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一竜座 子役 「竜美しおん」の教え − 芝居の本質(=模倣・まねっこ)は人間の本質

竜美獅童、空新夫妻の長男 しおん。年齢は(たしか)3歳と2ヶ月。連日パパかママと相舞踊をこなしている。去年12月の高槻千鳥劇場公演ではしおんが一差し舞うといってもときおり決めポーズを一瞬みせるだけだった。ところが最近は断片的ながらも脈絡が見える舞踊の動きになってきている。あれからまだ2ヶ月しかたっていないのに。大人の目から見て幼児の成長は驚くほどめざましい。凄まじい勢いで増長しているらしい好奇心に駆られて周囲に対する観察力が日々鋭くなっているようだ。両親をはじめ一座の大人たちの行動を模倣しようという欲求が高まっている。単に「模倣」といってしまうと人間を頂点とする霊長類どころか昆虫、いやさらに過当な生物にも観察できるかもしれない。しかし(発達心理学に無知な私がいうのもなんだが、)人間の幼児は感覚的理解を手がかりに知的理解が深化しているように思える。しおんはまだまだ範囲がかぎられているとはいえ社会生活に参加しようとしているにちがいない。

 

しおんの観察力の旺盛さを物語る事例をあげると、母 空新が個人舞踊などでお花(ご祝儀)をいただいた際客に対して感謝の意を表す意味で合掌するのをしっかりまねている。また、舞踊で客からいただいた物品の贈物は一座(実は大衆演劇界)のしきたりをまねて舞台奥に移動させることも毎回実行する。あるときなど大人の座員が演舞でいただいた贈物を舞台奥に置いたのをめざとく見つけたしおんが舞台袖から突然現れ、これまたしきたりどおりその贈物を手にお辞儀をしたうえで舞台袖に引っ込んだこともあった。しおんはまだ贈物を片付けるのは演舞の邪魔にならないようにするためだとは理解していないだろう。機械的にまねているだけだと思う。しかし、それでも幼いながら役者たるものどういう場面でどういう行動をとるべきか徐々に徐々に学習しているにちがいない。このように大人の行動をまねるというのは幼児一般に見られる行動ではある。しおんの場合たまたま旅役者の一座で育っているという個別の事情があるだけだ。大抵の子どもに比べるとある種厳しい環境に置かれているせいで無意識のうちに大人っぽい行動を早く身につけざるをえないのかもしれない。

 

ところで、しおんが見せる模倣に対する強い欲求から思い出したことがある。数年前に知った「ミラー・ニューロン (mirror neurons)」のことだ。ミラー・ニューロン説の最初の発信地は1990年代前半イタリア。神経科学系研究者 (Vittorio GalleseやGiacomo Rizzolatti ら) が(猿の仲間では比較的知能の高いマカク属の)猿を実験材料にした研究によって能の特定部位の神経細胞群が作動して「模倣」行為をひきおこすと主張し始めた。ヒトが対面するサルに向かって舌を出すなど唇の動きや手を振る動きを見せるとまるで鏡に映る像のように同じ行為を誘発するという。この現象が生じる場合サルの脳の特定部位が刺激されるという実験結果がえられた。

 

実験に使われたサルは脳に電極を埋め込まれるので、(事情が許せば脳手術の機会を利用する以外)ヒトに同じ実験をするわけにはいかない。だがヒトとサルの共通性を考慮してこの模倣行為はヒトの場合にも適用可能だと推論する研究者が登場してきた。ミラー・ニューロン論者にいわせるとヒトの知的成長や社会性の獲得にミラー・ニューロンの存在が不可欠になる。幼児は鏡の映像のように身近な大人の発話をまねることでことばを学んでいく。成人の場合でも運悪く石につまづいた他者の身体的苦痛あるいは人間関係のこじれなどから生じた精神的苦痛が表情にあらわれると、そういう表情ををわれ知らずまねてしまう。こういう経験が人間関係を豊かにするうえで不可欠な他者に対する共感の能力を養うことにつながる。

 

逆に共感能力の欠如は自閉症を招くとミラー・ニューロン論者。ミラー・ニューロンの作用をつきとめることで自閉症の原因と病状の進展の過程を解明し、さらには治療法の開発へと進めることが可能だといいたげだ。しかし自閉症とは共感能力の欠如ではなく過剰なため自己防衛的に共感能力を抑圧しているという反論も出ている。

 

ミラー・ニューロン説は当初「新発見」と騒がれたが、その後続々と批判の声があがる。それでも現在もまだ賛否両論が入り乱れて論争が続いている。肯定派のうち意気盛んなグループは磁気共鳴機能画像法 (fMRI) を使った研究を通してヒトにも適用可能だと論じる。だが批判派からは磁気共鳴機能画像法のデータは間接的すぎると反論されている。

 

(サイエンスの素養のない私がいうのは気が引けるが、)未だ定説とは認められていないミラー・ニューロン説がしおんの模倣行動にぴったり当てはまる気がしてならない。とにかくミラー・ニューロン説は別にしても人間は幼児のころから模倣のおもしろみ、喜びを覚える。しおんの場合生育環境が役者業という特殊なものなのでわずか3歳という時期からひょっとしたら役者志望という欲求が無意識のうちにめばえているのかもしれないなどと思えてくる。

 

子どもに見られる役者志望あるいは演技能力ということでは、たとえば江戸時代に10歳前後の子ども役者が演じたという「ちんこ芝居」にその例を見つけられるだろう。18世紀後半ごろから子ども役者が大人の歌舞伎役者の所作をまねて評判になっていたそうだ。演技といっても主に身振りをそれらしくまねるだけだったので「首振芝居」とよばれたとか。またかなり幼い子ども役者が小柄な身体特性を利用して狭い碁盤のうえで歌舞伎の所作をしてみせる場合は「碁盤人形」といった。学習能力が急激に発達する10歳未満から10代前半は大人の役者をモデルに演技を模倣する能力が異常に高いのだろう。こういう学習過程をミラー・ニューロン説だけで説明するのは確かに乱暴だとは思う。それでもミラー・ニューロンみたいなものが部分的にせよ介在していることはありそうだ。

 

「模倣・まねっこ」というと一見子どもの遊びのように聞こえるかもしれない。けれども演劇の歴史をひもとけば模倣・まねっこが「芝居ごと」の根幹にかかわるものだとわかる。ここで時間的空間的にも遠いアリストテレスの「模倣論」に頼らなくともわが日本の世阿弥が大成した能の原型はモノマネを核に据えた「猿楽」という粗野な要素を残す芸能だった。白州正子は世阿弥のモノマネ論を解釈して「模倣も極まれば独創を生む」(『世阿弥 - 花と有限の世界』講談社文芸文庫、1996年、81頁)といってのける。子どものまねっこも大人の芸能者のモノマネもつまるところ芸術を志向するものなのだ。

 

「竜美しおん」という一人の子役の姿に芝居の本質は「模倣・まねっこ」だと教えられた。さらにちっちゃな役者としての意識の芽生えは同時に一人の人間としての成長が 「模倣・まねっこ」に深くかかわることだとも気づかされた。

 

ちなみにモノマネといえば27日(金)「白龍まつり」の特別狂言『芸者の誠は岩清水』で芝居のストーリーにはほとんど無関係な場面で久しぶり身見せてもらった風月光志の得意芸「ひとみ婆ちゃん(通称「ひーちゃん」)」。これを忘れてはならない。このモノマネ芸はご承知のとおり1980年代末から90年代はじめにかけて放映されていた『志村けんのだいじょうぶだあ』で志村けんが創造したおもしろ老婆キャラのモノマネのパロディみたいなものだ。光志は元ネタの猿真似ではなく自分にしっくりする芸に仕上げている。芸人・役者光志はあくまで光志。志村けんのニセモノ、まがい物ではない。光志のモノマネ芸にまるで(奥へ入れば入るほどサイズが徐々に縮小していく)幾重にも重なった「入れ子箱 (Cnisese box) 」みたいに思える。元の(志村けんの)芸のモデルは実在の老婆だったのだらおう。それがモノマネのネタとされた時点で原型は多少とも、いや大幅に変容している。それをまた光志がまねることでさらなる変容がおこる。志村けん風月光志もそれぞれ独自の芸人のセンスで「老婆」のイメージを加工している。こういう加工あるいは編集が独創性をおびてきて一個の芸に仕上がる。私はそう思う。

編集だの独創性だとなるとあの博覧強記プラス溢れんばかりの創造力の持ち主である松岡正剛の「模倣論」が気になってくるが、現在の私にはそれを語るだけの力がないのでここで打ち切り。

 

<追加情報>

一竜座、来月(3月)の公演地は名古屋市にある「鈴蘭南座」。かつて静岡県浜松市に住んでいたころはJR在来線で2時間あまりかけて何度かこの劇場に通った。一般の住宅を改造したようなちっちゃな芝居小屋だが居心地がよかった思い出がある。残念なことに一竜座は5月に奈良県の「羅い舞座御所店」で公演するまで関西圏から離れてしまうとのこと。