命を愛でる狂言『靱猿」の世界にちなんで

 猿の皮を狩猟にいつも携帯する靭(矢筒)に飾りとして貼り付けるため猿引に向かって猿を「貸せ」と意味不明なことを言い出す大名。小猿の頃からわが子同様に愛情を込めて育て芸を仕込んだ猿を(生き皮を剥がれて)むざむざ殺されてはたまらないと猿引は必死で城名を懇願する。それでも傲慢な権力者はなんだかんだと屁理屈をつけて猿をよこせと迫る。しかし太郎冠者の助成もありようやく大名は諦める。それどころか猿を愛おしく思うようにさえなる。

 靭猿』にうかがえる命あるもののを大切に思う考えには仏教の殺生戒が反映しているのだろう。「放生会(ほうじょうえ)」という言葉を思い出した。事典類(ブリタニカ)によると、放生会は古代日本の朝廷に鎮圧された反乱部族の怨霊を鎮める目的で始まったそうだ。大和朝廷に隷属させられていた南九州を本拠地とする隼人族が8世紀初め反乱を起こすが鎮圧される。その後20年ほどして8世紀半ばに強権的に服属させられて深い恨みをいだく隼人族を慰撫するために鳥獣や魚を自然界に放つようになり、これが一つの習俗となった。生き皮を剥ぐと騒ぎ立てた大名が改心するのも一種の放生会的行いだ。

 放生会については某ブロガー氏(yukashikisekai.com)が興味ふかい体験談を披露している。仏教徒の多い東南アジアではこの風習が現代にも生きているそうだ。カンボジアを訪れたこのブロガー氏は「放鳥」の行事に参加したが、金銭を要求された。スズメ2羽で1アメリカ・ドル払う羽目になったとか。1日の糧を得るのが精一杯の貧しい庶民のたくましい商魂なのだろう。あまり非難する気にもならない。

 このブロガー氏にはさらに面白い逸話がある。10年ほど前の中国での話。次のネットニュースの見出しが出来事の内容を如実に語る。

 「放流したトラック13台分のコイ、末路は下流で住民の食卓へ」

  (www.afpbb.com

当の中国のネットでの反応にはこういう行為に呆れるものが多かったようだ。ブロガー氏はかつて日本に仏教を輸出した中国がこの有様ではどうか思ったらしい。

 だがカンボジアの場合と同様、これも豊かな食卓とは縁遠い庶民のかわいい欲望の表れと寛容な態度をとりたい。

 わが日本はどうかというと、つい昨年9月の九州福岡の放生会で醜態を晒してしまった。

  【閲覧注意!!!】【逮捕の瞬間!!!】【福岡】放生会公務執行妨害逮捕!! 男3人を逮

   捕「酒を飲み過ぎて記憶がない」と否認も 福岡市 (18/09/13)

   https://www.douga-news.net/sokuhou/

こちらは寛容な気持ちになれない。情けないとしか言いようがない。

 人間というもの、自然、天然、ありのままでは如何ともしがたい。やはり倫理の手本が必要かな。