玉三郎の完璧さと壱太郎の初々しい輝き

2018年1月松竹座『坂東玉三郎 初春特別舞踊公演』

「口上」 坂東玉三郎中村壱太郎

「元禄花見踊」 坂東玉三郎中村壱太郎

「秋の色種(あきのいろくさ)」坂東玉三郎中村壱太郎

「鷺娘」 中村壱太郎

「傾城(けいせい)」坂東玉三郎

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(素人判断だが、)この舞台を見て玉三郎は舞踊の頂点をすでに極めているという思いを強くした。

 

もう一点気づかされたことは舞踊のスタイルが江戸好みと上方好みではっきり異なるということ。「元禄花見踊」や「秋の色種」で見せた坂東玉三郎中村壱太郎の相舞踊を通して納得した。そんなこと常識だといわれると反論できないが。

 

女形で踊る玉三郎は現実的な男女の差を排して、いわば中性化した印象をうける。とはいえこれはドラッグ・クイーン(drag queen) のスタイルではない。歌舞伎特有の女形のスタイルであってあくまで男優が演じる<理想化されたフェミニンなイメージ>を追求するのだと思う。江戸歌舞伎がマスキュリンなイメージを強調する荒事を出発点にしているという背景が影響しているのかもしれない。

 

一方、壱太郎(かずたろう)は伝統的に和事を重視してきた上方歌舞伎の芸風が強く感じさせた。玉三郎の姿勢が(極端な言い方だが)垂直方向を印象づけるのに対して壱太郎は身体をしなやかに湾曲させる動きが多いように思えた。この身体所作が理念としての女性を浮かび上がらせる。もちろんこういう対比の仕方は行き過ぎだとは承知しているのだが。

 

長年歌舞伎舞踊をリードしてきた玉三郎だが、その役目は今後壱太郎が担っていくだろうと思う。それほど壱太郎の踊りは将来に向けての可能性を強く秘めている。

 

そういう期待をいだかせるのも当然で、若干27歳ながら壱太郎は三年前に吾妻徳陽の名で日本舞踊吾妻流七代目家元襲名している。吾妻流といえば江戸時代に開かれたが一旦途絶えて昭和初期(1933年)に初代吾妻徳穂(1909—1998年)によって再興されたそうだ。この人は第2次大戦後占領軍の抑圧的文化政策によって封建的だとはげしく否定された歌舞伎の伝統を途絶えさせまいと奮闘した女性だ。戦後十年にならない時期(1954—1956年)にいち早く「アズマ・カブキ」と銘打って歌舞伎舞踊を欧米十数ヶ国で上演している。踊りの才能に恵まれたばかりでなく芸能の維持、発展に情熱を注いだ人だったようだ。

 

壱太郎はその初代の孫、二代目吾妻徳穂(1957年生まれ)に教えを乞うている。またこの二代目は叔父四代目中村鴈治郎の配偶者である。それに何より上方和事の名人四代目坂田藤十郎の孫に当たる壱太郎なのだ。舞踊の素質と熱意の点で大いに恵まれている。

 

そういう背景をもつ壱太郎であってみれば役者としてはもちろん踊り手としても今後の活躍が期待されて当然だろう。