『超高速!参勤交代』ー 権威は空虚であることが肝腎

本木克英・監督、土橋章宏・脚本『超高速!参勤交代』(2014年)

続編=超高速!参勤交代 リターンズ』(2016年) 

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猿之助が演じる「八代将軍吉宗」は「エア充」感満載 

最近『超高速!参勤交代(2014年)の続編超高速!参勤交代 リターンズ』が世間の注目を集めている。2014年版を見てからにしようと思い、さっそくgoogle playのレンタル(100円でダウンロード、視聴開始後72時間の範囲で再生可能)で楽しんだ。両作品とも登場人物やストーリー展開が似ているものの続編を劇場で見ても退屈しなかった。

 

時は江戸時代中頃、強大な幕府の権威を笠に着た幕閣の主要メンバーがが参勤交代を終えたばかりの小藩に対して再度の参勤を命じる。しかも通常の所要日数の半分である5日でこなせという。将軍や幕閣に対する手みやげが粗末だったことに起因するイジメである。この手みやげとは藩主が信頼する領民たちが愛情をこめて土を耕しそこに植えた大根でできた漬け物のなのだ。この設定はやや過度にヒューマニスティックであるため滑稽みを醸し出したりする。そのコミカルなヒューマニズムの大甘ぶりとバランスをとるためにはこのイジメの黒幕、陣内孝則演じる老中松平信祝の見せる極悪非道キャラが必要だ。主役佐々木蔵之介のストレートに誠実な役作りと同様、あるいはそれ以上に陣内孝則のグロテスクな戯画的演技もこの映画の人気に大いに貢献しているにちがいない。

 

イジメにあうのは主人公(現在の福島県いわて市にあった)湯長谷(ゆながや)藩第四代藩主内藤政醇(ないとう まさあつ、実在の人物、1711年ー1741年)。その温厚篤実な人柄をみごとに体現した佐々木蔵之介がはまり役だ。湯長谷藩は石高1万石程度で小藩だったが、代々の藩主は堅実な治世をおしすすめて藩を幕末まで存続させた。映画に描かれたように領国の安定と繁栄に農業生産が重要だと認識し農民を人間として扱った領主だったと地元では伝説化しているらしい。

 

悪意の固まりみたいな極悪官僚は通常1年の猶予があるはずの参勤交代なのに帰国直後に即江戸へ再度参れという。そんなむちゃな命令も拒絶できない時代の体制。しかしこの映画の趣旨は小規模大名内藤政醇に味方する。湯長谷藩家老(西村雅彦)が次々にひねりだすのは苦肉の策か名案か。かててくわえて忠義に篤く武道に秀でた側近たちと(奇縁で仲間に加わる)一匹狼の忍者の働きで難題をクリアしてみせるのだ。

 

さて(新味のない前置きが長くなったが、)ここからがようやく本題。タイトルにある「エア充」に話題を移したい。言わずもがなのことをいわせてもらうとエア充リア充の真逆で現実味がまるでなく空気みたいに空疎、空無なヒト、モノ、コトをさす。この「空虚さ」を八代将軍徳川吉宗を演じた市川猿之助に筆者は感じた。空虚といっても否定的な意味ではない。カメラがとらえた猿之助の演技が主役の佐々木蔵之介をはじめ他の俳優たちのそれとは質的に決定的な差異、意義深い差異があるように思えたのだ。演技の質という面では(アイドルグループHey! Say! JUMP所属の知念侑李をのぞけば)映画やTVで活躍する俳優専業の出演者ばかりの中で猿之助ただひとり歌舞伎役者である。それが本木監督の意図なのか演者個人の意図なのかどうかはてんでわからない。

 

猿之助が短いセリフを口にするか無言の大写しが数カ所あるだけで他の登場人物との絡みがほとんどない。(観客がたやすく認識できる)超有名人がちょこっと顔出しするカメオ出演に近い。猿之助の出演時間は全体の5パーセントにも満たないだろう。が、それでも猿之助の存在感は大きい。いや、猿之助というより将軍吉宗の存在感が浮き立つというべきか。

 

実質上他の登場人物との絡みがない「吉宗」は物語的にはリア充を保証されている「内藤政醇」の次元あるいは世界から分断されねばならない事情があるのではないだろうか。

 

吉宗といえば開府以来100年あまり経た18世紀前半惰性に流れがちな幕藩体制を引き締めるべく享保の改革を断行した人物だ。吉宗のめざした改革は丁寧に幕閣を説得して進めるたちのものではない。その意志は断固として実践されねばならない。そのためには吉宗の存在自体が周囲を圧倒する威厳を放つべきである。いわば他者の容喙を許さない権威の<象徴>となるのだ。象徴は物理的作用を発揮しない。にもかかわらず人間の心理、集団の心理に大きく作用する可能性がある。

 

温情大名政醇のように臣下や領民とじかに対話するのとはちがい、<象徴>としての威光を放つことで治世を、政治的支配を遂行する。この映画で吉宗が血肉を欠いた人物に見えるのは映画が2次元的であるからではない。現に政醇らは全員3次元的な生身の存在としてスクリーンにあらわれている。2次元のいわば厚みのない存在が条件がそろえば絶大な威力を発揮する。

 

この映画で展開する物語の世界では将軍吉宗は幕府の頂点に立つ最高権威者である。その意味で現実世界のいかなる力も作用しない<象徴>という2次元的存在でなければならない。 これこそ猿之助が「吉宗」という目に見える存在を通して表象表現するものだ。支配体制に決定的な歪みが生じない限り象徴としての権威は揺らぐことがない。「エア充」感満載という印象を周囲に与えることによって歌舞伎役者猿之助は絶対的権威の象徴として充分に機能していたと思う。「吉宗」に象徴される権威、権力は実質的に空虚である。だが空虚であるがゆえに影響力が絶大だという逆説。

 

象徴の実態が空無だという発想はロラン・バルトを思いださせる。かつてバルトは1960年代フランス文化使節の一員として幾度か来日し、その体験をもとに『表徴の帝国 (L'Empire des signes)』(1970年)を著した。この異邦人にはこう思えた。つまり一見意味ありげな記号や象徴に満ちあふれる日本社会・文化だが実は「空虚」こそその本質だと。そこにバルト自身はある種の救いを見いだしたのかもしれない。バルトにいわせると自分が属する西欧文化は死にものぐるいで意味の追求に奔走する。偏執狂的にあらゆるモノ・コトを意味で充満させずにおかない。それに対して日本は無意識のうちに空無を志向し、その空虚に美を見いだすと。こういう日本人の姿勢に焦りはなくむしろ楽しんですらいるように見えたらしい。ちなみに全身、満身「日本通」のドナルド・キーンはバルトのあまりに素朴な旅行者的感想にドン引きしたとか。

 

猿之助的「吉宗」の象徴的権威は必ずしもバルトのいう「空虚」と重なるわけではない。バルトの場合「空虚」なるものをやや美学的に評価しすぎているが、人間社会というコンテクストを考慮に入れると空虚には積極的な作用力を認められるような気がする。その一例として猿之助「吉宗」の象徴的権威をあげることができるだろう。

 

長めの余談。参勤交代は人間社会の諸相と人間の心の奥底を映しだす鏡といえる。殿様だって人間である。国元の財政が豊かでなくとも見栄を張りたい。いやそうしなければ格好がつかないという脅迫観念にとらわれもする。見栄ばかりでなく現実的な必要性からだろうが江戸中期に当時の日本最南端にあった薩摩藩島津家の場合、片道17億あまりの経費を費やしたとか。また生身のからだゆえ旅の途上で病気にもなる。それに殿様がご老体なら旅をするのは苦痛以外のなにものでもない。いやいや、そればかりではない。トラブルの種はごまんとある。参勤交代途上で見舞われる金銭問題や刃傷沙汰。出立前と帰国後の商人相手の莫大な借金の清算に大わらわ。往きと帰りの藩同士が出くわすとどうなるか。石高の差で優先順位が決まっても譲歩した下位の藩はあとあとまで屈辱を根にもつ。

 

このような参勤交代に見る人間の生々しい現実は安藤優一郎・著『参勤交代の真相』(徳間文庫、2016年9月)に詳しい。内容的に先学の知恵に負うところが多いが、同書は入手しやすく、読み応えがありかつ高速読破可能なおいしい本だ。ほかに忠田敏男・著『参勤交代道中記ー加賀藩資料を読む』(平凡社、1993年)やネット掲載の資料「(金沢市図書館)新春展『金沢から江戸へ』」(www.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinseikanazawakara.pdf)も画像資料が豊富で読み応えあり。