片岡愛之助主演『研辰の討たれ』(大阪松竹座2016年 1月)ー 「世界は劇場」

最近片岡愛之助は芸能ニュースでもてはやされているが、本職の歌舞伎役者としてまたテレビ界でも大活躍をつづけている。そればかりでなく歌舞伎の新境地を拓く点でも注目を集める。主な演劇的実験の場は(徳島県鳴門市にある)大塚国際美術館システィーナ歌舞伎だ。2009年に上村吉弥坂東薪車(現・市川九團次)らがスタートさせた第1回公演以来歌舞伎役者と歌舞伎外の演劇人がコラボを試みてきている。愛之助は2011年第3回公演『GOEMON石川五右衛門』から参加し現在では主導的な役割を果たしている。ベテランの同僚役者諸氏ならびに関西歌舞伎界気鋭の若手中村壱太郎の協力も愛之助には心強い。

 

愛之助梨園外に出自をもつ。それが幸いしてか歌舞伎の伝統を拘束でなく、むしろ思いのままに利用可能な起爆剤としてとらえているように思える。意図してかどうかわからないが歌舞伎本来の性質である「かぶく(傾く)」すなわち「逸脱」の精神を発揮しているようだ。

 

ご承知のとおり『研辰の討たれ』は1925年に劇作家木村錦花(1887ー1960年)が古い仇討ち物の芝居『敵討高砂松』からヒントをえて雑誌『歌舞伎』9月号に発表した同名の(戯曲ではなく)読物が下地になっている。その読物をさらに劇作家平田兼三(1894ー1976年)が脚色し同年12月には二代目市川猿之助(1888ー1963年)の主演により歌舞伎座で上演された。家老平井市郎右衛門(嵐橘三郎に刀研ぎの技量を見込まれてにわか侍に成り上がった研師守山辰次、通称「研辰」(片岡愛之助)は生来笑いのセンスに長けたノーテンキな性格だ。この男は一介の町人あがりだから当然武士の道義などわきまえていない。ところが武士としてお城勤めをするとなるとそれでは事がすまない。自分を見下す同僚たち、とりわけその長たる家老平井市郎右衛門のいびりはすさまじい。ついにキレてしまった研辰はだまし討ち同然の卑怯な策略をしかけて家老を殺害してしまう。父を殺された九市郎と才次郎兄弟(市川中車中村壱太郎)は怒りに燃えて敵討ちを誓う。必死で父の敵を探し求める兄弟。一方逃走中の研辰はずるい、汚い手を使っても逃げ切ろうとする。三年後四国の善通寺でついに追っ手から逃げ切れなくなる。命乞いしたあげく、かたき探し旅の途中で仇討ちの意義に疑問を感じだした兄弟の仏心のおかげで一度は無罪放免される。が、その直後研辰は成敗されてしまう。仇討ちが成就したにもかかわらず兄弟の心はなぜかむなしい。

 

ちなみに『敵討高砂松』は江戸時代の終わり1827年実際におこった仇討ち事件をもとに同年に歌舞伎狂言に仕立てられ大坂道頓堀の芝居小屋にかけられた。人気作でその後も明治にいたるまで上演されつづけた。しかし題材にされた現実の仇討ちはわれわれが知る『研辰の討たれ』のストーリーとはまるで違っている。讃岐国出身で江州膳所城下で刀剣研師をしていた「辰次」ならぬ「辰造」がおこした女敵討ち(めがたきうち=よその男と不義密通した妻を相手の男もろとも殺害すること)である。女敵討ちは武士にのみ許された掟で町人にはみとめられていなかった。だが妻を寝取られて怒りに燃えた研師辰造は妻を殺したうえ相手の男、膳所藩の家臣平井市郎次をも斬り殺してしまう。ところが今度は藩士市郎次の弟ふたり外記と九市が兄のかたき辰造を七年間かけて辰造の郷里で探し出しついには仇討ちをはたす。現実の事件は恨みの連鎖でなんともやりきれない様相のものだ。

 

研辰の出身地にお住まいの某ブロガーさんが敵討ちの現場に建つ石碑「日本十大仇討ち・研辰の討たれ遺蹟」について写真付きで紹介されている(「どこいっきょん?」)。地元では研辰に対して同情的だそうだ。

 

元ネタは「女敵討ち」と「肉親を殺害されたことに起因する仇討ち」という殺人にまでいたるという意味で封建時代特有の古臭い道徳規範に縛られた事件である。しかし現実の事件から百年後に翻案された作品は別物だ。『研辰の討たれ』が生まれた1925年当時はいわゆる大正デモクラシーの影響下にあった時代で社会組織の上位者による下位者に対する権力、権威のアビュースabuseすなわちパワハラに対して社会、正確にいうと大衆は批判的だったのだろう。木村錦花も平田兼三も江戸時代にも明治時代にもなかった地に着いた開放感を求める大正時代のあたらしい息吹を察知していた。そういう時代を生きる作家の想像力で古臭い敵討ちという題材を同時代の大衆の嗜好に合わせて翻案している。敵討ちが武士の道義とされた封建社会の旧弊な倫理観を疑問視する視点は生にこだわりまくる研辰とかれを敵とつけ狙いながらも仇討ちの意義を疑いはじめる兄弟の姿に明らかだ。このような大正デモクラシー時代精神は(西洋近代の産物ともいえる)「群衆」に声を与えた点にもあらわれている。封建主義の時代に生まれた歌舞伎には「群衆」という概念は存在しない。群衆とは特定の性格に固定できない。仇討ちをさっさとやれ、やれとそそのかす一団がいるかと思うと逆にかたきがかわいそうだから助けてやれと兄弟をなじったりもする。思慮深い倫理観も正義感もなく実に無責任な集団だ。しかしある程度近代精神を身につけた作者たち(錦花と兼三)はかれら同様近代精神の産物である「群衆」を自覚的に登場させた。

 

この「群衆」観については出口逸平氏大阪芸術大学教授)のエッセイ「『研辰の討たれ』の成立」(オンラインで閲覧可)を読んではじめて知った。出口氏によると大正から昭和にかけて分筆活動をしたジャーナリストで歌舞伎論も多い平山蘆江(ひらやま ろこう)が次のように述べているそうだ。「群衆を舞台に出し、これほど巧みに群衆を利用したのは恐らく此の芝居がはじめてではあるまいか」と。

 

さて、『研辰の討たれ』が世に出た時代からさらに百年近い時間が過ぎた時点で上演された愛之助主演の同作の根底にある時代精神は木村錦花や平田兼三のものとも異なっている。愛之助にとって大正デモクラシーの生んだ「群衆」は存在しない。また研辰に敵対する兄弟役の市川中車中村壱太郎にも同じことがいえる。かれらはそれぞれかたきを討つ側と討たれる側に扮したのである。かたき討ちの物語の登場人物にそっくりなりきったのではないことに注目したい。今回の公演、2016年 1月版『研辰の討たれ』にかぎっていえば、仇を討つ者も討たれる者もどちらも役柄にしか過ぎない。それぞれを取り巻く事情が異なれば、役柄は反転する可能性が充分にあるのだ。

 

唐突だが、ここでシェイクスピアを引き合いに出させていただこう。16世紀末という西洋近代の揺りかごの役目をはたしたルネサンス精神を背景に生まれたシェイクスピア劇には一人ひとりの人間は役者であり、その意味で「世界は劇場」(『お気に召すまま』に登場する鬱ぎの虫にとり憑かれた思索家ジェイクイズのセリフより)だという世界観があふれている。この世界観に通じる感覚が愛之助たちの演じる登場人物たちにうかがえると思うのだが、どうだろうか。舞台に繰り広げられるのは世界という劇場に登場する役者としての人間の生きざまであるという比喩的世界観。と同時に職業としての役者の生きざまが可視可されたものでもあるような気がする。

 

役柄は交換可能な仮のものとはいっても、生きることの悲哀や苦みから無縁だというのではけっしてない。その一方でどの役柄にも限定的ながら生きることの喜びや充実感を味わわせる一面が備わっている。ただそういう肯定的な側面が決定的ではないだけなのだ。幕切れにそこはかとなく漂う一種の悲哀感は21世紀という時代を生きる人間にとってのがれようがないものではないか。

 

ところで今回の上演とどうしても比べて見たくなるのが野田版『研辰の討たれ』(2001年初演、2005年5月の歌舞伎座での上演版はシネマ歌舞伎の一環としてDVD化された)だ。研辰役の故・中村勘三郎がとどまるところを知らない巧みな饒舌ぶりと死に際にいたるまでの悪あがきぶりで観客の心を高揚させ魅了してくれた。ほかにも家老役の故・坂東三津五郎、父の仇討ちに邁進する兄弟を演じた市川染五郎中村壱太郎、それから(原作には登場しない)叶姉妹モドキの風体で宿の客に扮した中村福助中村扇雀らが(長らく秘められていた)原初の歌舞伎のエネルギーを発散して祝祭のムードを盛り上げた。かれらの活躍を可能にしたのは(1970年台後半以降日本の小劇場系の演劇を先導してきた)野田秀樹である。従来の「新劇」がこだわっていた舞台と現実との重ね合わせという姑息な発想をぶちこわし、演劇の根幹に「祝祭性」の謳歌をもちこんだのは野田の功績だ。野田版『研辰の討たれ』ではこの祝祭性が舞台に横溢することになった。野田と勘三郎とのコラボから生まれた「祝祭生」は愛之助らの「世界は劇場」という演劇観と同じ精神を共有している。というのも祝祭の場も劇場もどちらも参加者・出演者がある役を演じることで生きることに必然的に伴う喜びと悲哀の両面をあわせもつ充実感を味わうことだできるのだからだ。

 

片岡愛之助をはじめ出演陣がつくりあげた今回の『研辰の討たれ』は人間の想像力と創造力が生み出した実にすぐれた虚構世界であった。