2017年5月12日(金)第47回 姫路城薪能

 姫路薪能姫路城三の丸広場特設舞台で上演された(午後6時時-8時15分)。 当日夜8時から雨だという気象予報。でもまあお天気ばかりは運任せにするしかない。駅から会場に向かう途中道順をきこうとわたしが話しかけた人もおっしゃっていたが、過去にも雨に祟られたことが何度かあったそうだ。

 結局予報どうりに第三曲目「小鍛冶」が後少しで終わるというところで小雨が降り出す。去る4月8日篠山能(兵庫県)と似たような状況。 開演直前に到着。有料席にすわったものの、それでも舞台からかなり離れている。オペラグラスを用意すべきだった。大勢の来場者を見越して観客席の範囲がかなり大きい。

 当日の演目・主な出演者は、 (1)能楽「吉野天人」シテ方:上田拓司 ワキ方:江崎正左衛門 (2)狂言「察化」 茂山千作 (3)能楽「小鍛冶」 シテ方:杉浦豊彦 ワキ方:江崎欽次朗  

 出演者は今回初めて見せていただく方がやや多い。一方すでに舞台を何度か拝見してわたしの方で勝手に気に入っているのは茂山父子(千作、千五郎、茂)、山本哲也(大鼓)、大倉源次郎(小鼓)さんたちだ。

 「吉野天人」は桜を愛でにきた都人が人間の姿をした天女と出会う。人間界を彩る桜に魅された天女は正体を明かし、やがて日が暮れて再度あらわれ五節(ごせち)の舞(宮廷の儀式で舞われる舞の一種)を披露して天界に帰ってゆく。

 古来、吉野はカミの住まいする(吉野山から大峰山山上ヶ岳にいたる金峰山(きんぷせん)と総称される)聖域にふくまれる。そこでカミとヒトが遭遇しても不思議ではない。ヒトはカミを恐れるがその一方で歓待もする。「吉野天人」が描くのはまさにそういう意味合いをもつ両者の出会いだ。

 天界の住人をも感嘆させる桜を一種の贄(にえ)、カミに捧げる供物と考えることもできる。とすれば、桜が媒介するカミとヒトとの出会いはカミとヒトの宴、「神人共食」(「直会(なおらい)」)の場でもある。カミにお供えした物をヒトが食べ、その行為をカミとヒトがともに食事を楽しんだと解釈したい。

 2時間ばかりの薪能世知辛い日常を離れて心の癒しをえられる貴重な機会だ。21世紀の現代だから世知辛いわけではない。人世界は今も昔もちがわないはずだ。いつの世もそれなりのストレスがあり生きづらく感じることがある。600年前の日本人も能、狂言の舞台に救われていたのだろう。

 「小鍛冶」もカミとヒトの出会いがテーマだ。刀鍛冶三條小鍛冶宗近(さんじょうのこかじむねちか)はいかに職人としての技量にすぐれ高名であれ、ココ一番の勝負をする段になると不安から逃れられないようだ。やはりカミの助力が必要なのだ。とはいえ職人なら、いやヒトなら誰でもカミが手をかすかというとそうではない。人物と技術の両面ですぐれていることが大前提。

 後半部で(天皇から依頼された)刀剣を鍛える小鍛冶宗近とその相方(相鎚)を勤める狐の精霊(実は稲荷明神)とが軽やかなテンポで交互に刀を打つ。この場面が見どころの一つだそうだが、こういう現実ではありえないカミとヒトとの出会いを楽しんだ昔の人たちの想像力の豊かさに関心せざるをえない。当時の観客は社会の上層部ばかりでなく一般庶民もいたはずだ。読み書きさえできない人もいただろう。しかし人間社会は万人に見えない教育を施していたのだろうか。人間て、すごいの一語に尽きる。

 ちなみに劇中(茂山一門の)狂言師丸山やすしさんが名刀が生まれる事情を詳細に語る「アイ」役で登場。弁舌爽やかで聞いていて心地よかった。 今回の公演で印象に残ったことの一つは具体的な役者の演技だ。茂山千作とその子息お二人が演じた「察化」(和泉流は「咲嘩」と表記?)

http://style.nikkei.com/article/DGXDZO72576080R10C14A6BE0P01)。千作さんの剽軽ぶりに魅せられた。

 察化とは室町時代のことば(?)で詐欺師をさすそうだ。風流ごとに疎い田舎住まいの主が文芸の嗜みのある都住まいの叔父を連れてくるようにと太郎冠者に命じる。ところが主人はうっかり叔父の名前も住所も告げずに太郎冠者を送り出す。太郎冠者も同様にうっかり者で尋ねる相手の情報なしに慣れない都にやってくる。いい加減な人探しをする太郎冠者は生き馬の眼を抜くような都を泳ぎ回る察化(詐欺師)の餌食に。察化は相手の家に入り込んで金品を盗もうという魂胆らしい。しかし田舎者の主人はコトを荒げずに察化を追い返そうとするが、主人の言動を猿真似する太郎冠者のせいで主人ばかりか察化まで呆れさせてしまう。そんなこんなでコトは丸く納まってしまう。

 昨年秋長男の正邦さんに「千五郎」を襲名させたあと舞台には頻繁に出られるもののご隠居さんぽかった。だが、「察化」の主役である太郎冠者の演技は京都狂言の名門茂山千五郎家の実質的総帥であることを見せつけた。本人の生来の飄々とした人柄と長年の芸で鍛えた演技力があいまって「察化」の性格づけが完璧といっていいほどだった。他方襲名後1年足らずの現・千五郎さんはまだ未熟だ。察化の人のよさばかりが出るだけで詐欺師という面が感じられなかった。善悪の両面性を演じなくてだめだ。

 題名の「察化(咲嘩)」という語句は初めてきいた。ネットで調べてもこの狂言が発信源だとしかわからない。あちこち探しているうちに現代書館がかつて発行していた雑誌『マージナル』(marginal=周辺)第2号(1988年)に国文学者松田 修氏(1927-2004年)を対象にしたインタビュー記事「狂言にみるサンカの原像「察化」があるのを見つけた。「サンカ(山窩」とはかつて作家三角 寛(1903-1971年)が提唱した戸籍、住民登録などを一切拒否して山間を回遊する幻の集団をさす。しかし現在ではこの集団の存在は三角の小説的創作だとされている。ユニークな発想で知られた松田 修がどういう見解をもっていたのかしりたいので上記資料(『マージナル』2号)を読んでみるつもりでいる。(この資料は2005年、河出書房新社からKAWADE・道の手帳シリーズで『サンカ 幻の漂白民を探して』と題して再刊されている。)

 余談だが(人工照明と)かがり火に照らされた「小鍛冶」の舞台の真上を鷺とおぼしき野鳥が(お城周辺に住むらしいアオサギコサギかな?)舞台に向かって左から右方向に飛ぶ。城の(白すぎると批判もあるらしい)白壁に映えて趣があった。観客席からも控えめながらどよめきがあがったのもうなづける。    

 

 先月は狂言を2公演(和泉流・野村一門と大倉流・茂山一門)楽しんだ。だが能は先月はじめの篠山能以来久しぶりになる。役者もさることながら地謡囃子方の声音、楽の音の響きに接するのが待ち遠しかった。会場が名城の庭園で上演中に夜の帳がおりかがり火が燃えるという設定は舞台効果をいやましに高める。と期待していた。  

 たしかに屋内の能舞台では味わえない好ましい雰囲気を味わえた。それに当日の演目もわたしにとって初見であり期待が高まりキャスト陣のすぐれた芸のおかげで大いに楽しめた。これだけいい条件なら不満をもつなんてありえないはずだが、マイクを通してきくセリフや楽の音が本来の魅力をそいでいるように思えてしまったのが残念。  

 あれだけ広い会場なら音声を増幅しなくては公演がなりたたないのは理解できる。以前(まだ能に本気で関心をもてなかった頃)に見た彦根城薪能(舞台と観客席が中庭に接しているとはいえ一応屋内)とか大阪薪能大阪市天王寺区にある生國魂(いくたま)神社境内)はマイクなしだ。それが可能なのはどちらも観客席がかなり限定されていたからだろう。でも生の声・音と機械的に増幅したそれとは別物にしか思えないのもたしかだ。