ある能公演からの連想 ー 見え隠れする物語の連鎖

片山定期能 7月15日(土)12:30~16:50 京都観世会

能「張良」武田邦弘  狂言「仏師」茂山良暢  能「松風 見留」片山九郎右衛門 (狂言の前後に片山伸吾、梅田邦久らによる仕舞が二曲)

 

10分の休憩2回を含む4時間あまりの公演。中身も濃かった。(上記演目では各演目お一人に留めたが、)シテ、ツレ、ワキをつとめた中堅、ベテラン演者、囃子方をはじめみなさん気合がこもった舞台だったと思う。

 

私の個人的嗜好にすぎないが、『松風』で囃子方を勤めた笛方藤田六郎兵衛と小鼓方大倉源次郎の大ファンゆえお二人の奏でる音色に聞き惚れてしまった。

 

「パリンプセスト」とは元々「長期間にわたって何度も重ね書きされた羊皮紙(parchment, vellum)のことをいう。西欧の場合、文字による記録ははるかな昔粘土板や石版、やがて紀元前2千5百年頃からパピルスと羊皮紙が使われだし、これが中世末期1千4百年半ばまで続く。ちなみに古代中国は紀元前150年にはすでに紙を製造する技術があったそうだ。その技術は日本に7世紀の時点ですでに輸入されていたといわれている。

 

記録媒体が乏しかった時代は様々な文書がたいていの場合不完全に消され、そこへ新しい文書が上書きされた。旧文書の削除とは羊皮紙の表層を削りとることである。新たな記録が必要となるたびにこういう削りとりが繰り返された。後日再利用と言う意図はなかっただろうが、記録の断片は残ってしまい特別な処理をしなくてもすかし読むことも可能である。

 

このような重ね書きされた古記録(パリンプセスト)が世間の注目を浴びるようになったのは20年ほど昔のこと、最新の電子工学などを利用した結果古代ギリシャの学者アルキメデスの未知の著作が発見された(The Archimedes Palimpsest)ことがきっかけだ。アルキメデスより後代(10世紀)の誰かがこの数編の論文を羊皮紙に書き写し、それを不完全ながら削りとって13世紀のキリスト教関係の文書が上書きされていたとのこと。この解読については次のサイトなどが役に立つかもしれない。 http://archimedespalimpsest.org/about/ http://www.slac.stanford.edu/gen/com/slac_project.html

 

しかし考えてみるとパリンプセストは考古学的領域に限らない。インターネットの技術が日々向上している現在、電子情報の記録はごく日常的に上書きされるが、羊皮紙場合と比べて本質的に変わらないだろう。古いデジタル記録は削除してもそれは形式上のことで完全に消去してわけではないらしい。専門知識に基づく特殊な方法なら削除したファイルなどを回収、復元できるそうだ。

 

前置きが長くなりすぎた。本題は能『松風』だった。ストーリは諸国を行脚する僧と亡霊との邂逅という定番だ。この曲では亡霊は須磨の浦に住む若い海女二人に身をやつしている。二人は松風、村雨という姉妹だとなのる。驚いたことにはこの娘たちはすでに亡霊となっていた。姉松風はその昔任地へ赴く途次この地に立ち寄った在原行平の寵愛を受ける。だがやがて行平は旅立ってゆき、二人は寂しく後に残される。その悲しみのあまり姉も姉思いの妹もともに狂い死んでしまったのだった。そういう事情を松風は夜を徹して旅僧に語りきかせ行平との辛い別れを偲びながら舞い続ける。須磨の浦に夜明けがくる前に二人の亡霊は冥界に去る。語り、舞うことで松風は現実的には一瞬の時間でしかないが、行平との逢瀬を成就できたのだろう。

 

8世紀に実在した貴族・歌人在原行平は『伊勢物語』のモテ男こと「昔男」のモデルだと信じられてきた在原業平の兄である。兄弟ともに平城天皇の第一皇子こと阿保(あぼ)親王を父にもつ兄弟が政治的事情を慮った父の配慮で臣籍降下している。弟業平はイケメン天才歌人として伝説化している。おそらくその連想からだろうが、かなり影の薄い兄行平も同様のイメージを被された伝説の人である。皇籍離脱したとはいえ高貴な血に変わりはなく宮廷政治の世界でもそこそこの出世を遂げている。この二人、特に弟は歌人として高い評価を得た。だがモテ男であったかどうか確たる証拠がない。あくまで別人の手になる和歌などを通してうかがえる当代や後世の評判というあやふやな資料をもとにそう判断されているにすぎないのだ。

 

噂が噂を呼び、根拠不明な噂がますます増殖する。そういう噂なるものを栄養源にして伝説が次々に製造される。わずか一つの噂でも無数の過去の噂に上書きが繰り返された結果の産物なのだ。いうまでもないが、上書きは古い噂の群を排除したものではなく、過去の諸々の噂が絶えず見え隠れしている。そういう噂を原材料にして紡がれる伝説もまた過去の伝説の上書きの結果生まれたものだ。こうして<在原業平・伝説>が形成され現在にまで伝わる。その亜種として誕生したのが<在原行平・伝説>。ここに一つのパリンプセストができあがる。

 

『松風』はもう一つパリンプセストが形成されている。それが純真な恋する乙女松風をめぐるパリンプセストである。愛しい行平との別れのあと彼女の心に行平との思い出が繰り返し去来する。その一つひとつが物語であり、彼女は心に刻んでは消し、刻んでは消す。成就することのない記録・記憶という行為は存命中果てしなく続く。別れの辛さに耐えかねて狂い死にして今は冥界の人となっても彼女の魂は生前と同様に刻んでは消すという行為を続けざるをえない。劇中では旅の僧のおかげで安らぎをえたようである。が、これが最終的な安らぎなのかどうか誰にもわからないかもしれない。再度人間に身をやつして宗教者に頼って救いを求めることにならないとは断言できないだろう。先に述べたパリンプセストと違って、こちらは生者、死者のどちらにも苦痛を強いるものではないか。願わくば、旅の僧との出会いでかなったこの一度の救いが決定的なものであってほしい。

 

最後に付け足しみたいだが、文芸批評用語としてのパリンプセストは19世紀の英国文芸作家Thomas De Quincey (1785-1859)に由来するといわれる。「人間の頭脳というパリンプセスト」というエッセーを書いており、その中で人間は一生を過ごすうちに繰り返しくりかえし思考を重ね、また様々な感情にかられる。そのすべてが必ずしも原形どおりかどうか定かではないものの心に刻み込まれるとド・クインシーは説く。そういう頭脳が典型的なパリンプセストだというのである。原文がネットで公開されている。 http://essays.quotidiana.org/dequincey/palimpsest_of_the_human_brain/

 

デジタル文化誕生の150年も前に亡くなったド・クインシーは人間の精神のありようとデジタル技術が産んだ世界のありようがかなり共通することを見通していたのかと驚かされる。

 

ここからは私の勝手な考えだが、最先端のテクノロジーは外見とは大いに異なり深く精神世界を掘り下げる文芸と緊密な接点をもつのではないか。テクノロジーと魂とは決して無縁ではないのではないか。だからこそ1995年、押井守監督の映画『The Ghost in the Shell /攻殻機動隊』がじわじわと多くの人を感動の輪の中に取り込んだのだ。魂ghostと機械shellとは共存できるし、その共存は一種の宗教性さえ帯びる。この映画(ならびにマンガ作家士郎正宗による原作)の影響力は25年近く経過した現在にも及び今年、2017年はじめにはアメリカで実写版実写版としてリメイクされ評判を読んだ。

 

この文章、今読み返してみると連想というより暴想あるいは暴走になってしまったみたいだ。