間断なく流動する時空間の万華鏡 ー 劇団 新感線『乱鶯』

観劇:2016年3月26日、新橋演舞場

 

長年日本の現代演劇の最前線を走りつづける「新感線」だが、私の場合今回が初めての観劇体験だ。ただ、新感線を代表するいのうえ ひでのり(演出)と中島かずき(脚本)がかれらの異才を発揮した歌舞伎NEXT阿弖流為』(2015年10月、大阪公演)を見ているのでまったく未知の世界ではない。

 

現在の新感線はメンバー構成が特異である。上演ごとに劇団内部と外部が合同する。1980年に旗揚げ五2000年ごろまでは純粋に所属メンバーだけで公演活動していたようだ。しかし人気が高まるにつれ上演形態が変化し、劇団外部から異才を放つ俳優やタレントを招いて劇団員との混成部隊を編成するようになった。(私が見た唯一の新感線作品)阿弖流為(私が見た唯一の新感線系作品)は劇団人気作のひとつらしい。この作品は新感線独自の斬新なアイデアと(市川染五郎中村勘九郎七之助ら)歌舞伎界の精鋭が発揮した演技力の結合だった。

 

さて新感線の舞台に大いに興味があってチケットを購入した。それともうひとつ理由がある。稲森いずみの成長というか変身ぶりをみたいと思った。私はTVドラマ『ロングバケーション』(1996年)以外、稲森の活動は知らない。リアルタイムから8年遅れくらいでDVDで『ロンバケ』を見て「モモちゃん」役の稲森のズレ方、はずし方が気に入っていた。あれから20年、あのときの魅力がどう進化したのか興味津々。新感線を代表する個性派役者、古田新太とガチに組んで引けをとらない演技には魅せられた。(とはいうもののTV出演を数多くこなす古田が自分だけ浮いてしまわないテクニックを学んできたことも関係しているかもしれない。)また稲森は今回が新感線の舞台が初めてではない。2009年に『蛮幽鬼』で古田と共演しているそうだ。この作品は動画におさめられ「ゲキ X シネ」シリーズの一環として5月27日神戸三宮にある神戸国際松竹で上映予定なのでぜひ見たい。 

 

新橋演舞場のキャパは1,400あまり。週末だけに入りがいい。いや週末だからじゃなく絶大な人気を誇る新感線だから観客が詰めかけたというべきだろう。それに観客の顔ぶれもいわゆる歌舞伎と比べて格段に若い。ついでに大衆演劇と比べてみても新感線ファンの観客層は子どもどころか孫の世代である。

 

私の席は3階右翼、貧乏席?という人も。正直なところ同じ価格帯でも左翼にすべきだったと悔やんでいる。浅知恵を働かせて右翼席なら花道を出入りする役者がよく見えると期待してしまった。ところが『乱鶯』は登場人物たちが舞台上手で絡み合う場面が多かったのだ。そのためかれらの姿は見えないし、劇場の構造に問題があるのかセリフが聞きとりにくかった。おもしろそうなやりとりが足下の不可視かつ聴取しにくいの空間で進められるはめになり残念だった。

       

上演時間は休憩をのぞいても3時間あまり。舞台上で数多くの登場人物たちの口から膨大な量の言葉の群れが溢れ出す。口ばかりでなくかれらの身体からも無言のうちに言葉が果てしなく放散される。こういう言葉の洪水に飲み込まれて観客は息つく暇もないという状態だったという記憶が残る。

 

セリフのとちりなど私は気づかなかった。だれもトチらなかったのかもしれないが。ネット上の観劇記などによると開幕直後はセリフのいい間違いがあったとか。だが開幕からすでに3週間が過ぎ出演者もかなりなれてきたのか、みなさん滑らかなセリフ回しだった気がする。

 

私には登場人物のセリフも動きも実になめらかだったという印象が強い。アップテンポで進行するで登場人物同士の複雑な絡み合いが生み出す人間模様はまるで万華鏡の像を思わせる。千変万化する幻影。劇の進行に連れて次々に現れる幻想の絵模様。これから先の展開を心待ちにしてワクワクせずにおれない。

 

遅まきながら新感線のスタイルを知りたくて中島かずきの作品を出版物で読み出している。まだ一作だけだが、小説形式の『髑髏城の七人』を読んだ。一応小説とうたってあるが、ト書きの多い脚本というのが似つかわしい。登場人物の動きがまさに万華鏡の絵模様だ。個々の人物がそれぞれの人生を歩んでいるというような文芸物の伝統的人物造形とはまるで無縁の手法を中島は選んでいる。おそらくそれが中島らしいスタイルなのだろう。かといって人間像がないわけではなく、それぞれがある種の個性を発揮していて、しっかりキャラ立ちしている。読者に休憩なく一気に読ませる吸引力に満ちていると思う。

 

ちなみにこの「小説」は中島自身が執筆した『髑髏城の七人』(1990年初演、「いのうえ歌舞伎 巻之四」)シリーズの延長線上にあると中島はいう。1997年に再演したあと2004年には同作の「アカドクロ版」および「アオドクロ版」を上演。この2作では歌舞伎界の若手市川染五郎をはじめ積極的に劇壇外から出演者を招いている。主要登場人物が入れ替わるたびにその役者を最大限に生かせるように人物像も場面も書き換えてきたそうだ。中島の柔軟な創造力には感服するしかない。中島は劇団の魅力を生み出す原動力の重要な要素のひとつなのだろう。

 

話を元にもどそう。従来「いのうえ歌舞伎」はいのうえ ひでのりによる演出、中島かずきが脚本という体制である。いのうえ・中島は強力なタッグを組んで名作を続々と産んできたらしい。 ところが『乱鶯』は外部から評判の高い演出家兼劇作家で「ペンギン プル ペイル パイルズ」という劇団を主宰する倉持裕が脚本を担当している。そのせいか『乱鶯』の作風はいつもの新感線とは違って普通の時代劇っぽいという意見をネットで見かけた。倉持裕は未知の作家なのでまず『バット男』(2003年、舞城王太郎・原作)を読む予定。このように『乱鶯』の場合脚本家は外部からの招聘だが、新感線の性格として脚本を忠実に再現することは考えられない。準備段階でいのうえや中島ばかりでなく劇団員の意見が反映され元の脚本から大きく変化していると推測できる。そうだとすると「普通の時代劇っぽい」という意見が暗示する新感線らしくないという『乱鶯』は実は新感線が新たな進化の段階に入ったことを証明しているのかもしれない。

 

新感線の舞台になじみがない私は今回の観劇をきっかけに今後上映される「ゲキ X シネ」を通して「いのうえ歌舞伎」シリーズに親しみたいと思っている。関西では4月後半に『髑髏城の七人 ーアカドクロ版』と『薔薇とサムライ』が上映される。その後も次々と新感線の舞台が映画として公開される予定だ。さらに6月下旬には「シネマ歌舞伎」で『アテルイ阿弖流為)』が封切られる。おかげで私には楽しみがふえた。

 

なくもがなの余談ながら、『乱鶯』は善も悪も登場人物を個別に全面規定するわけではないのかもしれない。善と悪の奇妙な混在。裏切りがあるようでないようで、いややっぱりあるかもしれない。一見一番悪人ぽい黒部源四郎が中途半端な悪人、小悪党でしかないこともありうる。一方、主人公鶯の十三郎を改心させて盗人稼業から足を洗わた劇中でもっとも好人物あるいは善の権化と思える(元?)幕府目付小橋貞右衛門もその善人ぶりと息子思いぶりがかえって怪しく思えてこないでもない。この善人が火縄の捨吉率いる強盗一味を裏で操っているのではかいかと勘ぐってみたい気がする。幕府目付といえば政治の中枢で司法部門に所属する以上正義を実践してしかるべきではある。あの長谷川平蔵(江戸の治安維持の最高責任者たる火付け盗賊改、長谷川宣以(はせがわ のぶため)みたいな役どころである。しかしこの人物を疑ったら、その愛息、盗賊一味に惨殺されてしまう脳天気でなんとも愛らしい人物こと御先手組組頭小橋勝之助の立つ瀬がなくなる。やっぱり小橋貞右衛門はあくまで正義の人かな。いや、怪しいかな?完璧なグレー・ゾーンだ。

 

それともう一人鶯の十三郎も疑れば疑れる。盗賊火縄の捨吉をうまく操って恩ある小橋貞右衛門の息子勝之助に一味を現行犯で捕縛させようと画策することになってはいる。だが、火縄の捨吉がその罠を察知して押し入り決行日を早める。結果狙われた店の(見習い女中をのぞく)全員、それに勝之助も殺されるはめになる。十三郎は捨吉から聞き出した決行日を捕縛の指揮をとるはずの勝之助に告げる。これはストーリー上当然の行為だ。それでも十三郎が怪しく思えるのは状況認識ができず口の軽い勝之助に対して口外無用とわざとらしく際立たせたセリフ回しでいうのがどうも解せない。案の定勝之助は人前でその日取りをばらしてしまう。十三郎はこういう展開を計算に入れているのじゃないか。でもそんなことして何の得になるのか。ひょっとして実はさきに触れたように小橋貞右衛門にもうかがえる「グレー・ゾーン」を印象づけるのがこの作品の眼目かもしれないと思ったりする。かくして疑問ばかりわいてきて話が落ちない。なので長過ぎる余談もこれで終了。