茂山七五三さん七十の賀(古希)お祝い公演で痛快かつ柔和な笑いを堪能

 

演目

•『佐渡狐』:茂山七五三(佐渡お百姓)、茂山あきら(越後のお百姓)、茂山千作(奏者)、井口竜也(後見)

•「わかぎ ゑふによる七五三さんインタビュー」

•『居杭』:茂山七五三(陰陽師)、茂山慶和(居杭)、茂山宗彦(何某)、山下守之(後見)

•『千切木』:茂山七五三(太郎)、茂山千五郎(当家)、茂山茂(太郎冠者)、茂山千三郎、茂山童子、網谷正美、丸山やすし、松本薫、島田洋海(連歌の友)、茂山逸平(女房)、鈴木実(後見)

 =============

佐渡狐』

自覚があるかは別にして人間誰しもライバル意識、競争心はあるものだ。そんな、場合によっては人間関係上ヤバイけど、かといって抑えきれない欲望が生み出す人間模様を描くのが『佐渡狐』だ。

 

越後と佐渡のお百姓(農民をはじめ各種の生産者の総称)がそれぞれ年に一度実施される年貢の物納のため都へ上る。偶然道連れになったこの二人。越後の住人が同行者に対して地元にキツネが居るかと問うたところ、居ないというのは癪なので居ると答える。佐渡びとは腰に帯びた小刀をかけてまで自説を主張する。そこで都に着いたら奏者(領主の取次役)に判定を依頼することで当座の話しはつく。差料(腰に帯びた脇差)を賭けると言い出す佐渡のお百姓。小ずるい佐渡びとは奏者に賄賂を使ってキツネの外見の知識を得る。懐柔された奏者の裁定は当然「佐渡にキツネはおる」と。

 

しかし鳴き声は聞かずじまい。それが仇となって佐渡のお百姓は賭けに負けてしまう。我執は災いの元なのだ。

 

笑いのツボとは関係ないことだが、時代設定はいつ頃のことだろうか。お百姓は二人とも個々の生産者による中央政府への直接的物納の義務を負っている。この制度の基盤にあるのはいわゆる租・庸・調とよばれる税制。それが機能していた律令制の中央集権的政治体制下となると7世紀半ばから10世紀。それ以後、平安時代前期には有力貴族や寺社による荘園制が発達してくるとこの直接的納税の制度は崩壊する。鎌倉時代から室町時代にかけて全国に配置された地頭が生産の現地で領主に代わり徴税に当たるからだ。

 

しかしこんな日本史のおさらいは芸能鑑賞には必ずしも必要ではない。この狂言室町時代あるいはそれ以後に考案されたに違いない。ということは物語の構成に歴史にまつわる、いわば集合的記憶のようなものが混在しているのだろうか。

 

余談ながら、「客観的歴史」に対置させようと不用意に「(歴史にまつわる)集合的記憶」という語句を使ってしまった。「集合的記憶」は学術用語だった。ネット検索で初めて知ったが、フランスの社会学者M.アルヴァックス (Maurice Halbwachs, 1877-1945) が「集合的記憶mémoire collective」という概念を提唱している。歴史認識というものは特定の利害関係で結びつく個々の集団が意識するとしないに関わらず自ら形成するものらしい。参考資料: http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00072643-00940001-0299.pdf?file_id=69609 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slogos/archive/34/kin2010.pdf

 

恥ずかしながらわたしはたまたま学術用語と重なるような言い方をしたに過ぎない。こんなこと狂言鑑賞に不可欠とは言えないのでこれで終わり。

 

さて題名にある「佐渡狐」とは。日本のキツネは北海道を除く日本各地に生息するホンドキツネ(本土狐、体毛が赤っぽいアカキツネの亜種だとか)。ただし離島である佐渡島には一時人工的に繁殖を試みた時期があったようだが、成功しなかったとか。

 

佐渡狐』がすんで今度は老婆に扮した少女かなと思わせる鬼才・奇才の演劇人わかぎ ゑふが登場。彼女は女優・劇作家・演出家:リリパットアーミーセカンド二代目座長)だ。

 

(1980年代以降の関西小劇場演劇界中心的劇団の一つであった)「リリパットアーミー」と聞くと同じく鬼才・奇才の作家・演劇人、中島らも(1952 – 2004年)を連想する。中島の早世はわかぎとのコンビが更なる発展を期待されていただけに惜しまれる。中島とともに磊落で先鋭な笑いを創造し続けたはわかぎだが、茂山狂言とも縁が深い。2007年、2009年は自作の狂言『わちゃわちゃ』を提供している。演出は笑いの知性派と評判された故茂山千之丞 (1923 – 2010年)やその息子茂山あきらが担当。最近では2016年7月茂山家若手狂言師集団「花形狂言」公演のために(ルイジ・ピランデッロ作『作者を探す六人の登場人物』の向こうを張るような傑作笑劇『おそれいります、シェイクスピアさん』を書き下ろしている。

 

横道にそれてしまったが、このインタビューでは当日の主役、茂山七五三を軽く、やさしく、若干ビター・チョコ風味でいじっていて出来のいいコントに仕上がっていた。

 

15分の休憩の後狂言2本。『居杭』と『千切木』。

 

『居杭』は題名どおりの名前の男(今回は少年の設定で茂山逸平の次男慶和がつとめる)が日頃目をかけてくれる何某(なにがし)、この場合後援者(茂山宗彦)の家にたびたび逗留するが、その後援者は何かというとすぐに居杭の頭を叩く。さらに耳を引っ張る。当の後援者に言わせると親愛の情の表現だそう。だが居杭にしてみれば痛い思いをするばかりだ。そこで京都は清水寺の観音さまにお祈りして被れば姿を消せる隠れ頭巾を手に入れる。所在が分からなくなった後援者は陰陽師ー正確には陰陽師くづれ、流しの民間陰陽師かー(七五三)を雇って占術で居杭の居場所を見つけ出そうとする。居杭は頭巾を巧みに使って陰陽師を翻弄する。弱者(社会的下位の者、こども)が強者(権力者、おとな)をやり込める面白さ、痛快さからくる笑いか。

 

伊勢門水が描く『狂言画』(wikiより無断借用)では右手の後援者の耳を引っ張る中央の子役が居杭。頭巾をかぶり姿を消してダンナに仕返しをしている。左手は陰陽師

「居杭」の画像検索結果

 

観劇後<隠れ頭巾>がもつ<透明人間化作用>のアイデアの出所が気になってきた。

 

ネット情報では民話にしばしば取り入れられるテーマだそうだ。岡山県に伝わる『キツネの隠れずきん』、佐渡島の『隠れ蓑笠』など。昔話などに登場する鬼や天狗の持ち物であってその呪力で突然姿をくらます。そういえば表向きの名目などという意味合いで「カクレミノ(隠れ蓑)」という言い草が今でも通用する。

 

民俗学でも昔話や伝説のキーワードの一つとして扱われる。妖怪研究で知られる小松和彦は「蓑笠」を<身を隠す>ための道具(呪具)だと指摘している(『異人論 — 民族社会の心性』青土社、1985年、後にちくま学芸文庫)。一方折口信夫は<変身>と<出現>に注目する。「蓑笠、後世農人の常用品と専ら考へられて居るが、古代人にとっては、一つの變相服装でもある。笠を頂き蓑を纏ふ事が、人格を離れて神格に入る手段であったと見るべき痕跡がある」(『国文学の発生・第三稿』、1929年)。 (注)e本『青空文庫』で読める(17頁):http://www.asahi-net.or.jp/~YZ8H-TD/misc/kodai_kenkyu_2_kokubungaku(ipaex).pdf

 

このような蓑笠による<隠れ>と<現れ>を統合させるのが 大和岩雄(だいわ いわお)は蓑笠の呪術的機能として「かくれる・あらわれるの両義性」を指摘する(『鬼と天皇白水社、1992年)。

 

『居杭』の場合、大和が注目する<隠れ>と<現れ>の両義性がよく当てはまる。劇中で居杭は陰陽師の透視力を借りて居杭の居場所を突き止めようとする旦那を散々からかう場面が印象に残る。隠れ頭巾のおかげで居杭は姿を消したかと思うとあらわれたり、また消えたり。透明人間状態の時の居杭は茶目っ気たっぷりだ。子役の慶和くんが大活躍。

 

ちなみにカクレミノとはウコギ科の常緑亜高木がある。若木の葉の形が伝説上の「隠れ蓑」に似ることからそう名づけられたとか。

5裂した葉

wikiより無断借用)

 

蓑笠の呪術的作用から離れるが、神的な存在がもつ身を隠す能力は民間信仰にもうかがえる。三浦あかね著『三面大黒天信仰』(雄山閣、2006年、新装版2016年)によると日本では大黒様として福の神の代表みたいに親しまれてきた三面大黒天はそのルーツを辿るとインドのシヴァ神の化身であるマハーカーラだという(27頁)。この複雑怪奇な性格をもち容貌怪異のマハーカーラは透明人間に変身できる秘薬を所有するそうだ(28頁)。

 

能楽大事典』(筑摩書房、2012年)ではあくまで推測だとしながらも居杭が後援者の家に押しかけてくると解釈してことわざ「出る杭は打たれる」に由来する、あるいは飯ばかり食う徒食者という意味で「居食い」が変じたことに言及する。これは大蔵流狂言方善竹徳一郎さんのブログで知った: https://zenchiku.blogspot.jp/2015/03/blog-post_30.html

 

祝賀公演の<締め>は『千切木(ちぎりき)』。これは初見だ。いつの世にもいそうな目立ちたがり屋さん。周囲の迷惑も考えず「私ガー!」の根性満載、重症のジコチューである。そんな目立ちたがり屋さんの一人「太郎」を七五三さんが演じる。この「太郎」(主人公の名であって脇役の「太郎冠者」ではない)が連歌愛好家の集まりにやってきては宗匠気どりで場を仕切ろうとする。そんな傲慢ぶりで毎度顰蹙を賈う太郎。

 

やがて参会者も堪忍袋の緒が切れる。ある日のこと皆は太郎を散々に打擲する。仕返しをしろと迫る女房(逸平)に伴われ、実は気弱な太郎はしぶしぶ仕返しに。勝気な女房殿は千切木(乳切木とも書き、乳=胸の高さほどに切った棒の意)とよばれるこん棒で武装する。夫婦は恨みのある連歌仲間の家を尋ねるが、不幸にもというか、気弱な太郎にとっては幸運にもというか、居留守を使われて肩透かし。復讐を果たせず仕舞い。だが気弱な太郎はそれをいいことに女房の前だけは強きに振る舞う空元気。女房に己の情けない姿を見せずにすんだ太郎は夫婦連れで意気揚々と引き上げる。

 

ことわざにもある「諍い果てての乳切り木」そのまま。大辞林によると「時機に遅れて役に立たないこと」をいう。「賊のあとの棒乳切」ともいうそうだ。

 

表記が異なるが、古武術として契木術(ちぎりきじゅつ)がある。樫などの堅い木の棒に鉄製の石突と鎖分銅がついた武具・捕具である(wiki)。動画に「荒木流拳法 契木術」がある。迫力あり。

 

話を戻して<茂山流千切木術>。七五三さんが次男の逸平さんと演じる夫婦は名人芸。逸平さんの女房は見るからに勝気そう。それに対して七五三さんは痩せて長身なのでいかにもひ弱という感じだ。外見のコントラストが効を奏した。

 

連歌の寄り合いの場面があるので登場人物が多いのにびっくり。でも茂山一門の芸達者な面々が勢ぞろいで圧巻だった。