能楽と孤高の精神

 数年前、能楽に興味を覚え始めた頃DVD『能楽名演集』(NHKエンタープライズ)を一通り視聴して印象深かった演者の一人が十四世喜多六平太(1874-1971年)だった。仕舞「船弁慶」(能楽名演集:仕舞、独吟、一調、舞囃子集)を演じた六平太は随分小柄な人(身長150cmらしい)だが、薙刀を振るう姿は弁慶を思わせ殺気さえ感じられた。上演年はおぼろげな記憶ではたしか1935年ごろだったので六平太は60歳ぐらいか。90歳ごろまで舞台に立たれたそうだから体力的には余裕しゃくしゃくと思えた。大正から昭和にかけて名声をほしいままにした能楽師だったのでそれも当然だろう。

 能楽の名人と呼ばれる人は誰もが孤高の人であるわけがないし、六平太も社交嫌いではなかったらしい。弟子に対する指導は厳しくとも愛情溢れる人物だったと想像する。対人関係で一見して孤立を好むのではなく、その精神において孤高の人と言えるのではないか。映像でしか拝見したことがないが、他者を拒絶する雰囲気はなく、厳しく自己を律する凛とした心構えの持ち主であったような気がする。 

 ちなみに人に対する応対が繊細で和やかな能楽師は現代にもいる。京都能楽界の重鎮の一人某氏も目立って物腰柔らかで笑顔を絶やさず心遣いも細やかだが、その内面には孤高の精神が潜んでいると思えてならない。

 話を元にもどして、(能楽師諸氏に関する知識も理解も限られた私だが、)こういう六平太と心構えを同じくする御仁がもう一人いたと思える。それは幕末以前から明治末期まで九州は福岡藩のお抱え喜多流能楽師として活躍し、維新後かつての庇護者を失い苦難の道を歩んだ能楽界で独自の姿勢を貫いた喜多流の梅津只圓(1817年〜1910年)だ。この人物のことはつい最近まで知らなかった。山村修・著『花の他には松ばかり』(檜書店、2006年)で夢野久作能楽師でもあったという私には意外な事実を教えられた。山村は夢野久作能楽エッセー「能楽嫌ひの事」にふれて能楽愛好者が必ずしも能楽べったりではないことを指摘する。盲目的な愛は自己本位でしかなく、往々にして対象を見誤る恐れがあると言いたげだ。何かを愛好するにはまず己を律する心構えが不可欠ということだろうか。この点で山村は夢野久作にあい通じる精神を見てとったに違いない。

 山村は夢野久作の能の師匠である梅津只圓には言及しないが、この能楽師に興味が湧いて「能楽嫌ひの事」が掲載されている『夢野久作全集』第4巻所収「梅津只圓翁伝」(ネット上の青空文庫に全文掲載済)を読んでみた。そこに描かれる梅津只圓像はあくまで夢野久作の目を通したものには違いない。が、決して師匠の偶像化ではない。偶像化は夢野久作とまるで無縁だ。それでも思春期の頃に親しく接した師匠に対する著者の愛着と尊敬の念は読み手の心に強く響く。

 夢野久作の脳裏に刻みつけられた梅津只圓は能楽を「神事」だと理解していたそうだ。夢野は人づてに聞いたこととして次のように記している。能楽は格別神聖な芸能だから「慰みに遣るのなら、ほかの芸を神様に献上しなさい。神様に上ぐる芸は能より他に無い道理がわからんか。下司下郎のお能下司下郎だけで芝居小舎でゞも演んなさい。神様の前に持って来る事はならぬ」(『夢野久作全集』第4巻、68頁)と主張してやまなかった。梅津翁がいくら能楽武家の式楽だという観念の中で育ったとはいえ、明治(あるいは大正)の世の中でここまで断言する人はほとんどいなかっただろう。こういう能楽観は武家文化に取り込まれる以前、世阿弥が「世子六十以後申楽談儀」(『新潮古典集成第4巻:世阿弥芸術論集』173頁)冒頭で表明した考えに直結するというべきかもしれない。

 能楽が深い意味で「神聖な芸術」だとする考えは戸井田道三が1964年に『能——神と乞食の芸術』(せりか書房で再刊、2000年、41頁)で指摘している。歴史的に見て能が中世において猿楽と呼ばれ、それを演じる(実質上放浪芸人と言える)芸能民が被った社会的差別が蔓延し賎民としての社会的位置付けられたことは事実である。しかしその社会的蔑視こそが逆説的にこういう芸能民を神聖視する結果となったことも否定できない。

 ちなみに夢野によると梅津只圓は遠く祖先をたどれば(京都府南部)山城国葛野郡(かどのぐん)梅津(京都市右京区)に住んでいた「歌舞音曲の家柄」だとか(27頁)。

 もう一つ余談ながら、こういう逆説の論理が生まれる背景には固定された静的な社会観や歴史観を批判して社会と歴史の動的な性質に注目する、1960年代初め頃に台頭してきた、たとえば網野善彦山口昌男らが唱え始めた歴史観、社会観があるのではないだろうか。

 戸井田は能の中でも神事性の高いものとして特別扱いされる「翁」という演目にまず注目するが、その深遠な聖性が能全体に通じることを見抜いている。「いやしめられる身分の者であったからこそ、逆に神聖なるものに変身しうる社会的な約束が成立していたのであるし、また神聖なるものに変身しうるものとして物をもらうがゆえに卑しめられた、ともいえるであろう。「翁」が能にして能にあらず、といわれるのは、こういう翁のもっている二重性が一方では全ての能に浸透しているからであり、一方ではこれほどあらわに神事的である能はないからである」(『能—神と乞食の芸術』41頁)。

 現代の能楽師で能の特権的な神事性を信じた梅津只圓と同じ考えの人っているんだろうか。思うにその数はごく少ないだろうが、外見の現代的柔和さの奥に能楽の神聖さを確信している真摯な心構えの能楽師もきっといるに違いない。

 夢野は中学生だった頃に知った梅津翁の意外な面を表す思い出話をして、幼かった自分が老練の能楽師の弱みを握っていくらか溜飲が下がる思いをしているようなくだりが印象に残る(87〜90頁)。老師から謎めいたお使いを言いつかって老師が雷嫌いだと知るのだ。これ以上にもっと意外な梅津翁の人間ぶりを暴露する逸話がある。88歳の頃稽古がすんで急に好々爺になったそうだ。「元気は元気ぢゃが、倅の方が先にお浄土参りしてしまふた。クニャクニャになって詰まらん」と云って門弟連中を絶倒させた。それから赤い頭巾に赤い緞子[筆者注:緞子・どんす=模様を織り出した厚手の生地](であったと思ふ)のチャンチャンコをひっかけて、鳩の杖[筆者注:握りに鳩の飾りのある老人用の杖]を突いて、舞台の宴会場から帰りしなに、「乳呑見たい。乳のまう乳のまう」と七十歳近い老夫人に戯れたりした(98頁)。「梅津只圓翁伝」全体を読んでみると了解してもらえるはずだが、こういう逸話は普段稽古場で厳しくされる弟子が意趣返しのつもりで書いているのとはわけが違う。

 70年の年の開きがある老師の人間としての崇高さと同時に人間臭さを見抜く夢野の感性と洞察力は半端ではない。十四世喜多六平太能楽ファンならご存知だろうが、梅津只圓となると現在の能楽界でも知る人は少ないのではないか。梅津翁の存命中でも(十二世喜多六平太や十四世六平太の本拠であった)東京あたりでは無名の人でしかなく、たまにかつての主君、旧福岡藩主(黒田長知、1838〜1902年)に同行して上京しても辺鄙な九州の田舎能楽師と見下す態度の人が多かったと夢野が「梅津只圓翁伝」で記している(43頁)。偉人は必ずしも世間の注目を浴びるわけではないということだろうか。しかしそれでも夢野久作がそうであったようにそういう存在に気づく人もいる。孤立と孤高は意味が違う。やはり梅津只圓は「孤高の人」であった。