『スリー・ビルボード 』と異色のアメリカ人作家フラナリー・オコーナーはホントに通じ合うのか?

難病(自己免疫性疾患「全身性エリテマトーデス」、彼女の父親も13歳の彼女を残して同じ疾患で死去)のため39歳で早逝したフラナリー・オコーナー (Flannery O’Connor, 1925-1964) は現代アメリカ文学の重要な作家の一人。

<作家紹介>https://www.georgiaencyclopedia.org/articles/arts-culture/flannery-oconnor-1925-1964

 

さて英文のネット映画評は Flannery O’Connor’s A Good Man Is Hard to Findを関連づける議論で溢れかえっている。

 

たとえば、 “ Watching 'Three Billboards' with Flannery O'Connor” (https://www.thegospelcoalition.org/article/watching-three-billboards-flannery-oconnor/) などなど。

 

中にはこんな極論を唱える批評家までいる。

Early in Martin McDonagh’s captivating film, Three Billboards Outside Ebbing, Missouri, one of the characters, Red Welby (Caleb Landry Jones) is seen reading Flannery O’Connor’s A Good Man Is Hard to Find. It is the beginning of an O’Connor-esque tale about grace and the grotesque, love and hate, healing and grief.Although the reference to Flannery O’Connor is brief, it is hard to imagine how this story, written and directed by McDonagh (In Bruges), was not influenced by O’Connor’s sense of grace rising from the most heinous examples of human iniquity. It is hard to watch this movie and not think of Francis Tarwater, the 14-year-old character of O’Connor’s novel, The Violent Bear It Away, “His black eyes, glassy and still, trudging into the distance in the bleeding stinking mad shadow of Jesus.”Indeed, the shadow of Jesus, seems always to be in the background of this dark, intense, and sometimes humorous film.

<出典> https://aleteia.org/2018/02/24/three-billboards-outside-of-ebbing-missouri-a-movie-to-enrich-your-lent/

 

<おまけ> 作者の自作 (日本では『善人はなかなかいない』 A Good Man Is Hard to Find ) 朗読(38分) https://www.youtube.com/watch?v=sQT7y4L5aKU

 

たしかに本作に映し出される悪意、敵意、人種偏見と暴力にまみれた南部の田舎町の世界はオコーナーが(読者を深刻な不安に陥れるような)苦いユーモアやアイロニーを交えながら好んで描く人間性の闇との共通性を強く感じさせるかもしれない。

 

しかし『スリー・ビルボード 』ではカトリックの宗教観が身に染みついていたオコーナーが生涯憑かれたように手探りで求めていた<神>の存在が意識されていないように思える。だからといってマクドナーがオコーナーに比べて劣るというのではない。両者はたがいに異質の世界なのだ。

 

私は小さな断片をとらえて異質の二者を重ねるという論調にはついていけない。 劇中で脇役の登場人物がオコーナー作『善人はなかなかいない』を手にしているからといって、それが必ずしもテーマ的に重要だとは限らないと思うのだが。 あれやこれやのシンボルめいたものがあるからといってそれらを全て有意味だと思い込むのは(昨今の文学批評ではもはや顧みられなくなったsymbol huntingのような気がする。

 

創作物の作家ではないが、ノンフィクション系のライターがsymbol hunting やsymbolism huntersに辟易してこんなことをいっている。

The silliness of looking for symbolism in literature – John T. Reed https://johntreed.com/blogs/john-t-reed-s-self-publishing-blog/64283779-the-silliness-of-looking-for-symbolism-in-literature 日付:2015/09/16

 

オコーナーとの表面的共通性とは無縁なところでマクドナーは独自の視点で人間社会を活写しているように思える。

 

正直なところ私にはこのマクドナーが選んだ独自の視点を明快に分析する力はない。それでも性急にオコーナーと同一視するかのような議論には同調できない。

 

ロンドンの大手の劇場でも次々と上演されるほど著名な劇作家でもある本作の監督M. マクドナーはここ10年ほど映画製作に力点をおいている。彼が『スリー・ビルボード』で見せる語り口はアメリカ社会の<よそ者>というか部外者の視点があってこそ成り立つのかもしれない。ましてやアメリカ合衆国の中でも特異な歴史を刻んできた南部は彼にとって遠い異国でしかないはずだ。

 

ロンドンで生まれ育ったのはたしかだが、マクドナーは純粋な英国人ではない。英国在住のアイルランド人を両親に生まれており、マーチンと兄のジョンが成人するまで四人家族だった。貧困にあえぐ故国アイルランドより生活がしやすいからと英国に移住した両親だが、建設労働者だった父親が定年を迎えると両親はさっさとアイルランドへ帰ってしまう。ロンドン残留を選んだ二人は自活せざるをえなくなったようだ。彼らは中等教育をなんとか終えた程度でまともな仕事も見つからず生活保護に頼ったりしたとか。やがて兄ジョンは奨学金を得て南カリフォルニア大学で映画脚本を学ぶために渡米。ひとりぼっちのマーチンの二十代前半の生活はかつかつでいつとはなく興味をもち出した戯曲執筆に萌えていたらしい。

 

両親の帰郷先は父の故郷ゴールウェイ州コネマラ(アイルランド西部、より正確には西海岸の貧しい漁村らしい)。この地域は昔から漁業か農業しかできないアイルランドでも最も貧しい地域として知られる。(私自身十年前に訪れたが、海岸沿いのゴルフ場だけが売りの小さな町だった。

(画像あり:http://www.connemaragolflinks.com/

 

兄弟も子供時代から何度もこの父の故郷を家族で訪ねていたそうだ。

 

<参考>マクドナーの家庭環境についてはアイルランドの演劇批評家(Fintan O'Toole)がアメリカの文芸雑誌『ニューヨーカー』(2006年3月6日)に載せた文章に詳しい。そればかりでなくマクドナーの人となりや芸術的指向性もうかがえる名文だ。https://www.newyorker.com/magazine/2006/03/06/a-mind-in-connemara

<蛇足>『ニューヨーカー』の読者層とは?一般的インテリ層といえそう:http://xroads.virginia.edu/~ug02/newyorker/audience.html

 

そのようにアイルランドの匂いがきつい生活環境に育った監督が自作の舞台劇でたびたびアイルランドの(悲惨な貧しさと侘しさにまといつかれた)寒村を描くのもうなずける。

 

余談ながらマクドナーの劇作品の一つにアイルランドの極度に閉塞した空気に包まれるアラン諸島を舞台にした舞台劇The Cripple of Inishmaan (1997年、『ハリポタ』で有名になった Daniel Radcliffが主演、crippleは日本語にするとケチつける輩が多そうなのでこのまま放置)がある。

<翻訳上演参考サイト>https://www.theatermania.com/new-york-city-theater/reviews/the-cripple-of-inishmaan_68306.html 日本での上演に関しては http://www.umegei.com/schedule/527/ http://blog.livedoor.jp/andyhouse777/archives/66214163.html

 

アラン島はゴールウェイ湾の沖合にある。The Cripple of Inishmaanでは設定に歴史的事実をとりこんでいる。時は1934年、ハリウッドの映画監督ロバート・フラハティー (Robert Flaherty,1884-1951年)によるセミ・ドキュメンタリー映画『アラン (Man of Aran)』に出演させてもらおうと企てる。ビリーにすればハンディだらけの自分の境遇に加えて因習にがんじがらめで息が詰まりそうな島の生活から脱出する手立てがほしいのだ。おまけに彼は貧しい孤児で身体障害者。教育もろくに受けていないという何重ものハンディを負っている。このままでは未来は開けるはずもない。当人にすれば行きながら死んでいるに等しい状況なのだ。

 

フラハティー監督の映画で主役の漁民夫婦を演じたのはプロの俳優なので純然たるドキュメンタリーではないものの漁民たちの厳しい日常をうかがえる映画『アラン』の動画の一部はこちら→ https://vimeo.com/42366691 https://www.youtube.com/watch?v=Pc1SkNsYHig

全編(74分)も視聴可能。https://www.youtube.com/watch?v=rIWYXnxz968 劇映画仕立てではないので退屈といえば退屈だが、漁民の生活の一面がうかがえる。失礼なことを承知でいえば、まるで原始時代みたいだと言う印象。

ミュージック・ビデオ風に紹介される現在のアラン島: https://www.youtube.com/watch?v=spasm30qASE

 

ちなみにアイルランドの代表的劇作家の一人ジョン・ミリングトン・シング(John Millington Synge, 1871-1909年)も似たような(つまり過酷な)状況設定を好んで選んだ。漁民が常時晒される水難事故の危険性がある。他方不順な天候と痩せた農地は飢饉を招きやすい。

 

ダブリンで生まれ育ったシングだが、ダブリンの都会的文化とは真逆といっていい素朴なアラン諸島の人と風土に強い愛着をもっていた。

 

ただし劇作家としてのシングもマクドナーもそういう過酷さは常にエスニックなユーモアと複雑に混じり合っている。

 

マクドナーの場合複雑かついびつに変化してきた社会を意識せざるをえない。シングの時代にはなかったハイテク文明が世界をほとんど覆い尽くしながら人々の生活には極端な格差が生じている。作者がそういう社会と人間を見る目は純粋に悲劇が映るわけではない。アイルランド民衆に伝統的に受け継がれてきたユーモア、いやブラック・ユーモアの精神は過去に比べて一層ねじれの度合いがましている。現代の観客にまがまがしい「死」の予感に通じるような不安と恐怖を引き起こさずにはおれないはずだ。

 

実際マクドナーの劇作品はその個性的なユーモア感覚をつぎのように表現されることが多い。

black comedy, a macabre joke, macabre tragi-comedy, dark comedy, macabre humor, gallows humor

 

最後にあげた「gallows humor(絞首台のユーモア)」は死刑執行間際の犯罪者が死の恐怖におののきながらも冗談を口にするというなんとも皮肉な状況をさす。macabre humorのmacabreは中世ヨーロッパに流行した寓話「死の舞踏la danse macabre」に関連づけられることの多い語で死の予兆として受けとられてきた。

 

おっと、マクドナーとオコーナーとの違いを指摘するつもりが、長らくオコーナーを置いてきぼりにしてしまった。話を元にもどさなくては。

 

たしかにオコーナーの小説もマクドナーの戯曲や映画作品同様暴力性に染め上げられてはいる。そのためdark comedyやdark humorと表現されがちである。 だが、作中に読者を死の恐怖に追いやるような仕掛け(macabre humorとかgallows humor)はなさそうだ。

 

繰り返しになるが、劇中で登場人物の一人が手にする(読んでいる)オコーナーの著作がはたしてマクドナー映画のテーマを浮かび上がらせているだろうか。とてもそうは思えない。マクドナーは21世紀を生きる批評意識の強い芸術家である。諸々の文化的「伝統」に対しては彼なりの敬意を表しているだろうが、手放しで称賛しているわけがない。

 

『スリービルボード 』をめぐるアイルランドとアメリカの作家の重ね合わせについて Irish Times 紙の映画批評家 ドナルド・クラークは疑ぐりの目を向けている。

 

氏の意図を私なりに解釈してみよう。アイルランド人作家の場合自虐的皮肉が混じるかどうかは別にして自国の文化的伝統を反映するステレオタイプ化された事物を作中で披露する傾向が強い。劇作家としてのマクドナーもその例外ではない。アイルランド人批評家もそういう事情をよく心得ていて適宜聞き流したりする。ところがアメリカ映画でオコーナーのようにアメリカの個性的な作家となるとアメリカ人は自国の文化的アイコンに過剰な反応を示すではないか。

 

無教養なRed Wilby君(看板広告会社支店長?)が文学作品を読んでいても知的な雰囲気はほとんど醸し出されないとクラークはいう。だからこの読書のショットはオコーナーの文学性とは無関係だ。

<原文多めに引用> At any rate, arguments for heightened reality have not silenced American commentators who feel that the London-Irishman does not have the local knowledge to attempt such a cross-section of middle-America. Irish critics have been more tolerant of McDonagh’s deliberate dialling up of national stereotypes in his celebrated plays. In that case a conversation is being had with literary history. Having one character conspicuously brandish a Flannery O'Connor novel does not have the same effect in Three Billboards. The intellectual atmosphere feels thin.(下線は私が引いた。)

(注記)文中middle-Americaという表記があるが Midwest [合衆国中西部]というべきところを氏は意図的に言い換えているのかな?

<出典>  ‘Three Billboards’ is not suffering a backlash: some people just didn’t like it https://www.irishtimes.com/culture/film/three-billboards-is-not-suffering-a-backlash-some-people-just-didn-t-like-it-1.3366972

 

『スリービルボード 』の映画批評をいくつかのぞいてみて思うのだが、symbol huntingに血道をあげるのはうんざりだ。