歌舞伎版『らくだ』(大坂松竹座 2016年1月)、「強腰・強面」対「弱腰・気弱」のキャラ立ちに問題あり。

ストーリーは初代 桂文枝上方落語がもとになっている。この噺家の生没年(1819年ー1874年)からすると江戸時代末期にはネタができあがっていたんだろうか。外題『らくだ』が妙ちきりんではないか。すでにその頃には動物のラクダの見せ物が大きな評判よんでいた。というのも1821年(文政四年)にオランダ人がつがいの駱駝を長崎に連れてきたとか。その後奇妙な縁で見せ物師(香具師)がその駱駝を大枚千両で買い取り、京、大坂からはるか江戸にまで連れて行ったそうだ。この間3年がたっている。すごい人気だったんだろう。ちなみに物証はないが、文献では駱駝の渡来は6世紀末だそうだ。『日本書紀』(巻二十二)によると「秋九月癸亥朔、百済貢駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻。」とある。

 

劇中、乱暴者 やたけたの熊五郎がほんの少し「らくだ」という名前の由来にふれる。それによると「らくだ」とあだ名される人物(といっても「死びと」であるが)の駱駝みたいにノソノソした身動きにあるとか。

 

ま、そういう背景事情はさておいて今回の上演の印象を述べよう。わたしは笑福亭松鶴柳家小三治『らくだ』が好きなのだが、冒頭部分がまったく違う。歌舞伎に模様替えするにあたって堀川 哲がそう脚色したのだろう。私は名うての乱暴者「やたけたの熊五郎」が通称「らくだ」というきょうだい分のフグ毒による頓死に気づく場面からはじまるとばかり思っていた。だが、今回はすでに質素ながら葬礼(古い大阪弁では「ソウレン」と発音)の用意がしてあり、らくだと熊五郎に加えてご近所さんの老婆も登場している。急死した(陰の)主人公「らくだの宇之助」(死びと役)は若手の中村亀鶴が好演。そこまではいいとしよう。しかしこの演目の楽しみは無茶振りを得意とする熊五郎(片岡愛之助)に対して実に気弱そうな屑屋久六(市川中車)の力関係が芝居の後半で逆転するところにある。ところが、ストーリの大まかなところではこの逆転ぶりを強調しているものの、性格の描き分けが曖昧すぎだったように思う。

 

まず熊五郎の得意とする「やたけた(弥猛た)」ぶりが鮮明でない。驚いたのは冒頭に登場する長屋の老婆が実にしたたかであったことだ。芝居がはじまる前に熊五郎が近所を尋ねていき、たまたま在宅していたこの老婆に葬礼のまねごとをするための道具類を借りたことになっているようだ。死びと(らくだ)の枕元には仏具らしきものと魔除けの守り刀として包丁が置かれている。老婆がいうことには守り刀はもちあわせがないので台所の包丁で間に合わせたと。それだけでなく老婆は自分が親切心から葬礼の道具を貸してやったことを強調。まるでたいそうな恩を売ってると言いたげだ。この時点でやたけたの熊五郎の権威などこの強欲老婆の前では何ほどのこともないのではないかと思わされた。この老婆の性格づけはもう少し弱めるか、あるいは熊五郎にその強欲ぶりに負けない無茶振り(やたけた振り)を発揮させるべきだろう。さもないとあとの熊五郎対久六の逆転劇が生きてこないではないか。愛之助はもっとはじけたキャラを演じる力量はじゅうぶんあるはずだが。

 

冒頭でこんな印象を与えるキャラで熊五郎が屑屋久六と対決してもこの暴れん坊の迫力が出ない。また久六のキャラ自体が気弱な性格から強気に逆転するのも信用しにくい。東京育ちの中車が大阪文化圏の人情に通じていないのは、仕方がないとはいえ、この場合災いとなっているのかもしれない。

 

さて、脚本を担当したのは堀川 哲だが、どういう仕事をされているのか不詳。演出者としてあげられているのが奈河彰輔と今井豊茂。奈河彰輔(1931ー2014年、本名 中川芳三)は松竹入社後第2次大戦後不人気に苦しんだ歌舞伎界の復興に尽力、また歌舞伎脚本家・演出家として活躍。『幕外ばなし』が読み応えあるときたので大阪府立図書館で借出すつもり。一方、今井豊茂は歌舞伎脚本家として(演出家 蜷川幸雄シェイクスピア劇と歌舞伎の合体をはかった)『NINAGAWA 十二夜』(2005年)、(夢枕 獏 原作)陰陽師ー滝夜叉姫』((2013年)、(中村獅童尾上松也ら主演の)『あらしのよるに』(2015年)で注目されている。

 

余計な付け足しになるが、落語では残念ながら大抵本来のオチの部分が省略される。松鶴版で聴くと、最後の焼き場での人物同士のやりとりがまことに愉快だ。ただ酒でしこたま酔っぱらった熊五郎と久六はらくだの亡がらを座棺に入れて二人して千日前の火葬場へ運んでいく。あたりはばからず大声で「ソーレンや、ソーレンや」などと歌いつづけて二人は陽気なことこの上ない。が、途中で棺桶の底が抜け、闇夜であたりが見えないことが災いして(生きている)別人を棺桶に入れてしまう。この別人とは酔っぱらって道ばたに寝ていた願人坊(僧のなりをした一種の放浪芸人でわずかな報酬を受ける代わりに代理で水垢離をしたり祈願参りなどをする乞食坊主)だった。やがて火葬場に着く。火に包まれる棺桶。たまらないのは死びとと間違えられた願人坊だ。あまりの熱さに目を覚ます。「ここはいったい何処やねん!?」それに答えて隠亡(火葬場や墓場の管理人)が「千日前の火屋(ひや)や」。願人坊、「うへー、冷酒(ひや)でもええから、もう一杯くれ……」。このオチが好きだ。人の死も一途に悲しいできごとばかりとはいえないと思えてくる。誰しも避けられない人生の結末。(人の誕生が祝福されるなら)安息の時と場として死もまた祝福されるべきかもしれない。

 

(過去3年くらいであいついで物故された)勘三郎三津五郎がそれぞれ屑屋と乱暴者に扮した歌舞伎版(岡鬼太郎・脚色、2008年8月歌舞伎座)も見たくなった。早速DVDレンタルしなくては。

 

<参考文献> 

落語『らくだ』や見せ物の駱駝についてはネット上に各種情報があふれているが、書籍もふくめる。

歴史学者の二谷貞夫氏が次のエッセイーで落語の『らくだ』について興味深い分析をしている:「古典落語から東アジアの庶民生活を読む」

http://www.juen.ac.jp/kaken/24531177/rep1nitani.pdf

川添 裕『落語の楽しみ』(岩波書店、2003年)

川添 裕、木下直之橋爪紳也 編『別冊太陽:見物はおもしろい』(平凡社、2003年6月)

藤山直樹『落語の国の精神分析』(みすず書房みすず書房、2012年)

 

動画「らくだー桂米朝笑福亭松鶴桂ざこば立川志の輔 他」

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