大衆演劇界はいまだにmorally blindなのか!(2016年4月 明石)

兵庫県明石市にある「ほんまち三白(みはく)館」は創立ごわずか半年。だが地元商店街などが中心になって立ち上げたNPOが運営しているだけあって劇場内に気が充実している感じがする。

 

先月(3月)は下町かぶき組傘下の「岬一家」が公演していたが、なんどか通って楽しんだ。下町かぶき組というとほとんど東北地方でしか公演していないため関西ではなじみが薄い。そのためまだまだ全国区の大衆演劇劇団と認知されていない。最近「劇団 悠」が近畿圏で活躍しているおかげで認知度があがってきているように思う。劇団 悠につづけとばかり岬一家は関西に初乗りこみして今年1月姫路は山陽シネプラザの特設舞台でなのりをあげた。次いで2月は愛媛県奥道後温泉、3月が明石の「ほんまち三白館だった。4月は滋賀県大津市のJR瀬田駅に近い「琵琶湖座」で公演中。ようやく下町かぶき組の2劇団が近畿圏で活躍する足場を築こうとしている。劇団 悠を応援している私としては下町かぶき組が関西で存在をアピールしているのはうれしい。

 

私の意識の中では下町かぶき組とほんまち三白館の縁が強いのでこの劇場自体に声援を送りたいと思っていた。今月も明石に週1回は通うつもりでいた。あれッ?「思っている」じゃなくて「思っていた」とは?劇場に原因があるわけではなく今月2座合同公演中の劇団、かつき夢二「かつき浩二郎」と三河家桃太郎「三河家劇団」が問題なのだ。

 

とはいえ(裏の)事情は 私にはわからないのでとりあえず劇団が問題だというしかない。つい先日劇場の支配人氏のブログを読んで唖然とした。14日のメイン・ゲストが和・一信会会長だとのこと。この御仁、2年ほど前大衆演劇ファンの話題となったおぞましい暴行事件の中心人物だ。この老人は昨年の裁判の結果執行猶予という条件づきながらりっぱな「前科者」である。この場合前科者一般が問題なのではない。くだんの暴行老人(とその家族 ーー座員ではない)は事件発覚当時から現在にいたるまで公的な謝罪はいっさいおこなっていないという札付きの輩(輩ども=家族)なのだ。

 

この特別ゲストのことを知って一挙に明石通いの気が失せた。明石は観劇もさることながら劇場のすぐ北側にある「魚の棚商店街」で海産物を見たり買ったりするのも楽しみにしていただけにかえすがえす残念なことだ。

 

以前耳にした話によると(男気のある)座長三河家桃太郎はこの暴行事件のことが大衆演劇界で騒がれていたころ九州の座長大会で座員に対する暴行についてはっきり批判的な発言をしたそうだ。そればかりか「和・一信会」からも脱退したとも。にもかかわらず今回の特別ゲストの登場予定はどうしたことだろうか。ばんやむをえない事情があるということなのか。

 

三河家桃太郎座長といえば、かなり前に当時私が住んでいた静岡県浜松市で営業していた「浜松健康センター バーデン バーデン」に三河家劇団が来演したことがあった。私には座長の芸に感服した記憶がある。また当時17歳の京 華太郎が去年だったか梅南座にゲスト出演していて芝居も踊りもずいぶん上達していたので今度もぜひ見たいと思っていた矢先にケチがついてしまった。

 

大衆演劇という社会的にはオモテの芸能とは認知されていない世界だけにこの異常な暴行事件についてマスコミは最下等の三面記事扱いしかしなかった。昨年5月判決が出た際にもほとんどとりあげられもしなかった。ネット上のマスコミの記事はすでに消去されている。ただし少数のブロガーによる記事は今でも読める。(検索語:2014年8月南條隆(矢野正隆)容疑者)。

 

こういう偏見まみれのマスコミの報道姿勢は社会というか世間の意識と無意識の両方を素直に反映していることは否めない。

 

千五百年の昔から(放浪)芸人は社会の周辺に追いやられていた。能楽の大成者として著名な猿楽師、世阿弥でさえ時の権力に寵愛されながら、その一方で社会的には人間扱いされなかったという現実がある。歌舞伎役者の場合も同様だ。歌舞伎役者に対する蔑称「河原者」、「河原乞食」は史実を反映しているが、いまだに社会の無意識ではこういう差別感覚が消えずに残っている。こういう感覚は無意識下にあるので個々人がそれを否定しても意味がない。

 

特異な才能を発揮する芸能者古代、中世では庭作りの名人なども芸能者とよばれていたは社会がその異能ぶりをおそれるあまり賛嘆の対象であると同時に蔑視の対象でもあった、あるいは今もそうだろう。今も昔も大衆芸能、大衆演劇の世界に生きる人たちは(歴史民俗用語でいう)「化外(けがい・かがい)の者」や「制外者(せいがいしゃ)」として社会的に位置づけられる。「化の者」や「制者」は社会的に承認される領域の外側にいる存在だ。端的にいえば、かれらはthose being socially classified as subhuman, or even nonhumanである。人間社会はどういう形の存在であれ化外の者を必然的に生み出すとしかいいようがない。だからmorally blindであることは許容されるべきではない。極力morally sensitiveであるように努めるしかない。

  

ちなみに最近偶然出くわしたブログに驚かされた。関西エンタメ界で活動しているという自称モノ書き兼大衆演劇ファン(女性)なる輩がブログ上でいうには、自分には事件の真相を知るよすがもないので加害者や当該劇団について批判はできないそうだ。毎度のごとくオヤジ口調でそうのたもうた上で自分にとって大事なのは舞台の出来がよければそれですべてよしという趣旨のことを書いていた。やれやれ、それでよく一人前の大人として社会生活が送れるものだと呆れるしかない。社会的常識にのっとったmoral sensitivityなしに人間社会で生きるなどありえない。虫けら同然である。

 

 

なおと(20歳)、錦之助(21歳) & さおり(22歳) 合同誕生日公演

2016年3月23日、弁天座(奈良県大和高田市

今日は芝居も舞踊もなおと、嵐山錦之助 & 和 [ かず] さおりが中心。演目すべてが「さわやか!」の一語に尽きる。

 

芝居の外題は『吉良常』だが、尾崎士郎(1898ー1964年)原作の大河小説『人生劇場』からひとりの登場人物を選び出し大衆演劇風に味付けされた人気作品のひとつらしい。

 

主な配役:田島正吉(なおと)、吉良常(嵐山錦之助)、岬組組長(藤 千之丞)、その弟(松井悠座長)、さおり岬組組長夫人、龍神組組長=敵役(高橋茂紀)

 

田島正吉(なおと)と吉良常(嵐山錦之助)というふたりの男を結ぶ「男の友情」がテーマの芝居である。かつての東映ヤクザ映画なら男性観客の涙を絞る芝居だ。映画は基本的にリアリズムだし、劇場内の薄暗がりで観客は周囲のことを忘れ自分一人の感情に溺れることができる。となれば、主人公やその他お気に入りの登場人物に感情移入するのはたやすい。これが観客にとっては快感なのだ。

 

しかし今回のように生の舞台公演の場合、事情が少し変わってくる。銀幕に映る映画の登場人物は完璧に2次元の存在。かれらはある種無機質で観客一人ひとりがそれぞれの思い(願望、欲望)を重ねやすい。

 

それに対して生の舞台は今現在生きている役者が目の前にいる。場合によっては観客の思い(思い込み)がはねつけられることもなくはない。

 

とはいえ生の舞台でも、たとえば伝統的な大衆演劇の演出なら『吉良常』は泣かせる芝居の典型になるだろう。また演出の如何にかかわらず観客が外題を耳にした時点で泣かせる芝居を期待していればそのとおり泣かせる芝居になる。実際、終演後この芝居で泣かされたという趣旨のことを述懐している声が聞こえてきた。観客それぞれの楽しみ方があるのでそれはそれでいい。

 

でも少なくとも私は今回の『吉良常』は典型的な泣かせる芝居とは思えなかった。これは貶し言葉ではない。むしろニューウェーブ大衆演劇作品として買っているのだ。評価したいのは主役を演じた若い役者たち(なおと、錦之助、さおり)は伝統的に演じられてきた人物像とはかなり異質のキャラを創造していた点である。かれらの若い身体と感性がヤクザ者の男二人とヤクザの女房というともすれば感情過多になりがちな人物像になんともいえず新たな息吹を吹きこんだのではないか。もちろんこういう性格づけ、人物造形が唯一の正解だとはいわない。しかしかれら若者の想像力や感受性の産物である今回の人物像は一つの試みとして評価すべきだ。この試みがいわゆる大衆演劇になじみのない若い世代の観客の心に響く効果を生み出すと私は信じたい。

 

場内には大衆演劇の芝居小屋ではあまり見かけないタイプの若い女性客もいたので、こういう方々がリピーターとなってくれることを期待したい。劇団 悠は新しいタイプの観客を発掘する可能性を大いに秘めていると思う。

 

最後にもう一言。初めて聞かせてもらったさおりの歌唱。TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のオープニング曲『残酷な天使のテーゼ』(1995年)を歌う。「少年よ、天使になれ」というリフレインがお洒落。やっぱり作詞家及川眠子のことばづかいがきいてるのかな。それよりなによりさおりさん、歌うまい!

芸人たちの幕末・再訪 ー もう一つの若き獅子像

別記事で紹介した「帝国日本一座」には数人の十歳前後のこどもが加わっていた。これら少年、少女たちの姿をうかがわせる資料は成人座員の比べてきわめて少ないようだ。これまで私が素人流に読みあさったかぎり数葉の写真と名前がところどころ出てくる程度である。だがひとり例外がいる。それは「梅吉」という横浜出航当時(数え年)12歳の少年だ。この子役は「帝国日本一座」の一翼をになった足芸の「濱碇定吉」一座の座長の実子と思われる。ネット上で関連サイトが簡単に見つかるのでご存知の方もおいでだろう。(2年前私は旅芸人の情報をネットでさがしていて梅吉のことを知った。)江戸にいた頃も欧米公演でも大人顔負けの芸を披露して大評判だった。父親が足や肩や頭で支える竿の先や梯子の上でみごとなバランスをとってみせたのである。

 

写真(たとえばkosyasin.web.fc2.com//jin3.html の垂直方向で中程に「濱碇定吉の息子・梅吉」とある)で見ると小柄でキュートな顔つきであり、この外見で芸が達者なら地球上のどこでも人気者になることまちがいなしという感じである。くだんの写真は滞米中に撮ったらしい。慣れない洋服を着ているはずだが、結構サマになっている。

 

欧米公演では梅吉に印象深い愛称がついた。「リトル・オーライ (Little All Right) 」。またたくまにこの子の第二の、いや(その知名度からして)第一の芸名になった。ニックネームの由来は最初のニューヨーク公演で竿あるいは梯子に乗っている最中バランスをくずして転落。すわ事故かと会場が騒ぐ中、やがてすっくと立ち上がった梅吉の口から出たのが「オーライ」だった。"All Right"は渡米後現地で聞き覚えた数少ない英語表現で、無意識のうちに口にしたのだろう。ファンたちが「オーライ」に「坊や」、「かわいい」、「チビ助」、とか「ちゃん」のようなニュアンスを表す"Little"を付けたようだ。このご祝儀による反応に味をしめたのか梅吉は技が決まるたびに"All Right"を口にするようになった。

 

つぎの英語サイト(showbizdavid.blogspot.jp/2013/04/paging-japanese-circus-artists-where-in.html)ではニューヨークで梅吉がとった評判についてふれられており、彼の梯子上の芸当がイラストで描かれている。

<上記サイトから引用>

Perhaps the troupe's biggest hit was a young very showmanly lad named Umekichi, who took on the name "Little All Right." He was such a sensation working the crowd that at the completion of Littel All Right's perilous ladder feat, the audience stormed the stage with half a dollar, five, ten, and twenty dollar gold pieces."

ご祝儀(お花)もたんまりもらったようだ。当時の10ドル、20ドルは結構大金だったと想像する。ちなみに世界規模で展開する通販・オークションサイトeBayで(リトル・オーライがもらったという)「20ドル金貨」は1枚が現在15万から20万円で販売されている。

 

ほぼ同時期に欧米巡業に出かけた鉄割福松一座に「リンキチ」という梅吉と似た年格好の子役がいた。この少年も人気者だった。梅吉が"Little All Right" という愛称で有名だと知るとさっそく座長がリンキチをこの愛称で紹介するようになる。パクリだなんだと騒ぎ立てることではない。それで観客が喜ぶなら"Little All Right"が何人いたっていいと座長だけでなく私も思う。 愛称がいわば伝説化しただけのこと。伝説は芸人にとって商売を景気づけるありがたい効果を生むのだ。

 

ついでながら「鉄割」という苗字は三原 文氏によると「てつわり」と読むとのこと。幕末から明治にかけて横浜で発行されていた英字紙The Japan Gazetteのある記事でTetsuwariと表記されているそうだ(『日本人登場ー西洋劇場で演じられた江戸の見世物』、松柏社、2008年、40頁)。

 

さて幕末といえば、勤王か佐幕かという思想信条はどうであれ日本の大変革期に命を賭けた若者たち、若き獅子たちのことが話題になる。だが、同時期にほとんど無防備でおのれの芸だけを頼りに西洋世界に身を投じた芸人たちにも注目したい。海外遠征したのは大人ばかりでなく、十歳になるかならないくらいの少年、少女たちもいたのである。かれらの未知の環境に対する適応力たるや驚嘆にあたいする。かれらは正史では語られないもうひとつの「若き獅子像」のモデルと思えてならない。

 

ちなみに、「濱碇定吉」のことでネット検索注に偶然知ったのだが、村上もとこ原作のマンガ『JINー仁』第10巻で主人公、現代の医師、南方 仁が幕末にタイムスリップし、負傷した軽業師、濱碇定吉の手術を担当する場面があるとか。若者たちにも幕末の軽業師の存在が知られているとは驚きだ。

 

幕末動乱のただ中に海外遠征に出かけた軽業芸人たちの心意気

徳川幕府がしいた鎖国政策のため国際政治の場では孤立を貫いていた日本だが、19世紀に入ると200年あまりつづいた幕藩体制の矛盾が吹き出し始める。武士階級など知識人ばかりでなく一般庶民のあいだにもほとんど無意識のうちに変革を求める気運が高まる。19世紀なかばには下級武士を中心に討幕運動が高まる。そういう物理的、心理的の両面で動乱が連続する幕末とよばれる時代に西洋人の手引きがあったとはいえ欧米というかぎりなく未知の世界へ乗り込んだ集団が複数いたとは驚きだ。

 

ここで興味をそそられるのは海外遠征組が知識階級に属する面々ではなく、おそらく各集団のリーダー以外は読み書き算盤もままならない人たちだったのだ。かれらは軽業師とか曲芸師とよばれていた。かれらの曲芸技、鞠、傘、樽、綱、竿、梯子、刀剣などを四肢、頭などで自在に操る技は世界的にも誇れるほど高度に発達していた。(たしか濱碇定吉ー1832年生れ、没年不詳ーだったと思うが)人気の足芸は大樽を足で回したり、蹴り上げたり、はては樽の中からかれの子どもが飛び出すというものだった。

 

日本の軽業は突然出現したのではない。7世紀に中国大陸から興行目的で渡来した芸人たちから学んだ芸が長い時間を経て日本の軽業として定着。そういう芸が江戸時代を通じていっそう絢爛豪華なものになった。

 

(ネット上にも種々の情報が掲載されているが、)記録や文献資料が多少とも見つかる国際派軽業芸人たち、その主だった太夫元はといえば、早竹虎吉(生年不詳、維新直前の1867年出国、1868年アメリカの巡業先で病死)、濱碇定吉(足芸、1832年生れ、1883年帰国、没年不詳)、隅田川浪五郎(手品、1830年生れ、没年不詳)、松井菊次郎(独楽回し、生没年不詳)だ。早竹虎吉は長い竹竿を肩で支えたまま三味線の曲弾きをしたり足で支えた長い竿の上に子どもや動物をのせる芸を披露。残る三者は「帝国日本芸人一座The Imperial Japanese Troupe」としてアメリカへ、サンフランシスコからニューヨークなどで巡演。三人の座長はそれぞれの十歳前後の幼い実子が芸人として加わっている。ちなみに当時まだアメリカ大陸横断鉄道は未開通だったのでパナマ運河経由の船で移動した。(開通は1869年5月。)さぞ大変な旅だったことだろう。その後大西洋を欧州へ渡航する。欧州各地で公演したという。1867年の第2回パリ万博でも大好評を博した。

 

海外遠征を挙行した同時代の芸人たちとしてはほかに松井源水、林虎吉、鉄割福松、鳥潟小三吉らがいる。

 

1864年アメリカ人、通称、リズリー『先生」(Professor Risley; 本名 Richard Risley Carlisle [カーライル], 1814-1874 ) 率いるリズリー・サーカスが来日し人気を集める。アメリカのサーカス界では団長がDoctorとかProfessorという称号を使うこともまれではないらしい。権威の強調が集客につながるというのは理解できる。この一座は動物サーカスと曲芸を組み合わせた芸を得意とする。リズリー・サーカスについてはアメリカ人でアニメなどをふくむ日本文化の研究者Frederik L. Schodtが幕末の欧米流サーカス団団長がサーカスと軽業を通して日本と欧米との交流を促進した過程と意義を論じた Professor Risley and the Imperial Japanese Troupe: How an American Introduced Circus to Japan and Japan to the West (Stone Bridege Press, 2012)を書いている(筆者未読)。The Japan Times にその書評があってリズリー先生の仕事を急いで概観するには便利だと思う:"Globe-trotting acrobat left a mark on Japan"と題してwww.japantimes.co.jpのサイトに掲載。

 

欧米のサーカス・見世物事情に通じたリズリー先生の存在は見知らぬ世界へ乗り出す日本人芸人たちにとってさぞかし大きかっただろう。また通訳として横浜アメリカ領事館の職員とかいうエドワード・バンクス Edward Banks なる人物も一行に加わっている。このバンクスは芸人たちが「ヘンクツ(バンクスが日本語風に訛った呼び名、「べんくつ」が日本語化?)」よんでいたが、巡業の途上一座の金をくすねて姿を消してしまう不届きなやからであった。それでもいるあいだは通訳ならびにアメリカ文化の解説者として役立っていた。

 

この海外遠征にはもう一人特記すべき人物がいる。一行のいわばマネージャーをつとめた高野広八(1822ー1890)だ。現在の福島県福島市飯野町に生まれた。実家は農家だが、絹織物の売買にも関わっていて裕福とはいえないまでもそこそこの生活レベルだったらしい。博奕好きの広八は十代半ばで出奔、ヤクザ者にありがちな仲介、斡旋業のまねごとなどで糊口をしのいでいたし博奕代の足しにもしたようだ。どういう事情からか芸人の斡旋稼業をするようになった。日記にいささか素っ気ない言葉づかいながらも的確な観察力をしのばせることからして読み書きもそこそこできたのだろう。

  

海外遠征に乗り出した芸人たち。座長はいずれも齢三十を超えた分別盛りの大人だ。一座の芸人たちもたいてい二十歳あるいは三十歳を過ぎている。当時は予備知識も外国語の知識も皆無といていい状況だった。(現代の日本人でも海外旅行は楽々とはいえない。)西洋人同士でも文化が違えば交流は困難だったはず。ましてや江戸時代の庶民が欧米を渡り歩き、しかもビジネスを実践するとなると苦労は並大抵のこどえはなかったにちがいない。にもかかわらず、かれらはさまざまな困難を克服しながら果敢に新しい環境に適応しようと努めた。これは同じ時期に欧州を訪れた最後の将軍徳川慶喜の弟、昭武(1853年ー1910年)の警護役をつとめた、尊王攘夷思想にこだわった水戸藩士たちとは正反対だ。たとえ精神的にも大人(ある種の老化?)になっていて適応能力や学習脳力にブレーキがかかっていても芸人たちは歴史上の放浪芸人に見られた自由の精神を伝統的に受け継いでいるのだろうか。

 

広八にいたっては日本(横浜)出航時は四十半ばにさしかかっていた。それでも異文化に対する関心はしっかりもっていた。感情をあらわにしない文体ではあるが、西洋社会と文化に興味深々だったことはまちがいない。さらにかれの異文化に関する理解力も並ではない。広八は曲芸師、手品師を含む芸人の斡旋にも長年関与していただけあって未知の機械など仕掛けを見抜く能力にたけていたのだろう。サンフランシスコのホテルの設備、たとえばガス灯、水栓エレベーターなどの仕組みもりかいしていたことが日記から読みとれる。

 

広八の理解力は安岡章太郎をたまげさせる ー「『ガスのことをあかりの息』と考え、ガス管を『あかりの息の通ふ道』としたあたり、ほほえましさと同時に胸に迫ってくるものがあるではないか」(『大世紀末サーカス』67頁)。首都ワシントンで red-light district へでかけるが、そこでの体験を正直に語るくだりもおもしろい。(同書、112ー115頁)。ロンドンではred-light districtで窃盗に合い、仕法に訴えたおかげである程度溜飲が下がる思いもしている(269ー280頁)。安岡は広八の日記から人ごとだから滑稽だと思えるような体験談をあれこれ紹介している。しかし広八はけっして異国で遊んでばかりいたのではない。二年あまりにわたる海外巡業ではマネージャー業もしっかりこなしていたのだ。横浜を立つ前は博奕鍬の遊び人だった広八はいわゆる「通り者」だった。一面では犯罪の影を背負ったヤクザものでありながら表裏両方の社会をとりもつ庶民にとっても、また場合によってはお上にとっても便利だし、いなくては困る存在だった。こういう流浪と自由が広八と芸人たち全員に共通する特徴だったのである。

 

こういう自由人には勤王だ佐幕だ、尊王攘夷だなどというイデオロギーに影響されない図太さがある。これが見知らぬ世界をかけめぐる旺盛なエネルギーの源なのだろう。

 

ちなみに総勢19名の「帝国日本一座」は横浜からアメリカへ西部と東部で巡業したのち欧州各地でjも従業をつづける。その後再度アメリカへもどる。巡業期間は2年あまりにわたる。途中で1名が病死、残った18名はニューヨークにもどった時点で帰国組と残留組に別れる。帰国組は高野広八に率いられてサンフランシスコ経由で横浜へ。濱碇一座を中心とする残留組はそのほとんどが1884年に帰国するまで欧米で興行を継続したらしい。

 

<手頃な関連web資料ならびに図書>

*国立歴史博物館、歴史系総合誌『暦博』第118号、連載「歴史の上人・写真による所蔵品紹介:サーカスの夜明けー軽業芸人の海外交流」www.rekihaku.ac.jp

 

*『高野廣八日記ー幕末の曲芸団海外巡業記録』(福島県飯野町史談会、1977年):大規模な図書館でしか所蔵していないようだ。次の安岡章太郎の本はこの日記をかみ砕いて書かれているのでそちらを読むのが賢明。

 

安岡章太郎『大世紀末サーカス』(朝日新聞社、1984年):手だれの小説家だけに語り口がうまい。読んでいて楽しい。

 

*宮永 孝『海を渡った幕末の曲芸団ー高野広八の米欧漫遊記』(中公新書、1999年):正確でわかりやすい論述で当時の芸人による海外遠征について楽しく眺める効果がある。

 

*三原 文「海を渡った日本の見世物 ー リトル・オーライこと濱碇梅吉の大活躍 ー 」、『別冊太陽』 日本のこころ 123、2003年6月)。

*三原 文『日本人登場ー西洋劇場で演じられた江戸の見世物』(松柏社、2008年):巡業先の新聞をはじめ丁寧に資料をあさって詳細かつ正確な記述がなされている。詳細すぎるので、まず安岡、宮永両氏の本を読んでからこの本にとりかかるべきだろう。

 

 

 

 

下町かぶき組本部(本社)の座員入れ替え政策に疑問符?

下町かぶき組はその傘下に複数の劇団をかかえている。中でも「劇団悠」が最近メキメキと実力をあげ大衆演劇界に新風を吹きこんでいる。これが客観的事実だ。だからといって「劇団悠」だけが存在意義があるといいたのではない。私としては下町かぶき組全体が大衆演劇ニューウェーブとして成長することを願う。

 

しかし先日、3月12日更新「3月ー6月、全劇団スケジュール」を見て疑問がわいてきた。各劇団のメンバーをシャッフルすることで個々の座員が現状に安住することなく新しい環境で役者としての感性をリフレッシュできる。このことがまた創造力を高める効果を生むのはまちがいない。

 

とはいえ去年11月以来の関西公演に参加してきたメンバー構成(特別ゲスト、藤 千之丞をふくむ)が劇団悠の人気を向上させるうえで重要な鍵を握ることは疑えない。この体制で進めば、劇団悠は下町かぶき組の存在を全国に知らしめることが充分期待できる。劇団悠はいわば大衆演劇界の将来を開拓するパイオニア集団だといえるだろう。

 

だが、せっかく今まで実績を積んできたメンバー構成を変えてしまうと劇団の推進力が弱まりはしないか。松井悠座長はそういう懸念など無用とおっしゃるかもしれない。また座長にはそういうだけの力量もあると思う。それでも私は不安なのだ。これから少なくとも1年間は座員構成を現状のまま維持すべきだと思う。今現在の劇団悠こそ強力な存在感を示しているのだ。繰り返しになるが、劇団悠の成長は下町かぶき組全体の成長に貢献できる。

 

ひょっとすると下町かぶき組本部は「民主主義」精神にのっとった「平等主義がモットーなのかもしれない。だが傘下の全劇団がともに手を携えて成長するという考えはむげに否定できないが、ビジネス戦力としては問題だと思う。悪j平等は組織全体の進歩を阻む。

劇団 「岬 一家」特別公演(明石 三白館)

特別ゲスト駿河染次郎の歌唱を含む 顔見せショーの後、歌舞伎や大衆演劇でおなじみの芝居、『文七元結』がつづく。庶民の悲哀と喜びを綴った典型的な人情劇だが、こんな気は意図的に笑いの風味を盛り込んでいる。だが、私見ではあるが、コメディ性が中途半端だった。徹底して話の展開を喜劇化してお笑いネタ満載にすべきではなかったか。そうすることで深刻な状況でも笑いを失わない庶民の心がたくましさとしなやかさに満ちあふれているさまを浮き彫りでできたように思う。

 

ちなみに主人公、左官の長兵衛の娘、お久を演じた「松木美和」は笑劇版『文七元結』で活躍がおおいに期待できる。松木は一見控えめだ。特に文七に扮した「山脇広大」が表現力豊かなので彼のそばに立つと影が薄くなりそうではある。しかし実は松木は舞台に出たいという強い欲求から役者になった人。ちょっとそそのかせば喜劇役者として目立つはずだ。「松木美和のはちきんブログ」を見ればその人柄がわかる。とても目立ちたがりにちがいない。ご本人の郷里の言葉、土佐弁で「はちきん」とは「オトコ勝りのオンナ」。そんな言葉をブログのタイトルにしていることから推して知るべし。

 

お芝居のあとは座長の日本舞踊。正式なタイトルは不詳だが、月夜のカッパをてーまにしたらしい舞踊。大衆演劇系の舞踊とは所作がかなりことなる。日本舞踊の知識のない私がいうのもなんだが、日本舞踊としてのキレがあったように感じた。とりわけ手の動きが印象に残る。普段の公演でも毎回短い作品をぜひぜひ披露してほしい。

 

最後に駿河染次郎が登場し、昔とった杵柄 で噺家としての芸を披露。この件は別記事で書いている。

 

 <予定演目>

16日(水)

お芝居:雪の夜の物語

ラストショー:常磐津 筏の与三郎 〜  お富さん

17日(木)

お芝居:音吉出世旅

ラストショー:ニッポンワッショイ

18日(金)

お芝居:二人忠治

ラストショー:白雲の白 〜  あんたの花道

19 日(土)

お芝居:稲荷札

ラストショー:花笠音頭

20日(日)

お芝居:三吉の置き土産

ラスト・ショー大和楽 恋の風鈴  〜  夏うれしいね

(*大和楽・やまと がく=昭和初期、1930年代はじめに創設された新邦楽の一種。和洋の音楽を折衷してできた舞踊と謡らしい。動画サイトで視聴可能。)

21日(月)

お芝居:好太郎懺悔

ラストショー:花笠音頭

 

「岬 一家」は座員の数が少ないことが大衆演劇ファンの注意を引くネックになっているようだ。即戦力になる役者が複数ほしいところ。

 

そこで新規座員さんの探しどころはというと。。。最近とみに人気が下降している関西系の某老舗劇団。いくら事情があるとはいえ座長が不甲斐ないから不人気も当然だろう。ここには有能な役者がたくさんいる。中でも芸達者な某女優さん、その才能に見合わない不当な扱いを受けていて、バカな自称劇団ファンが性悪な "劇団インサイダー(♀)" の尻馬に乗ってこの女優さんをののしっている。この人を引き抜けないものか。下町かぶき組はいわゆる「大衆演劇」系劇団とはちがって商業演劇系に近い。だから某女優さん本人が在籍劇団を退団して無所属になってから岬 一家にくることができやしないだろうかと妄想をたくましくしている私。

 

なにはともあれ、19 日はお笑い満載の『稲荷札』が楽しみだ。

駿河染次郎さん、明石 三白館で小咄を披露(2016年3月14日)

昨日、13日(日)弁天座の舞台に立っていた駿河染次郎。今日は弁天座の休館日を利用して明石に出張とは。幸運なことに三白館でもお得意の芸を楽しませてもらった。しかも得意の歌(ジュリーの『勝手にしやがれ』)だけでなく、噺家としての芸も堪能できた。劇団「岬一家」の4時間近いロング公演の最後ににわか噺家となった染次郎の口演が聞けてよかった。うれしいサプライズだ。

 

前に舞台でご本人が昔噺家も経験したといってたので、この経歴が気になっていた。今日は吉本お笑い芸人をめざしたころの話からはじまって小咄をいくつか披露した。

 

吉本総合芸能学院NSC)に7期生として入学したのが1988年。同期には「雨上がり決死隊」の宮迫博之蛍原徹がいるそうだ。また1年下には千原ジュニア。みなさん、花の40代ですね。

 

時系列は不詳ながら四代目林家染丸(1949年生まれ)のもとでしばらく落語家修業に励んだとのこと。劇団悠の公演でも喋くりのうまさは光っていたはずだ。

 

劇団悠公演でも月に一度くらいは10分あまり「駿河染次郎の小咄コーナー」をもうけていただきたいと切に願う。