弁天座 劇団 悠『瞼の母』は絶品!

3月6日(日)大和高田(奈良県

先々月(1月)に木川劇場でも見た『瞼の母』。前回同様主人公、番場の忠太郎の生母を演じたのは(劇団の「特別ゲスト」と位置づけられているフリーランスの役者)藤 千之丞。2度目に見て千之丞という役者の存在の大きさを前回以上に強く印象づけられた思いがする。千之丞の抑制のきいた所作が最愛の息子と別れなければならなかった身の不運を嘆き、息子をあとに残してしまったことに対する自責の念に苦悩しつづける一人の人間の姿を描き出すのに実にふさわしい。

 

忠太郎の父親にあたる男に離縁され、流転の人生を送ったのち縁あって江州を遠く離れた江戸で格式ある料亭「水熊」の主と再婚。自ら「おはま」と称している。しかし再婚した夫とも死別して女主として店を切り盛りする毎日だ。あとにできた娘をかわいがりながらも30年の長い年月一瞬たりとも忘れることがなかった愛し子が突然目の前に現れる。そもそも、おはまの複雑な人生と人間関係は彼女の内面に深刻な葛藤をひきおこさざるをえない状況にある。このように元々不安定な心境の彼女をいっそう動揺させる別れた息子の出現。(以前の記事にも書いたが、)忠太郎が「瞼の母」という幻想に一種の安堵、救いを求めるように母おはまも「瞼の息子」という幻想を必要とするのではないか。現実の忠太郎の出現は30年間にわたる心の葛藤があまりに深く、重いだけにそれを解消できるわけではないのだ。現実の残酷さのせいで幻想こそがかすかな救いと感じさせる奇妙な事態を招いているとはいえないだろうか。

 

広く映画や演劇の世界を見渡せばおはまという役を演じきる女優はいるにちがいないとは思う。だが、歌舞伎や大衆演劇のように「女形」という演技スタイルが「おはま」という存在を視覚的に描写するのに効果的だということは否めない。もちろん女形にも上手下手があり、タイプもいろいろある。それでも男優が「女」に扮することでその女が心にかかえる苦悩、葛藤を複雑かつ微妙に彷彿させる可能性が出てくるはずだ。実際この可能性を千之丞が実現していると思う。彼は舞台で強く自己主張するタイプの役者でないだけにかえってその抑制ぶりが「おはま」の描写では効を奏している。

 

こう考えるとどうしても「千之丞」には「劇団 悠」にいてもらわなくては困る。困るのは私だけでなく劇団自体がそうだ。近畿圏を離れて公演する場合どうするんだろう。絶品の『瞼の母』が上演できないのではないか。気になるところだ。

 

追記。劇団 悠にこのメッセージが伝わるかどうか心もとないが、私からたっての希望がある。今日は芝居が深刻な内容だったので昼の部フィナーレが往年(1975年)のキャンディーズのヒット曲『年下の男の子』の曲が流れる若いカップルをネタにした中超絶コメディーであった。学生服姿の吉田将基と和 さおり(かず・さおり)が「年下の男の子」たち。他方、高橋茂紀、長縄龍郎がセーラー服の女子高生に扮する。長縄龍郎はなぜかよく似合っていた。セーラー服の調達先は高橋がアマゾンの通販、長縄はドン・キホーテかどこかのコスプレ・ショップの店頭。ちなみに値段はドンキ(通販)の方がアマゾンより千円以上高そうだ。アマゾンなら2千円代でも買えるのに。最後に登場する座長は先の二人より上等そうなブルー・グレーのセーラー服を着用。結構様になっていたがやはりご本人は恥ずかしいのか、ショーの終わりになって照れ隠しのつもりかわざと男っぽいしゃがみ方をして見せたのはご愛嬌。

 

弁天座で公演しているあいだにこのコスプレ・ショーの再演を私は強く希望している。その場合、藤 千之丞さんにもアマゾンでXXXLサイズのセーラー服を購入していただいて彼が通常見せる女形というコスプレ・ショーとは異質のコスプレ・ショーを見せてほしい。