京都能楽界の活況は観世寿夫も認めるのではないか

第61回京都観世能

2019年10月27日

「安宅」、「卒塔婆小町」、狂言「墨塗」、「融」

 

この日は(梅若実主演の「卒塔婆小町」が原因で)常にもまして盛況だった。そのせいで二階自由席(6千円)がすでに満席。仕方なく4千円を足して(残り福かもしれない)一階ワキ正面最前列ながら目付柱の真ん前に座る。柱が邪魔だった。それでも舞台間近なので迫力あり。

 

演目最初の「安宅」は私の数少ない観劇体験の中では弁慶一行と関守・冨樫の駆け引きが最高に緊迫感溢れる舞台だった。舞台から離れた二階席でなくてよかったとしみじみ思った次第。弁慶は老練能楽師河村和晁。弁慶の心身両面の剛力、大いさを表出しようと体力の限界まで奮闘していたのが印象に残る。その弁慶とがっぷり組んで心理的格闘を展開するのが冨樫。冨樫を演じる福王茂十郎が存在感を示していた。子方の義経役味方彗(みかた・さとる)も好演。それから忘れてならないのは弁慶と共に源氏の御曹司義経を守護する山伏や能力(のうりき)姿の面々。みなさん30代から50代で体力、気力ともに豪胆であった。京都観世一門の実力が発揮された公演だ。

 

繰り返しになるが、作中の圧巻は弁慶と冨樫の心理戦だ。物語の背景は時の権力の中枢にいる頼朝が権力掌握にこだわるあまり疑心暗鬼になって弟義経捕縛しようと全国に下知を下す。その包囲網にかかる窮地に陥る義経一行。山伏の一行が実は義経を護衛する武者の集団だと幕府の意を受けた冨樫は感づいたのだ。ここで正体がバレてはならじと豪胆ながら細かい神経の働く弁慶。とっさの機転を利かせて寺社改修のために寄進を募る旅であることを証明する。これまでの募金の記録を記したという勧進帳をデッチ上げる策を講じる。

 

封建主義の社会からはるかにへだたった現代の観客にとってこの心理戦は人間一般に通じるものだと考えたくなる。だが、そういう一般化は疑問だ。やはりこの場合「安宅」伝説が生まれた時代背景が重要ではないか。当事者はあくまでツワモノ(兵)、もののふ(武士)なのだ。ただし現実に存在したかどうかは不確かな、ありうるかもしれない理念としての武者であることにこだわるべきではないか。想像力を羽ばたかせて空想を楽しむ性の人間は時代を超越して英雄譚を好む。その結実が弁慶と冨樫の心理的バトルなのだと思える。

 

ところが能楽界内部にも人類の精神的進化を素直に信じていて特権者と非特権者の区別はありえないと考える人がいるらしい。人間皆平等と強引に割りきる近代的合理主義、人間中心主義が果たして普遍性、永続性を帯びているかどうか断定するのはまだ早いのではないか。何しろ2019年の今もmodern slaveryはりっぱに存続しているのだから。その点ウソつかない NKは CNより正直だと言えそうだ。

 

ところで故観世寿夫は明治以降、ことに戦後30年ほどの能楽界の現状に満足できず能楽の将来を案じた。確かに信頼できる少数の役者仲間と外部からは心強い協力者たる渡辺守章がいたが、大勢が参集する日本の能楽界にあってほとんど孤軍奮闘といえる状況だったように思える。

 

世阿弥は「九位」で個々の能役者の上達段階を下級から中級、上級までそれぞれ3ランクに分ける。とりわけ有能な役者は中級から初めて上級を制し、その後余裕をもって下級(下三位)に降りてくるという。いわゆる「却来 returning to the starting point」だ。また人によっては中級から始めて上級を到達点とする。一方素質も努力も中途半端だと中級を完遂できずに下級へ転落したままになる。

 

同時代の能楽界を見渡した観世寿夫は上級どころか中級もこなすことがならず素人に毛が生えた程度でしかない役者が大部分だと断言する。その主たる原因は能が江戸時代に将軍家や諸大名によって特殊な空間に囲い込まれてしまったためらしい。その結果多種多様な観客層から切り離され、まるで蛸壺のような同業者集団。時に厳しく、時に暖かい舞台に対する批評の視線にさらされなくなったのは能役者にとって不幸だったということだろう。(「演戯者から見た世阿弥の習動論」、『日本の名著』第10巻「世阿弥」所収、96頁)。

 

私の場合観世寿夫のことをは文字を通してしか知らず、その生の舞台に一度も接することがなかった。彼の不満は幾分か理解できるような気がするが、現在の京都能学界を見る限りそれは杞憂にすぎなかったのではないか。関西、ことに京都の能楽界を応援する身としてはそう思いたい。