2016年9月一竜座 気迫が感じられない

9月14日

久しぶりに大阪にもどってきている一竜座。月初めに一度見て、それから10日ほどして今日が2度目。前回は期待していただけに劇団の活気のなさに驚いた。今日は「座長祭」だからきっと本来の魅力をとりもどしているだろうと堺 東羅い舞座に着くまで心はワクワクしていた。

 

たしかに竜也座長は芝居も舞踊もプロの出来映えだ。

 

今日の芝居は『稲葉(因幡?)小僧シンスケ』で新作だとか。物語としては類似の作品を何度か見た気がする。シンスケという若者が草深い田舎で百姓として一生を過ごすのは嫌だと親の止めるのも聞かずお江戸をめざして出奔する。ところが例に漏れず求職に失敗し結局盗人稼業に身を落とす。一方かれの妹が兄を探して上京する。兄と妹の奇遇な出会い。しかしシンスケの正体が露見し捕縛される。重罪犯であるシンスケは死罪をまぬがれない。シンスケにとってひとつの救いは護送される途中温情ある役人の計らいで実家の父や妹としばしの別れを惜しむことだ。

 

座長の舞踊、とりわけ「飢餓海峡」や「安宅の関」に合わせた踊りは見る者に一遍のドラマを感じさせるほどすばらしい。

 

とはいえ劇団全体としては生気が失われているように思う。旗揚げ後1年たっていた昨年6月の浪速クラブでの公演で見せたインパクトあふれる舞台は今はない。座長とその右腕たる白龍をはじめとして子役の竜美紫恩にいたるまで個性あふれる役者ぞろいの一竜座。にもかかわらず各人がてんでんバラバラでまとまらない。個性の輝きがない。全員疲労困憊としか思えない。

 

劇団の重鎮たる座長と白龍ですら1年あまり前の浪速クラブ公演と比較して冴えない。ただし白龍は体調不良。のどを痛めてセリフがしっかりしゃべれないとか。明日検査を受けるそうだが、必要な休養はしっかりとっていただきたい。若手が大勢いるので一時的な欠員状態はカバーできるはずだ。

 

こういう劇団沈滞期を抜け出すには劇団重鎮のお二人ではなく中堅どころの竜美獅童と風月光志が経験と若さのパワーを発揮して上演内容の構成と演出に集中するべきではないか。今評判の映画『超高速 参勤交代 リターンズ』(2016年)に登場する湯長谷藩家老相馬兼嗣(西村雅彦)みたいに窮地に臨んでこそ有効な解決策が思い浮かぶと期待する。(ちなみに正編というか前編というか2014年封切られた『超高速 参勤交代』はgoogle.comに100円支払えば即時youtubeで視聴できる。)

 

劇団重鎮である座長と白龍はジタバタする必要はない。お二人は「権威」の象徴としてどっしり構えていてほしい。象徴的存在は生身(なまみ)の次元を超越している。現実的感覚からすると「無」である。しかし否定しようのない実在性を帯びているのだ。その証拠にお二人の舞台姿、特に舞姿は美の極地に達している。

 

最後にひとこと。風月光志の「ヒトミばーちゃん」が見たい。きっとご本人も「ヒトミばーちゃん」で再ブレークしたがっていると勝手に信じている。

「戟党市川富美雄一座」に期待する

2016年8月、大阪市大正区にある「笑楽座」で公演中。

8月11日久しぶりに笑楽座を訪れ初めて見る戟党市川富美雄一座を観劇。当日は(後で考えると)ゲスト(下町かぶき組劇団一家の)岬寛太座長のおかげでほぼ満席だった。私の経験では桟敷席にまでお客が入ることはなかったので驚いた。芝居は『新月桂川』。渡世人の兄貴分と弟分の一家の跡目と親分の娘をめぐる争いが生じる。だが兄貴分は男気、義侠心を発揮して親分の娘と相思相愛の弟分にライバルの一家の親分の首級をあげた功績を譲り去ってゆく。富美雄座長が兄貴分、市川千也が弟分をそれぞれ演じる。二人とも比較的あっさりとした役作りながら一種の兄弟愛が説得力のあるものとして私には伝わってきた。上出来だった。

 

13日(土)に再訪。週末にもかかわらず客入りがよくないし桟敷席にいたっては無人。11日の盛況はやはり(今年1月から5月にかけて近畿圏で公演した実績が生んだ)「岬寛太・効果」だったのか。下町かぶき組ファンとしてはうれしいけれど戟党市川富美雄一座を新規に応援する者としてはがっかりだ。

 

さてこの日の芝居は『興津の夜嵐』。座長のお話では座長の祖父にあたる方が昔舞台にかけていたとか。忠誠を誓った親分(笑楽座所属・中海加津治)の身代わりに罪を着た男(市川千也)はようやくご赦免になり近々帰ってくるという。しかし男の服役中に女房(紀 訥紀乃)はライバル一家の親分(富美雄座長)となさぬ仲となっている。一家にもどった男は女房の裏切りを知る。復讐の鬼となった男は女房とその情夫を成敗しようと敵地に乗り込むが、返り討ちにあってあえない最期をとげる。

 

それを知った男の弟分(飛雄馬)が兄貴分の仇討ちに。われらがヒーロー<飛雄馬>の活躍の場となる。

 

この仇討ち譚はもうひとりヒーローが登場する。それが座長の15歳の次女市川菜々美演じる美形の若衆、振袖千太である。主筋に関係なさそうなのにやや唐突に出現。本人いわく空腹のあまり一家の軒先に倒れていたのを助けられたとか。それ以来一家の客分として世話になっているそうだ。助けられた恩義に報いるためと称してこの弁天小僧ばりの振り袖を着た女装の若衆も仇討ちにかけつける。二人のヒーローの活躍で無念の死を遂げた男のかわりに無事間男成敗を成就する。

 

とりわけ振袖千太の活躍はめざましい。弱冠15歳の實川菜々美が仇討ちの場面で見せるお嬢吉三か弁天小僧かとみまごうばかりのタンカがお見事。いなせなセリフ回しはまだ修練が必要ではある。が、まだコドモっぽさが残る声音ながらドスをきかせるところはきちんと効果を出していた。大衆演劇の子役にまま見受けられる妙に完成したようなこましゃくれた演技とは違い菜々美の舞台姿は未完成ながら今後の成長を期待させるにじゅうぶんだ。

 

この芝居では菜々美は女優として振袖千太という女装するオトコに扮していてジェンダー(社会的に位置づけられる性別)が一捻りも二捻りもされた役柄を魅力あるものに仕上げていたようの思える。タカラヅカの男役にも引けをとらないだろう。こういうジェンダーの転換に関連させていえば個人舞踊で踊った立役(曲:氷川きよし『白雲の城』)も踊りぶり、体さばきがよかった。すぐに頭打ちする小器用さとは無縁の才能がうかがわれる若き女優だ。

 

振袖千太に見られる人物設定の魅力とは別にこの芝居の魅力がもうひとつある。ホンモノ(真)とマネゴト(贋)のコントラストがそれである。男の女房と悪の親分との不倫関係がモドキ(マネゴト)という仕掛けで再現されて観客の笑いを誘う。芝居の前半で女房と間男が手に手をとって退場する男女の道行きの場面がある。それを振袖千太が逗留する一家の三下(座長の三女 實川 結)が見ていて偶然通りかかった敵方の用心棒(市川千也の二役)を相手に道行を真似てみせる。これで物語の生命力が向上する。生き生きしてくるのだ。

 

この芝居だけでなくほかの芝居でもこういうモドキはどしどし工夫を凝らしてとり入れるべきだ。伝統的に大芝居、いわゆる正統の歌舞伎のモドキを見せて観客を感心させ楽しませるのが小芝居、緞帳芝居、旅芝居の特徴であり強みである。大芝居を忠実に再現するのではなく、いかにもそれらしくホンモノの「コピー」を新たに創造することの醍醐味。小芝居が大芝居に対抗できる魅力の源泉がここにある。

 

余談だが、振袖千太という人物が物語に関与してくる事情が現状では曖昧すぎるので理由づけをはっきりとさせる必要あり。座長によるひと工夫を期待したい。ちなみに軒先に倒れているという設定はすでに廃れてしまったといえる厄払いの儀式として新生児を一時的に捨て子状態に置くという習わしを連想させないでもない。捨て子の過程を経ることで新生児は健やかな成長と幸福な人生を約束されるとかつては信じられていた。今でもこういう習わしが存続している地域もあるらしい。折口信夫のいう「貴種流離譚」の変形かもしれない。英雄となるべき人物はきびしい試練をくぐり抜けてこそ将来世に尊ばれる英雄へと成長するものだという民衆の期待。この芝居にかぎらず「振袖千太」と同種の人別設定の背景にはこの手の民衆の期待があるのだろう。

 

余談をもうひとつ。振袖千太役の菜々美の衣装はなんと彼女の祖父市川千車が50年以上前梅田コマ劇場出演時にまとった振袖だと座長が打ち明けていた。絹物は大事に保管すれば長年月衣装として輝きを放つものだと感心した。多分今は亡き祖父が孫の名演に力添えしたのだろう。

 

 

 

狂言(茂山一門)がこんなに生き生きしているとは知らなかった

先月見た「花形狂言2016『おそれいります、シェイクスピアさん』」のおかげで狂言が能の添え物という偏見を払拭できた。

 

そこで先日8月6、7日の二日にわたって大槻能楽堂(大阪)で久しぶりに同じメンバーにベテランが加わった狂言公演『納涼 茂山狂言祭』を観劇。先月の「花形狂言」が若手による伝統形式からの建設的逸脱の試みだったのに対して今回は狂言の伝統を重視するものだ。ただし狂言は伝統的に同時代性、つまり今、現在の「ナウい」ユーモアのセンスが命なので能のようにいささかかしこまって見るものではない。

 

ちなみに「花形狂言」は8月の公演でも大活躍された茂山千五郎(71歳)が40年前まだ若手だったころ実弟茂山七五三(しげやま・しめ)と従弟茂山あきらを誘って結成。現在は長男正邦たちの世代が引き継いでいる。第一世代はつつましく、おとなしく「花形狂言会」となのりながら<現代的笑い>を追求していたようだ。他方現在の第二世代(茂山宗彦、逸平、正邦、茂、童子)は20年前にスタートしたが、そのユニット名が実に大胆だ。当時デビュー10年で人気がますます高まっていた「ジャニーズ少年隊」の向こうを張ってか「花形狂言少年隊」なのだ。当時まだ中学生で参加していなかったらしい童子(33歳)以外のメンバーは二十歳になるかならないかのころ。その若さなら(おそらく)幼少時からTVを通してなじんできた異業種の人気アイドル・グループにライバル意識を燃やしたのもうなづける。

 

話をもとにもどそう。『納涼 茂山狂言祭』の演目だが、『樋(ひ)の酒』、『磁石』、『死神』(8月6日)、『船渡婿(ふな わたし むこ)』、『口真似』、『新・夷毘沙門』の六曲。若手5人を中心に茂山千五郎、七五三、あきら、千三郎、丸石やすしらベテランならびに中堅が脇を固める。

 

『樋(ひ)の酒』は狂言でおなじみの太郎冠者と次郎冠者(従者)が知恵競べで主人を小気味よく打ち負かす。庶民が大部分であったと思われる(室町時代の)観客の共感を誘ったにちがいない。

 

『磁石』は(法律的にも道徳的にも違法なふるまいをする当時「すっぱ」とよばれた悪人に窮地に追い込まれた善人が相手を知恵でねじ伏せる痛快な話。自分は「磁石の精」だと称して悪人が振り上げた刀剣を磁石さながらに吸引し飲み込んでしまうというと悪人がそれを信じて退散。8世紀末に完成した『続日本紀(しょく にほんぎ)』(巻第六)によると8世紀初めには近江で磁鉄鉱が発見され天皇に献上されている。当時すでに磁石の物理作用に気づいていたようだ。

 

さて初日最後の演目『死神』は初代三遊亭圓朝が19世紀のグリム童話あるいはイタリア・オペラを翻案したといわれている同名の落語を狂言にとりこんだ作品だ。生活に窮した凡人が気まぐれで情けをかけてくれた死神を巧みにに利用して幸運をつかむ。死神は凡人に偽医者になるようにすすめ、自分が病床のどの位置にすわるかで回復するかどうかがわかるようにしてやるという。病人の枕元なら命は助からないし、また足下なら助かるというわけだ。偽医者はこのトリックを利用して大もうけ。あるとき死神が枕元に座る。そこで偽医者は知恵を振り絞って死神を足下へ移動させようとする。偽医者を演じたのは大ベテラン千五郎。対する死神は千五郎のいとこ、あきら。どっかと枕元に居座る死神の腰をあげさせようと偽医者は観客になじみ深い歌を繰り出してみせる。阪神タイガース・ファンである千五郎、『六甲おろし』で初め、最後は『蛍の光』でまんまと死神を病人の足下へ追いやる。ただし結末は偽医者自身の寿命を示す蠟燭がついには消えてしまうという多少苦みのあるものではあるが。いずれにしても知恵あるいは悪知恵を次々に編み出す庶民のしたたかな生き様が活写される。

 

二日目も三曲そろっていつの時代の庶民にも共通する厳しい現実を生き抜くための柔軟な思考力がおもしろおかしく描かれる。

 

狂言、それに能もそのルーツは素朴な娯楽を提供する演芸にある。7世紀頃(現在の)中国や朝鮮半島から芸人たちが日本に渡ってきた。これら渡来芸人たちの芸能は部分的には遥かに遠い古代ギリシアやローマなどで誕生し、シルクロードなどを通じて伝来した芸能の影響を受けてもいただろう。そういう外来の芸能を受けて日本の(放浪)芸人たちはそれを自分流にアレンジをして日本的娯楽芸を形作り始める。

 

こういう雑芸、エンタメ芸能はやがて猿楽あるいは申楽と総称されるようになる。15世紀初めにはこれらの雑多な芸能の一部が世阿弥らの才能と努力で芸術へと昇華して新たに「猿楽(申楽 )」とよばれる。それより400年ほど昔、11世紀に藤原明衡(ふじわたのあきひら)が著した物語『新猿楽記』は序文で軽業(アクロバットやモノマネなど種々さまざまな芸(猿楽)が当時のあらゆる階級の人々を楽しませていたようすを述べる。とはいえ猿楽の描写は全体の10分の1以下にすぎない。残りはというと某日猿楽見物に出かける右衛門尉(うえもんのじょう)という下級警察官僚の家族一人ひとりに関する人物評なのだ。ただし主の右衛門尉は除く。お上のお手当でまかなえるのかどうか心配になるほどの総勢39人という大家族。3人の妻、16人の娘と上から10番目までの娘たちの夫、最後に9人の息子たちという具合。この中には10人の義理の息子が含まれるが、どれだけあてになる収入があるのか怪しそうだ。かれらの生き様こそ路上で演じる猿楽芸人たちにけっして引けを取らないみごとな芸当の持ち主にみえてくるのがおもしろい。きっと作者藤原明衡は序文で猿楽の概要を述べ、本文で縷々語る家族の人物像を猿楽芸人たちの実像になぞらえているのではないかとさえ思えてくる。

 

右衛門尉の妻3人をのけて半分以上が職業をもつ。猿楽の開催に伴って商売できそうなものも混じるのが興味を引く。博奕打ち、相撲取り、(非公認の)陰陽師、能筆(実は代書屋?)などなど。9番目の息子(九郎の小童)は雅楽寮に勤める人(ほんとに正規の職員かな?)の養子だとか。舞が上手らしい。それから、それから、末の娘(十六の君)がなんと遊女屋の女主。祝祭日でなくとも商売できる。奇妙なのはその直前に置かれた末から2番目の娘(十五の君)の話で女ヤモメで現在は貞操堅固な尼僧だそうだ。これはわたしの勝手な連想だが、(歌舞伎の創始者ではないかといわれる)出雲出身の女優お国は女優と遊女を兼業した歩き巫女でもあったのでこの十五の君も同様に思えて仕方がない。

 

話が狂言からかなりそれてしまったが、芸能というものが深い所で人間の欲望や願望と結びついていることは間違いない。狂言はどちらかといえば人間の内面の明るい部分を照らし出してはいる。だが明るい部分は暗い部分と表裏一体の関係にあるものだ。狂言の笑いを通して人間の内面を覗き込むという時間も人間性の両面をとらえる貴重な体験のためにあるのではないかと思えてくる。そんな妄想を巡らすきっかけになった「納涼茂山祭」であった。楽しかった。来る10月は茂山正邦が父千五郎のあとを継ぐ「十四世茂山千五郎襲名披露公演」が楽しみだ。

知らなかった!若手狂言方がこんなに才気煥発とは

花形狂言『おそれいります、シェイクスピアさん』

2016年7月18日、兵庫県立芸術文化センター

 

 ここ数年歌舞伎界の若手(20ー30代)の活躍ぶりは目を見張らせるものがあると常々思っている。が、伝統芸能のひとつ狂言界も若手(30ちょいからアラフォー)が意気盛んだとはうかつにも知らなかった。自分にとって母語である関西弁(出演者が京都生れの面々だから正確には京都弁か)であり、狂言方(=狂言方能楽師)として笑いの身体表現に長けた演者たちの巧みな演技に魅されて2時間あまりの上演時間がまたたくまに過ぎてしまった。狂言の舞台に接したのは数年ぶり。実に楽しかった。

 今回出演した狂言師ユニットは大蔵流の若手たちだ。構成メンバーは茂山宗彦・逸平兄弟、茂山正邦 (今年9月「十四世茂山千五郎」襲名予定)、茂山茂、茂山童子。外題からして剽軽さが感じられて私としては観劇前から期待感を募らせる。上演内容といっても常識的な意味でのかっちりきまった物語の展開があるわけではない。観客の眼前に緩やかに引かれた線上をシェイクスピアの代表作、『ハムレット』、『ロミオとジュリエット』や『真夏の夜の夢』などの断片が横断していく。ウイットのきいた言葉の応酬とそれを身体化する狂言方。器用さにのみ頼る芸ではなく若手ながら鍛錬を積んではじめて習得できる芸を見せてもらった。

 チラシによると16年前(2000年)に茂山宗彦・逸平兄弟がふたりだけで同じ趣旨の(想像するに内容的にはずっとシンプルな)作品が上演されたそうだ。初演時も今回も「わかぎ ゑふ」が演出を担当。わかぎ ゑふといえば女優、演出家、劇作家として長年関西の演劇界で活躍している人だ。この名前に接するのも何十年ぶり。彼女は2004年に急逝した中島らもが1986年に旗揚げした「笑殺軍団リリパットアーミー」に参加していた。現在リリパットアーミー II(ツー)の主催者として中島の遺志を引き継ぎ発展させているらしい。5人の若手狂言方の芸は賞賛に値するが、わかぎ ゑふの演出力にも脱帽する。

 芝居のはじまりは「シェイクスピアさん」役の茂山宗彦とこのシェイクスピアさんが創作した名作『ハムレット』の主人公役をつとめる弟・逸平のなんともいえないおかしみを誘う問答だ。ハムレット』の台本を書き始めたシェイクスピアさんは気が乗らないのか筆が進まず困っている。困るのは作者だけでなく中途半端に命を与えられた登場人物、ハムレットも同じ。なんとか作者シェイクスピアさんを奮起させようと苦労するハムレットさん。しかし登場人物一人では強いインパクトを与えられないと気づき、仲間の登場人物さんたちの強力を求める。茂山正邦 、茂山茂そして茂山童子が加わり作者を説得しにかかる。

 まず自分たちがシェイクスピアさんの想像力が生んだ正真正銘の登場人物であることを証明しようと『ロミオとジュリエット』から名場面だけをよりすぐって実演する。ハムレットの恋人オフィーリアを女形で演じる茂さんの奇妙な色気には感服した。メンバー中一番年少の童子さん軽やかさはおシャレの一語に尽きる。最後に最年長の正邦さんは重厚なひょうきんさで他を圧倒している。蓮の葉の雨傘をさして「トトロ」の着ぐるみに身を包んだ姿は傑作だ。会場は爆笑の渦。それにこの人声がよく通り、しかも美しい。狂言方の発声のよさには歌舞伎役者はかなわないだろう。しまいにはシェイクスピアさんもヤル気を出す。

 本作はここでヒネリをきかしていいて登場人物のハムレットが原稿用紙に次々字を埋めていく設定になっている。ということは登場人物は作者の想像力の単なる産物ではなく作者と足並みをそろえてともに現実とは異次元の世界を生きるということなのだろうか。現実と虚構の二元論をつきくずそうという演者と演出家の意気込みが伝わってくるようで興味深い。

 こういう設定は不条理劇の始祖とみなされたりする(イタリアの劇作家)Luigi Pirandello (1867-1936年)を思い起こさせる。とくに『作者を探す六人の登場人物』(1921年)と関連づけたくなる。かれら6人の登場人物は活躍できるはずの芝居が没になって居場所を失っているのだ。作者の姿が見当たらないので仕方なく劇団の座長や俳優たちを相手に交渉をはじめるわけである。常識的に接点を共有しないはずの虚構と現実が入り交じる奇妙さ、滑稽さ。それは笑いを超えて深刻な問題にまで発展しかねないという危うさ。

 今回の狂言仕立ての芝居も大いなる笑いにちょっぴり存在の不安めいたものが混じり込んでいるような気もする。

 演者5人はそれぞれが狂言の枠を超えて活躍している。とかく歌舞伎や能の陰になりがちな狂言、将来を担う若手にとって狂言を外から見直す機会は今後の狂言の発展にとって重要だろう。ちなみにご承知のとおり狂言方能楽師和泉流野村萬斎(1966年生れ)は若い頃から伝統芸能以外の分野でも大活躍。萬斎の場合ご本人の才能と創意工夫も高く評価できるが、東京を中心に活動しているせいでマスコミで広くとりあげられてきたこともその存在感を強めるのに役立っているだろう。

 そこで関西狂言の若手を応援する新参者としては茂山一党に積極的に公演回数をふやしてほしいと願う。でも公演には自己資金ばかりでなく多額の(公的・私的)援助金が必要なのだろう。狂言界は歌舞伎と違って自由にできる資金が潤沢ではないのかもしれない。ということはわれわれ観客がチケット代が高いとぼやかずに財布のひもを緩めるしかなさそうだ。

 

 私事ながらこの久しぶりの狂言との再会を機に生の舞台を積極的に見にいこうと心に決めた。さっそくネットで8月と10月のチケットを入手。8月6日は「納涼茂山狂言祭2016 大阪公演」(大阪能楽堂)と10月2日「茂山狂言会特別公演」(大槻能楽堂)。ベテランと若手の茂山一党の舞台が今から楽しみだ。

ジャ・ジャンクー 監督最新作『山河ノスタルジア』(原題『山河故人』)は歴史的時間を超越している

ただし題名が「悠久不変の自然こそわが旧友(故人=旧友)」だという意味らしい『山河故人』なのだからというのではない。悠久の歴史を誇る中国という俗説にのっかって歴史の超越うんぬんというのとは違う意味だ。私にはこの映画を通して歴史が展開する現実世界とは異次元の世界をかいま見た気がする。適当な言い回しが思い当たらなくて自分でいらだってしまうが、physicalとは真逆のある種spiritualななにかを感じてしまう。ジャンクー監督は人と人とのかかわり合いについて一種の実験的な視点を提示しているのではないだろうか。

日本語や英語の映画評を見てもどれも中国が対面している急激な変化にもかかわらず雄大な山河が不変であるように人間の情愛も変わらず、夫婦ではなく母と子の愛情は永遠不滅だという。これだと耳タコの平板すぎる人間観になってしまう。

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(上のポスターはhttp://ent.qq.com/a/20151029/000831.htm から無断借用)

 

さて前半の舞台は監督自身の故郷でもある中国北部山西省汾陽市に設定されている。地方の小都市 の典型というところか。主人公は二十歳を少し過ぎたばかりのひとりの女(学校教師タオ)とふたりの男(炭坑夫リャンズと資本主義の魅力とりつかれ起業家をめざすジンシェン)だ。幼なじみかどうかわからないが仲良し3人組。

20世紀最後の1999年を皮切りに2014年、次いで2025年の3期に分けてこの3人組の四半世紀にわたる人生が描かれる。国際ビジネスで米ドルをどっさり手に入れようと上昇志向満々の自信家ジンシェンは何事にも控えめなリャンズを出し抜いてタオと結婚してしまう。失意のリャンズは故郷を捨てて遠い町の鉱山に仕事を求める。タオはリャンズのことを気にかけながらもジンシェンとの結婚生活に喜びを見いだしやがて男児を出産。成金根性を恥じない父親は息子をダラー(Dollar)と名づける始末。しかしダラーが十歳になるかならないうちに夫婦は破局を迎え、相当な慰謝料を得たものの妻・母のタオはダラーの親権をとれずにひとり去る。父と子はビジネスの拡大をもくろんで上海に転居しそこで父と子そして新しい妻・母の3人家族ができる。息子は将来国際的に活躍できるようにと当地で英語教育を実施するインターナショナル・スクールに入学させられる。年月は瞬く間にすぎ、タオをたっての頼みを聞き入れたジンシェンは14歳になったダラーを生母タオの元に一時的に赴かせる。だが、ダラーにとって現在の母がほんとうの母であり、生母タオは見知らぬおばさんでしかない。生母にそっけない態度のダラー。そればかりか生母を「おかあさん」でなく「マミー(Mommy)」とよぶ実の息子にショックを受けるタオ。

それからさらに11年が経過。舞台はオーストラリの某市。ビジネス・チャンスに恵まれつづけるジンシェンが息子と二人暮らす。再婚した妻の姿はない。しかし父と子に会話がなりたたない。父は英語が話せず、息子はとうに中国語を忘れている。タブレットを手にグーグル翻訳でようやく話が通じるという皮肉な状況が出来上がっているのだ。

父に反発する息子ダラーは英語学校の中年女性教師ミヤにひょんなきっかけから恋愛感情をいだくようになる。この女性教師がどことなくタオに似ている。まさにミヤはタオの面影を彷彿させる。それにまた彼女が父の管理から逃れたい気持ちを理解してくれることもダラーの彼女に対する淡い恋心の芽生えに関係しているようにも思える。

一方タオは離婚後20年あまりたつ現在もひとり住まいのままだ。しかし結末近くでダラーが遠い外国で母に似た女性と時をすごしているダラーの思いを実母タオが察知したかのように思わせる場面が映し出される。かつてのつかの間の息子との逢瀬でタオが心づくしの水餃子を食べさせた。あれから11年。ふたたび母は息子の来訪を待ちわびるように水餃子をつくる。水餃子が大写しになる。母の顔はどことなく息子との再会に心を弾ませているように見える。永遠の絆でつながれている母子の関係をそれとなく暗示的にカメラが映し出す。現実的な感覚でいえば、この第二の再会は実現不可能だ。だが、時空を超えた次元ではおこりうることなのだ。

もうひとつこの映画で気になるのはタオをはじめ主人公たちが十年、二十年を年月の経過に応じた自然な老化を感じさせないことである。某サイトによるとメークは映画界で国際的に『活躍するメークアップ・アーティスト橋本申二のおかげでわざとらしくない「自然な」老けをみせたらしい。だが私には人物の老化がほとんど目立たないのは監督の意図だと思える。山河という大自然と同様、人間の「魂」のレベルでは何十年たとうが深い絆はほどけないことを監督は訴えているにちがいない。

ただし息子ダラーは少年期と青年期は別々の俳優が演じている。これは彼がほとんど一緒にくらした記憶のない生母タオとの絆を浮かび上がらせるためだ。彼の魂のレベルでの成長が父に反逆し生母との縁にいつとはなしに気づき明確な自覚なしに思慕の情を募らせるようすを視覚化する工夫がされていると思える。

 

山河は不変であり、永遠にわが旧友に思えるのと同じく魂どうしが結び合わされた人間と人間の絆は不変である。ただしここでいう「人間」は人間一般ではない。選ばれた気高い魂の持主にかぎられる。いかにジャンクー監督の故国が中華人民共和国とはいえ、悪しきポピュリズムpopulismをここには適用できない。たしかに万民の幸福をうたうポピュリスムは耳に心地よい。人間、あるがままが最高!なら宗教も芸術も無用だ。歴史が証明してきたようにポピュリズムの金看板をかかげたイデオロギーは早晩滅びる。個々人の魂は個々人が磨くしかない。魂同士の絆。怪しいカルトの妄言とは違う意味でこの魂の絆はspiritualな次元でしか実現しないのだろう。

 

ちなみにジャ・ジャンクー (Jia Zhangke) 監督作品『山河故人』は英語題名が Mountains May Depart)だが、あちこちのサイトでもそのように指摘されている。

この題名の典拠は旧約聖書にあるイザヤ書第54章第10節に由来する。

「『たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから映らず、わたしの平和の契約はうごかない』とあなたをあわれむ主は仰せられる。」

この箇所は英語圏でもっとも信頼される英訳聖書、『欽定聖書King James Bible』の場合こうだ。

Isaiah 54:10

For the mountains shall depart, and the hills be removed; but my kindness shall not depart from thee, neither shall the covenant of my peace be removed, saith the LORD that hath mercy on thee.

 

次のジャンクー監督作品はDVDがレンタル可能:

『長江哀歌』2004年

『無用』2007年

四川のうた』2008年

 

余談:

前述のとおり成人したダラーと記憶にほとんど残らぬ実母タオをつなぐのは英語教師ミヤだが、その役を演じたのは台湾出身で台湾ならびに中国の映画界で活躍しているSylvia Chang。62歳の彼女はジャーナリスト桜井よしこ氏(70歳)に似ている。驚いた。