(国際)人文系学会での発表のあり方

今年は6月と7月、アテネ、ロンドンで口頭発表させてもらった。自分のことは棚に上げての発言なのだが、毎度思うのは口頭発表といういわば演技の舞台であらかじめ用意した台本をそのまま読み上げる人が今も絶えない。話の内容が聞き手の関心事であるとないとにかかわらず、こういう朗読が15分から20分つづくのは退屈どころか苦痛になることもある。

 

発表内容は査読を経てオンライン誌などに掲載されるのだから、関心があればその時点でじっくり読める。口頭発表の場合、肝の部分を印象深く聴衆に訴えるという姿勢が必要なのではないか。スライドやパワーポイントは必ずしも必須ではないだろう。聴衆にとって未知の分野なら画像や動画は有効だろう。しかし視覚的資料は出せばいいものではなく論点を明確にする効果がなければ無意味だ。おまけに聴衆の興味をかきたてる工夫も欠かせない。

 

理系の知人から来た話だが、国内の学会で某長老が発表者にきびしいコメントを発したそうだ。朗読するだけなら聴衆に余計な手間をとらせず論文を配布すべしと皮肉を混めて批判されたらしい。分野を越えていずこも同じ問題をかかえているようだ。

 

わたしの限られた経験範囲内では一途に論文の朗読などせず専門外の聞き手にも興味をかきたてる方法で発表する人がときどきいる。今も記憶に強く残るのは10年近く前アメリカ中西部の都市シンシナティで開催された記号論学会でのスウェーデン人の発表だった。商品ブランドという概念を記号論的に分析したのだが、商業戦略に対する切り口が新鮮だった。発表後ご本人に話しかけ発表内容とスタイルがすばらしかったと意見を述べたら、普段から企業人相手のセミナーでしゃべり慣れているせいだろうと謙遜していた。

 

この方の発表スタイルに学べばいいのだが、そうおいそれとはできない。いまだに試行錯誤の最中だ。

 

学会での口頭発表のあり方についてはごくたまに台本朗読などもってのほかという意見を耳にする。

 

一方、日本人以上にハウ・ツウ指南(how-to tips and tricks)が好きなアメリカ人はネットに説得力がありしかも聞き手を引きつけるプレゼンに関する情報を溢れさせている。学術研究に限定しても口頭発表の要領しかり、卒論や修論はいうに及ばず博士論文の構想から執筆にいたるまで懇切丁寧かつまじめなオンライン版指南書が簡単に入手できる。実に便利だ。教育の現場でもそういう指南は実践されているだろうが、指導者による偏りは避けられない。そこで豊富な事例に基づいて客観化されたマニュアルが登場する必然性が生じるのだ。個別の大学が在籍者を対象にオンラインでこの手のマニュアルを公表している。ネット上の情報である以上誰でも利用可能だ。おそらく学外者、一般人に対する教育も意図されているにちがいない。どれを見ても的確なアドバイスがなされている。

 

ただし、こういう<ハウ・ツウ>志向・嗜好は学術・研究倫理の道を踏み外せば公式に認定されていない怪しげな自称「教育研究機関」なるものが有料で発行するインチキ学位diploma [degree] mill: a usually unregulated institution of higher education granting degrees with few or no academic requirements (引用元https://www.merriam-webster.com/) につながる恐れなしとしない。(機械文明が登場する以前、水車 (mill) は有益な動力機関だったのにニセ学位製造機と一緒くたにされて気の毒な気がする。)

 

その一例がかの有名な小保方事件だ。このトンデモ事件についてはしごくまっとうな批評がネット上にある。『社会科学者の随想』に「早稲田大学大学院の学位(博士号)の深化—小保方晴子問題の焦点—」(2014年7月21日づけhttp://blog.livedoor.jp/bbgmgt/)

 

話をもとにもどそう。そういう有益なアドバイスがあふれているにもかかわらず、わたしの知る範囲内ではアメリカ人研究者にも台本朗読が多い。なんでかな。台本朗読が常識みたいな状況なので人に尋ねてみたことはないが、みんな退屈しないのだろうか。

 

研究内容が最先端をゆくものだとか学術的に有意義だとかならいざしらず発表時間内に納まるようにむりやり短縮した原稿の朗読は大抵の場合聞きづらい。5分以内に読み切れる上質のレジュメでも配布してくれといいたくなる。

 

なんだかダラダラと中途半端な工夫しかできずにいるおのれに対する自戒をこめて書き記してしまった。