。座長が女形で踊る(曲名不詳)。そばでコミカルな女形で座長の踊りをなぞる高橋。観客席は大爆笑。みごとなパロディーだった。

 

座長は高橋の言動から的確に刺激をうけとっているにちがいない。その刺激が座長を新たな挑戦へと向かわせる一助となっているのだろう。こういう劇団内に生じているいわば化学変化は若い座員たちのみならずベテラン役者(特別ゲスト、藤 千之丞)も巻き込んでいると思う。そうでないとあれだけの目覚ましい活気は維持できないはずだ。

 

ちなみに栃木出身の高橋茂紀と茨城出身の藤 千之丞は出身地自慢や卑下などをネタにするトークですっかりお笑い名コンビになっている。またもう一組のコンビもいい。個性豊かな「若手」(=10代後半から40代半ばの新鮮みあふれる芸人)たちの中でも妙にユニークさで目立つ吉田将基は小柄なので「吉田(小)」。それに対して(本名が「吉田」さん(?)らしい千之丞は上背があるので「吉田(大)」とあだ名がつき、この二人も名コンビになりつつある。このように劇団内部の舞台上の緊密な関係が座員相互のプロの役者としての結束を強めて、芸が単に向上というよりむしろ「進化」とよびたいくらいの現象となっているのではないか。

 

その進化ぶりは11日の人情劇『長屋長屋の物語』  にもうかがえる。この劇団の場合、「現代」とちがって「昔」の人間関係は不人情もあったけれど心の底で人情があったというような懐古趣味が鼻につくことがない。今も昔も人は変わらないのだという前提で芝居がつくられる。この点で大衆演劇の伝統からはずれているかもしれない。一般に大衆演劇は大衆の記憶にかすかに残るというか消えかかっている「人情」なるものを描こうとする。一方、劇団 悠は外見は時代劇の設定であってもそこに展開するドラマはあくまで現代劇というか現代でも通じる人間の生きざまだ。

 

『長屋長屋の物語』も同様で、家族愛であれ、夫婦愛であれ人間の愛情に対する根源的な欲求を描く。主人公は根はまじめだがふた親を早くに亡くし身寄り頼りのない寂しさから毎日飲んだくれているひとりの職人(高橋)である。そんな男にも義侠心があり、悪漢に絡まれる若い女を助けたりもする。(この娘がこの男に一目惚れし、のちに二人は結ばれるのだが、それはさておこう。)ところがこの飲んだくれが隣人の孝行に知らないうちに影響されてこの職人も親孝行の心が芽生えるという話だ。

 

同じ長屋に病に伏せる母と二人暮らしの幼い子が住む。この少年が母の薬代を稼ごうと毎日冷たい川でシジミをとり売り歩く。それが土地の代官の目にとまり報償までうけとる。この少年を連れて代官所におもむいた長屋の大家がいうにはお上から長屋の名称を「ドブ板長屋」から「孝行長屋」に改名せよとのこと。少年の孝行話と代官のお達しに感じ入った大家は改名を実行し、さらに孝行しない住人は追い出すといいだす。孝行するにも親がいないくだんの職人は仕方なく偶然出くわした見知らぬ老婆(座長)を身代わりの親として十日間金で雇うことに。まるで本当の親子のようになった老婆と職人。その間に老婆は以前火事で生き別れの息子と娘に再会。そんなことは知らない職人だが、やがて契約期間が過ぎて老婆は新たにできた息子のような職人に対する思いで後ろ髪を引かれながらも去る。寂しさに堪えかねて職人はまたぞろ飲んだくれにもどる。しかし結末では以前助けた娘が老婆の娘だと判明。二人は夫婦になり、結局職人は金でやとった「母」を義母とよべる関係になりメデタシ、メデタシ。親に孝行というような古くさい説教臭さはなく観客は素直に感動できる仕上がりだった。いつの世にも人は愛情なくして生きられないのだ。この芝居、一種の現代劇といってもいいだろう。

 

現代劇としての大衆演劇で思い出したが、十年ほど前(静岡県)浜松市にある「浜松健康センター バーデンバーデン」で下町かぶき組の三峰達(みつみね とおる)劇団の公演を見た。外題は思い出せないが、人情劇の一種で、しかも現代劇仕立てだった。座長三峰達がアクション俳優出身だし、座員諸氏もすべて大衆演劇とは無縁の出自だった。そういう一座の事情もあっただろうが、下町かぶき組と現代劇がひとつのものとしてわたしの頭にこびりついている。いや、そもそも時代劇、現代劇という分類が両者の本質の差異をあらわすわけではない。芝居はその本質においていつでも現代劇だ。たとえば、能、狂言、歌舞伎もすべてかつては「現代劇」とよんでしかるべきものだったのだから。芝居が今現在の観客にとって無関係な世界だけを描くのだとしたら、感動はありえないではないか。