劇団あやめは今後の成長に期待(大阪、2018年6月)

十年あまり前当時住んでいた静岡県浜松市。ひょんなきっかけから市内にある一種のスーパー銭湯「バーデン・バーデン」(数年前に建物老朽化のため廃業)で大衆演劇の舞台に接するようになった。それまで大衆演劇(旅回り芝居)なんてはるかに遠い存在だった。おそらく蔑視の意識が無関心につながっただろう。

 

しかし自分でも驚いたが、一度生の舞台を見るとハマってしまった。ほとんど目の前で生身の役者が舞踊と芝居を演じるのを見っていると異次元の世界へ引き込まれる思いだ。何度かバーデン・バーデンに通ううち九州の名門「劇団花車」が来演。座員の中でとりわけ目立ったのは(当時まだ新米座長だった)姫錦之助の父親姫京之助だった。この人、松竹新喜劇でも数年間修業を積んだとかで存在感があった。大衆演劇の伝統についてはほとんど無知だったが、なんとなく京之助は伝統の流れの中にいるという気がした。そういうベテラン役者京之助の息子たちが才能を受けついでいて当然だが、中でも次男の姫猿之助(当時の芸名)の鋭い動き、身ごなしに目を奪われたのだ。本来大衆芸能であった歌舞伎の過剰なというか逸脱したきらびやかさを当時まだ20代前半だった猿之助が体からオーラのように発散しているとわたしには思えた。

 

その後猿之助の舞台を見る機会がないまま時間が過ぎ、やがて姫猿之助があやめ猿之助として新しく劇団を旗揚げするとネット情報で知った。けれど資金の問題か座員の確保の問題か、なかなか公演情報が入ってこない。そうこうするうち地元(筆者の現在居住地は神戸あたり)でも劇場などに乗るようになったが、機会がなくて感激できずに来た。

 

ところが今月下旬(2018年6月)大阪「庄内天満座」で公演中だと最近気づく。早速出かけてみた。だけどわたしが勝手に夢想していた「猿之助」とはあまりにも違っていた。 劇団の中で猿之助がただ一人(好ましくない意味で)突出していて劇団としての統一感がないのだ。彼は大歌舞伎の決めポーズを頻発するのだが、わざとらしすぎる感がある。観客を魅了する決めポーズになっていない。

 

ネットでは最近彼が披露したとかいう狐忠信の振りが評判だ。『義経千本桜』の人気場面「川連法眼館」で狐の化身、狐忠信が殺された母の体(皮)で作られた鼓と戯れる一説で親子の情愛が悲しく奏でられる。猿之助による物真似がうまいというのだ。

 

だけど、100年以上昔 江戸、京、大坂の大歌舞伎に接する機会のない在所の人々が旅回り芝居の舞台を通して本場の歌舞伎を垣間見た時代とはわけが違う。21世紀の現代、しかも(長年大衆演劇を応援してきた年配者が劇場からリタイアして)大衆演劇の存続が危ぶまれる今そんなモノマネ芸で世代の比較的若い観客層を呼び込もうとしても無駄である。場内の観客には大舞台との比較のしようがない。それに何より先代(三代目)市川猿之助や当代市川猿之助の<狐忠信>とは雲泥の差だ。彼らは歌舞伎の演技のプロなのだからかないっこない。

 

大衆演劇の役者は歌舞伎を<引用>するならパロディ化するべきだろう。大衆演劇の強みを発揮できるように引用し、大衆演劇の中に取り込むべきだ。あやめ猿之助の祖父の世代ならまだ通用したモノマネはもはや通用しない。

 

あやめ猿之助にはカビ臭い伝統なるものに固執するあまり衰退が止まらない大衆演劇に新風を吹き込んでほしいと10年あまり前に思ったし、いまも同じ期待をかけている。

 

幸い劇団には若くて個性的で今後の成長が期待できる女優さんたちがいる。若手リーダー「咲之阿国(しょうのおくに)」、花形「初音きらら」、「千鳥」、「ひよこ(真金ひよ)」。(みなさんいささか奇妙な芸名である。以前は女優の数がもっと多かったらしい。)

 

わたしの妄想に過ぎないが、猿之助座長が女形に専念しそれに女優陣が加わり、平成の<女歌舞伎>を打ち出してはどうか。業界全体を見回しても従来の大衆演劇ではもう持たない。これだけ有能な女優たちがいるのだからそれを劇団の<強み>として強調すべきだ。

 

舞台公演で惰性は禁句。初音きららが得意とするアクロバット芸を毎回出すのは無意味。小・中・高の器械体操部員ならできる芸だ。それに劇団あやめはサーカス団ではないはず。

 

女優のことばかりふれたがベテラン男優「山戸(やまと)一樹」の存在も大きい。彼の渋い踊りや演技も女歌舞伎としての劇団員あやめの一端を支えていると思う。

 

昨今、正統派の大衆演劇界にも地道に新しい方向性を探っている劇団は存在する。たつみ演劇ボックス、劇団花吹雪、桐龍座恋川劇団などは感性の若さ、柔軟さに笑いのセンスを交えて独自の路線を開拓している。

 

そういう伝統の再生を目指す劇団とは路線を別にしながら独自性を発揮できる未来を劇団あやめが切り開いてくれることを期待してやまない。