能楽堂で眠気とワクワク感を同時に味わうことの楽しさ

2018年10月28日『金剛定期能』(京都金剛能楽堂

事情があって9月から能狂言から遠ざかっていたが、今月10月は19日に大槻能楽堂で見た『忠三郎狂言会(茂山良倫初舞台公演)』に続き、2回目の能楽堂公演だ。能楽堂独特の雰囲気は気分を落ち着かせてくれる。

===演目および出演者===

★能 『三井寺』 金剛永謹 福王茂十郎 中村宜成 喜多雅人 廣田明幸(はるゆき、子方、2008年生まれ) 茂山千五郎 茂山 茂  笛・赤井啓三 小鼓・竹村英雄  大鼓・山本哲也  後見・宇高通成ほか  地謡・松野恭憲ほか

狂言 『柑子(こうじ)』 茂山千作 茂山 茂

★仕舞 『清経』 キリ 山田伊純 ★仕舞 『江口』 クセ 今井清隆 ★仕舞 『枕慈童(まくらじどう)』 宇髙竜成

★能 『雷電』 豊嶋晃嗣 原大 岡充 原陸 山下守之  笛・杉信太朗 小鼓・林大和 大鼓・河村大 太鼓・前川光長  後見・豊嶋三千春ほか  地謡・金剛龍謹ほか ======

三井寺』は『百万』、『桜川』、『隅田川』などと同様に親子の離別と再会がテーマだ。人買いなどが原因で母と子が生き別れになり、母は気が狂ったように(物狂い)となって必死に子を探し求める。やがて神仏ご利益で母と子は再会を果たす。こういう物語はどれだけその展開に馴染んでいても見るたびに感動を呼ぶものだ。

 

とはいえ親子の別離ははるか昔、中世という特定の時代状況にかぎられた出来事ではない。時代や洋の東西を問わず起こる。人間社会には付きもののような気がする。例えば親権争いから生じる子の連れ去り事件は時々ニュースになる。

 

狂言の演目構成でおもしろいのはそういう悲劇性を帯びた演目に続いて狂言が演じられることだ。これは悲劇を喜劇で中和する狙いというよりむしろ人間性あるいは人間社会の多面性が、たとえそれが分かり切ったことであっても見る者の心にすんなり入ってくることに関係しているのではないだろうか。さらにいえばこの多面性を再確認することがある種の感動をもたらすようにも思える。

 

狂言『柑子』はだれもが普段親しんでいる(外来種で改良に改良を重ねてきたおかげで糖度の高い)ウンシュウ(温州)ミカンではなく日本原産の酸味の効いたミカンをさすらしい。現代日本人には酸っぱすぎる柑子も室町時代にはご馳走と思われていたようだ。しかも縁起のいい三成りというから果実が3個小枝でつながっているのだろう。主人が期待した縁起の良さも太郎冠者の食い気というなんとも可愛らしい欲望のせいでぶち壊しになるという設定がいい。

 

茂山茂さん演じる主人は上から目線満載だ。それに対抗する(手練れの役者)茂山千作演じる太郎冠者が悪知恵を繰り出して、はじめ3個あった柑子が一つひとつ減っていく言い訳をやってのけるくだりがお見事。大いに笑えた。千作さんの持ち味である飄々とした仕草と口のきき方が太郎冠者の存在を生きいきと描いてくれた。

 

一つ気がかりなのは千作さんのお膝の具合。グリコサミン摂取では間に合わんかな。なんとか脚の筋肉を増強してほしい。

 

20分休憩の後仕舞が3本。山田伊純、今井清隆、宇髙竜成はお三方とも声も体捌きもメリハリが効いていて楽しめた。

 

最後に『雷電』。平安時代初期の9世紀、時の左大臣藤原時平が権力拡大を図る上で邪魔者(政敵)とみなした右大臣菅原道真(菅丞相)を僻地太宰府に追いやり、道真は不当な処遇がもとで憤死する。その恨みの思いが怨霊となり雷神と化して都に次々と災いをもたらす。藤原時平は宗教者を操って道真の怒りを鎮めようとする。さらに道真は太政大臣を追贈され、天神としても祀られることになる。ついには道真も怒りの矛を収める。演者も奏者も私にはおなじみの面々でうれしい。

 

しかし人の恨みというのはこれほどに凄まじいものなのかと改めて思い知らされる。

 

ここで、気まぐれな連想だが、21世紀の現代もMarxistsや自称revolutionariesに信奉されるGiorgio Agambenなら不条理極まりない親子の別離や(道真の例に見られるような)恨みの発露についてどう思うのだろうか。 AgambenはFoucaultが(西洋)近代の権力が提起した社会の個々の構成員の精神のみならず身体をも支配・統治する強力な装置に関する言説をほとんど普遍化する。西洋近代をはるかに遡る古代ローマの法律という強力な統治制度が現代の権力の起源だと考えているらしい。そうだとすると日本の古典芸能たる能狂言が描く不条理な状況は — 現代にも通じるところなしとせずと現代人も思っているようなのだが — 考察・批判の対象にならない枝葉末節と見なされるのだろうか。私の気まぐれでそんなことを思ってしまった。