『瞼の母』と『鶴八鶴次郎』〜 決断の時

2017年12月の芝居2本

歌舞伎座十二月大歌舞伎第三部『瞼の母』(市川中車坂東玉三郎 主演)  

 長谷川伸 (1884-1963年) 原作 (1930年)

*浅草木馬館『鶴八鶴次郎』(12月4日、劇団 曉、三咲夏樹・三咲春樹兄弟座長主演)  川口松太郎 (1899-1985年) 原作 (1934年)

 

瞼の母』で印象に残るのは原作者長谷川が用意していた複数の結末部(「荒川堤」の場)の案(異本)のうちもっともシンプルな形で結んでいることだ。従来歌舞伎であれ大衆演劇であれヤクザ渡世に身を落とした番場の忠太郎はそういう生き様の悲哀を強調する演出が多いようだ。確かにこれは外題にもある「瞼の母」というイメージを単刀直入に表現する。その意味で説得力もある。

 

前場で番忠太郎は料亭「水熊」の女将おはまこそ自分の生みの親だと察知し期待に胸膨らますが、すげなく追い返される。拒絶され打ちひしがれる忠太郎は親探しを諦めて渡世人として流浪の旅にもどる決心をする。忠太郎にとっては「瞼の母」こそ本物なのだ。そう達観するしかないのだ。忠太郎が荒川堤にさしかかると金目当てで「水熊」の女将のいわば男妾になろうとする遊び人素盲の金五郎が忠太郎に斬りかかるが、手も無く返り討ちに遭う。

 

この場で忠太郎は母の情に駆られて親子の名乗りをしようと後を追ってきたおはま(と異父妹お登世)とはすれ違いのまま顔を合わすことはない。(異本によっては二人が二十数年間ぶりに<再会>する。実人生で生母と生き別れた作者長谷川の秘めた心の一端がそこに表れているのだろう。)忠太郎は「瞼の母」を後生大事にする<決意>を固めているのだ。この忠太郎の姿は心中での葛藤の末に現実的次元の幸福な出会いを<断念>する。現実世界ではこの断念は不幸以外のなにものでもないことは理解できる。

 

生き別れの親子の再会という喜びは文芸の世界では必ずしも読者・観客の心の高揚に結びつかない。今回の『瞼の母』の場合、「瞼の母」にすべてを賭けるという忠太郎の<断念>が浮き彫りにされることで印象深い出来上がりになったと筆者には思える。玉三郎の「おはま」は一つの至芸の境地に達している。

 

ここで懐かしく思い出すのは(特定の劇団に所属しないフリーランス大衆演劇の役者)藤 千之丞だ。彼が松井 悠劇団で演じた「おはま」も、玉三郎とは演技のスタイルが異なるが、至芸の境地に達していた。わが子忠太郎を頑なに拒む態度が内面の動揺をかすかにうかがわせる絶品の演技だった。しかしあの時の出演陣が揃うことはもうニ度となさそうで残念至極。

 

玉三郎と中車の朗読劇(2014年10月が動画で201510月にアップされている。

https://www.youtube.com/watch?v=8Glm6QgC-YI

この公演は2014年10月の演劇人祭のもの。

http://www.kabuki-bito.jp/news/2014/09/post_1198.html

 

さて翌12月4日関東圏の大衆演劇のメッカの一つ浅草「木馬館」で劇団曉の公演を観劇。この劇団は先先代座長三咲てつやが今をさかのぼること24年前に栃木県で旗揚げ。その後11年して同県塩屋町船生(ふなお)に常設劇場「船生かぶき村」を創設した。現在は三代目座長三咲夏樹・春樹(兄弟)が「船生かぶき村」だけでなく関東ならびに中部地方で月単位の公演を繰り広げている。

 

毎回感じるのだが、関西や九州の劇団と比べると関東の劇団は実にあっさりしている。筆者は普段情の濃い芸風に接する機会が多いのでこういうあっさり系は大歓迎だ。(情の濃い芸風は生身の次元に執着し、ややもすれば精神性の高みに飛翔し損ねる気がする。)2年ぶりに見た劇団 曉の舞台には大変満足した。舞踊ショーも楽しかったが、2時間近いやや長めの芝居『鶴八鶴次郎』が特に気に入った。の作品も『瞼の毋』同様歌舞伎や大衆演劇でよくとりあげられる。

 

筆者の思い込みかもしれないが、これら2作品とも<断念>を<決意>するという点で大いに共通するように思える。

 

『鶴八鶴次郎』は大正時代を舞台に当時人気のあったエンターテインメントの一種である「新内」語り師のコンビを巡るひめたる愛と別離の話だ。三味線弾きの女、2代目鶴賀「鶴八」とその母初代鶴賀鶴八に仕込まれた相方で義太夫語りの男、鶴賀「鶴次郎」。二人は将来を嘱望される若き芸人コンビである。二人の芸はすでに一流の域に達している。そのせいか大聖刻の舞台が引けて楽屋にもどるとどちらも相手の芸の不手際を指摘していつも喧嘩になる。

 

実は二人とも密かに結婚を望んでいるのだ。だがそれを打ち明けられないまま、その苛立ちが相手に対する芸の批判となってあらわれてしまう。やがて鶴八は贔屓筋の男と結婚することに。裕福な家のお内儀になるのだ。コンビ解散と愛する女鶴八を失ったことでやけを起こした鶴次郎は義太夫語りを続けるものの芸は荒んで場末の芸人に身を持ち崩す。

 

コンビが解散してはや3年が経つ。以前から鶴八・鶴次郎コンビに仕えていた佐平(三咲夏樹座長の長男、暁人が大健闘)が二人の才能を埋れさせてはいけないと2年ぶりに二人がコンビを再結成できるように仕組む。理想の相方と再会できて喜ぶ二人。

 

だが、夫と別れてでも舞台に立ちたいという鶴八を前にしてこの2年間ピン芸人として芸人稼業の儚さが身に沁みている鶴次郎は思案の挙句にある決意を固める。鶴八には裕福で堅気の生活を手放さず女としての幸せに恵まれてほしいと鶴次郎は強く願う。結局コンビは解消。鶴次郎は場末の居酒屋で佐平を相手に酒を酌み交わしながら心の丈を打ち明けるのだった。

 

この最後の場面は見ようによってはなんとも救いのない、惨めったらしいと思えるかもしれない。しかし本心では鶴八と夫婦になり(コンビで舞台に立ちたかったに違いない)鶴次郎だが、今もまだ惚れつづけている女、鶴八のせっかく手にした幸せを願って清水の舞台から飛び降りるような気持ちで決断した。鶴次郎はきっとサバサバしているはずだ。一方、佐平にしても裏方ながらこの名コンビの芸に惚れ、尽力してきたのだからコンビの解消には彼の心も傷ついている。だが、鶴次郎が辛い思いを断ち切って鶴八に対して見せた心遣いに感動する佐平でもある。

 

今回の劇団 曉の舞台は鶴八を演じた三咲夏樹と鶴次郎役の三咲春樹の抑制のきいた演じ方のおかげで心に強くて残る舞台であったと思う。それから最後の場面を静かに盛り上げてくれた若座長、三咲曉人の功績も記憶にとどめたい。

 

過去に映画芸術家の誉れ高い成瀬巳喜男監督の同名作品(1938年)では鶴八を名女優山田五十鈴が演じたが、女優の場合単なるラブ・ロマンスとしての性格が強くなってしまい<人間探究>の面白みが半減する。男女の物語と同時に<人間の物語>にするには鶴八は女形が好ましいのではないか。鶴八を女形で演じることで過度の情の表出を避けられるように思う。