メトロポリタン・オペラL’amour de loin (『遥かなる愛』) ー「他者」と「過剰性」
Kaija Saaariaho (カイヤ・サーリアホ)作曲、Amin Maalouf (アミン・マアルーフ)
台本
2017年1月下旬上映
オペラ鑑賞はまだ不慣れなわたしだが、その華麗さで観客を魅了するメトロポリタン・オペラの映画版を楽しんでいる。毎回キャスト&クルーのレベルの高さもさることながら視覚性に厚く配慮して演劇作品に仕上げようとする姿勢がうれしい。
作曲者が1952年生まれのフィンランド人女性。台本作者が1949年生まれのレバノン人作家。オペラ界ではめずらしいコンビではないかと思われる。
昨年12月メトロポリタン歌劇場で上演された『遥かなる愛』の初演は16年前(2000年)ザルツブルグ音楽祭だった。女性作曲家の作品がメトロポリタン・オペラにかけられるのは100年ぶりだそうだ。1903年にイギリス人Ethel Mary Smythの作曲した一幕物『森 (Der Wald)』が上演されたきりだった<注1>。また女性指揮者も珍しく(1976年、1996年、2013年につづいて)ようやく4人目でSusanna Mälkki(スサナ・マルッキ、1969年生まれのフィンランド人)が担当<注2>。このようにMETの流儀からすると意外な女性芸術家の積極的な抜擢もイタリアやフランスに対抗して世界一のオペラ劇場をめざす劇場総裁ゲルプ氏の変革への強い意志のあらわれなのだろう。
わたしにはオペラというと歌舞伎でさえ俗っぽく思えるほど高等な芸術だという感じがしていた。それなのに粗筋だけ読むと不倫譚などとても高尚とはいえないけっこう猥雑な内容であることが多いと思えてしかたがない。しかしそれが舞台にかかると歌唱と演奏が作品を荘厳の高みへと昇華するから(わたし的には)不思議だ。
『遥かなる愛』は下世話な物語ではけっしてない。むしろ逆に隅から隅まで超現実性、理想主義に彩られている。神々しい愛のためには俗世の幸福をあきらめるし、死でさえ厭わないほどだ。生身の人間であることを忘れて神の領域に踏みこもうという主人公ふたりの姿勢は傲慢ではないかと感じられなくもない。
作品の荘重さは作曲者、台本、演出、その演出にもとづく照明に負うところが大きい。(音楽に無知なわたしはその名さえ知らなかったが、)作曲者サーリアホの芸術的感性を育んだ北欧。北欧神話を連想するほどかの地は神話性豊かな風土だ。ただし同じスカンジナビア半島とはいっても半島の東に位置するフィンランドは西側の三か国(ノールウェイ、スウェーデン、デンマーク)とでは民族文化のルーツが異なるらしい。とはいえ広い意味での神話性が色濃いことにちがいはなさそうだ。
作曲と同様に重要な台本。台本作者マアルーフが出会うことがかなわない永遠の恋人どうしの物語を創造した。男、中世ヨーロッパ(現在のフランス南西部に位置し、北大西洋、ビスケー湾を臨む)ブレ(Blaye)の領主の世継ぎである。この人物はとりわけ吟遊詩人として有名だ。史実と伝説がないまぜになって今に語り伝えられるJaufré Rudel (ジョフレ・リュデル、演者Eric Owens、ただし去る12月の舞台では一日だけMichael Todd Simpsonが演じた)がその人である 。そして女、(12世紀から13世紀にかけてキリスト教とイスラム教間のしのぎを削る戦いのさなか現在のレバノンに位置し「十字軍国家の一部」をなしたトリポリの女伯爵 Clémence(クレマンス、演者Susanna Phillips)。二人の橋渡し役を演じる謎めいた「旅人」とよばれる巡礼(演者Tamara Mulford)の三人が此岸では成就せず、彼岸に花咲くであろうと観客に期待させる理想の愛の物語を紡ぐ。永遠の愛は現実的には実現不可能だ。その意味で二人の恋人は互いに現実的次元ではわかり合えない「他者」でありつづけるしかない。
台本作者マアルーフは政治的かつ軍事的に不安定な中東の対立抗争の皺寄せを受けつづけたレバノン出身で1976年以来正式に難民として認定されパリに在住。レバノンではフランス語で教育を受けており、フランスでもフランス語でフィクション、ノンフィクションさらにオペラ台本を手がける作家として長年活躍している。
著作の一部は日本語にも翻訳され高く評価もされている(と思える)。そのうちの一冊『アラブが見た十字軍』(ノンフィクション)は原著上梓の3年後にはや日本語訳が出版されている(牟田口義郎・新川雅子訳、リブロポート、1986年、新版・ちくま学芸文庫、2001年)。地元の図書館から同書を借り出してみた。史実と(著者による)虚構がないまぜになっているのだろうが、(原文を反映しているにちがいない訳文には)朗読される歴史物語のようなリズム感があって眼前に歴史絵巻が展開するようだ。翻訳書の外装の痛み具合から判断して結構多くの読者に愛でられているようだ。
レバノンというあまたの民族と宗教が混在する特殊な状況があるだけに安易な相互理解はむずかしい。というより不可能だろう。現実問題としては(政治的)妥協が不可避だろうが、その一方でそれとは裏腹に「永遠」や「理想」が魂のレベルで重視されるような気がする。レバノン出身のマアルーフが映画版のインタビューで述べたことだが、文化の差異を越えて相互理解に努力するというよりむしろ文化の差異があるからこそ相互理解への道が開けるのだという。人間は皆同じという発想、いわば同一性幻想は虚妄にしかすぎず、「はじめに他者ありき」という覚悟がなければ相互理解はおぼつかないという趣旨ではないか。
マアルーフ自身が使った言い回しではないが、「はじめに他者ありき」とはなんとも重い人間観だし、厄介かつ危険な見方でもある。複雑な宗教構成のレバノンではマアルーフが劇中で暗示する肯定的な意味合いばかりでなく、現実のレバノンでは血なまぐさい武力対立を引き起こしてきたのだ。
そういう「他者」の現実を自ら体験したマアルーフが理想の恋人を求め合う男女を一編のオペラの世界に創造した。想像力豊かな吟遊詩人ジョフレはまだ見ぬ理想の女性クレマンスを心に思い描く。一方、仲介役の「旅人」にジョフレの手になる恋歌を歌って聞かされるクレマンス。純粋に空想の中で自分を恋い慕う男の存在を知って感動し、彼女も真摯な恋の思いにとらわれる。この男女はそれぞれ現実の次元ではかなわない恋愛の虜となる。このような、求めても求められない理想の恋人は自己にとって合理的判断の埒外にある存在、いわば「他者」とならざるをえない。生死を賭けて敵対する危険性のある「他者」とは異なるが、理想化された存在もまた現実的次元の自己とは根本的に異質な他者なのである。ジョフレにとってもクレマンスにとっても求めようとする理想の恋人が他者であるからにはその恋は現世では成就することはかなわない。
さてサーリアホとマアルーフが創造した世界を可視化するのがフランス系カナダ人演出家Robert Lepage(ロベール・ルパージュ)による演出プランだ。ルパージュは超現実性を得意とする演出家だが、2010—2011年ついで2011−2012年と2シーズンを要したワーグナーの4部作『ニーベルングの指輪』では間口、奥行きともに30メートル前後ある巨大な舞台をほぼ全面的におおう(可動式金属製パネルの組み合わせからなる)「機械仕掛け」を導入。芸術と機械は相容れないと批判も噴出して賛否両論かまびすしかった<注3>。
前回は神話特有の超現実性を浮き彫りにしようと観客の度肝を抜くような大掛かりな装置が呼び物だった。生の舞台も映画版も未見でその一部をyoutube動画でしか知らないのだが<注4>、それはまるで宇宙空間をかけめぐる「機動戦士ガンダム」を連想させる装置とも思える。世界のトップクラスの歌手たちが披露する歌唱力とあいまって舞台装置が生み出す視覚的インパクトが半端ではない。観客に印象づけるのはこの巨大な舞台装置が生みだす「過剰」性だ。その強大なエネルギーは舞台という容器から溢れ出さんばかり。
しかし今回の演出は前回、毀誉褒貶相半ばする『ニーベルングの指輪』と比較して「機械仕掛け」は抑制気味だ。それでも過剰性は消しようがない。舞台上に広がる青い光の海。広大無辺であるかのような大海原。過剰そのものが自己主張する海のイメージ。ルパージュは演出の核に超人的愛というか彼岸的愛の物語が展開する時空間をこのような「光の海」で表現する。これは一定のリズムに合わせるかのように明滅する28,000本あまりのLED管で構成されている<注5>。潤沢な制作資金を活用して舞台をめくるめく光の音楽で覆い尽くす。物量にものをいわせ芸術的アイデアを(むしろ肯定的な意味で)蕩尽するかのような演出。今回もまたルパージュは日常性を支配する現実的拘束を振り払って彼岸的愛の成就が期待される天上の高みへと観客を誘う魂胆にちがいない。
過剰性に彩られる舞台は光の海が暗示するように広大無辺あるいは無限の時空間を観客にかいまみさせようとする。(ネット上で公開されている)多くの劇評でも指摘されるように光の海は主役の二人、ジョフレとクレマンスを分断する「距離」を表象する<注6>。
かれら二人を隔てる距離は劇中何度か光の海に出現するシーソーに似た架橋が暗示する。この架橋は男女が離ればなれに暮らす海沿いの城郭を表象する。しかし一度だけだが、二人が長さ8メートル足らずの架橋の両端に同時に、しかしたがいに反対方向を向いたままたたずんでいた(グーグル画像を使えばl’amour de loin bridgeなどの検索語で確認できる)。何歩か歩み寄れば手が触れ合う距離だ。それでいながら二人の視線の方向が真逆だというのはかれらを隔てる距離の大きさを表わす象徴的絵柄だ。だがその一方で逆説的でもある。物理的距離の微小さが心理的距離の巨大さに通じるという逆説。
逆説にこだわるようだが、ルパージュの演出ではミクロとマクロの世界のコントラストも印象深い。リズミカルに点滅するLEDライト管の群れは広大な大洋というマクロの世界を表象する。その一方でこの海の光景は光センサー(緑色・赤色・黄色蛍光タンパク質など)を遺伝的に組み込んだ(たとえば)神経細胞の鎖において信号伝達が展開するさまを可視化したミクロの世界を連想させもする。極小と極大があたかも相互補完の関係を保つかのように並立する。強調される逆説性は日常性を超越した彼岸の愛を歌うこのオペラ作品にはふさわしい逆説だと思える。
ここで一言触れておくべきなのはルパージュの演出プランを効果的に現出させたのがKevin Adams (lighting designer)とLionel Arnould (lightscape image designer)だということ。Adams(1962年生まれ)は照明デザイナーとして複数回トニー賞ノミネーションと受賞の栄誉に輝いている。メトロポリタンとの関わりも深い。他方Arnould はカナダ人で主にケベックの演劇界で映像・照明のデザイナーとして活躍しているらしい。2012年『指輪』第4部「神々の黄昏」でvideo image artistとしてメトロポリタンで初仕事をこなしている。
最後に言い訳がましい弁を一言。的確なキャスティングと期待にみごとに応えた歌手たちについてはネット上の劇評を見ても数多く言及されている。わたしは歌唱力や音楽性を適切に批評できないので、ここでは作品のテーマと照明を含む舞台装置が生みだす演劇的視覚性がそのテーマにどう貢献しているかという点にかぎって私見を述べた。
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<注1>
<注2>
<注3>
https://bachtrack.com/appraisal-wagner-ring-cycle-robert-lepage-metropolitan-opera
<注4>
たとえば、https://www.youtube.com/watch?v=xeRwBiu4wfQ
<注5>
<注6>
「童」と能・狂言 — コドモ(中学生未満)は侮れない
午前の部
『柿山伏(かきやまぶし)』 演者:茂山鳳仁、茂山慶和
午後の部
『鶏聟(にわとりむこ)』 演者:茂山千五郎(正邦改め)、丸石やすし、
増田浩紀、茂山あきら 地謡:茂山童司、茂山逸平、島田洋海
『仏師(ぶっし)』演者:茂山あきら、茂山童司
『二人山伏(ふたりやまぶし)』
『初笑い親子狂言』は今回が第29回目というからほぼ30年前からつづいているとのこと。恥ずかしいことに大阪出身でありながらわたしはこれまで一度も観劇したことがない。能・狂言に対して本気で興味をもっていなかったと認めざるをえない。
『柿山伏』や『附子』は小学校高学年向け国語教科書に掲載されているそうだ。前者はテーマ的には民話『猿蟹合戦』に通じるので小学生にはとっつきやすいのだろう。後者も強者と弱者の間で繰り広げられる知恵合戦という設定は人間社会に普遍的なものなので年齢にかかわらず興味をかき立てる。そういう意味でも両作品とも古典芸能に対する関心を芽生えさせる効果がありそうだ。
わたしは午後の部だけ見たが、コドモの観客向けに構成された午前の部からひきつ づき午後の部を見ている(らしい)小学生がたくさんいて驚いた。京都のコドモたちはあんなに幼くても —— オッと、コドモ衆の皆さん、失礼な発言ごめん —— 高感度の芸術的センサーを身につけている。
午後の演目は一見コドモに不向きに思えたが、それはオトナの偏見。かれらは笑いのツボを心得ているようだった。『鶏聟』は室町時代にまだ残存していたらしい婿入り婚制度を背景に純真すぎる人物同士がでたらめな礼儀作法をまじめにうけとったことからおこる滑稽話。コドモたちが親しんでいるマンガやアニメにもありそうな設定だ。素直だが常識に欠ける婿が舅に挨拶するに際して知人に礼儀の教えを乞う。意地悪というかイタズラ心のあるその知人はニワトリのトサカに似せて赤烏帽子をかぶり玄関先で羽ばたきながらトリの声をまねろと助言。婿も婿だが、舅も舅でニワトリの鳴き声で応じないことには常識を疑われると案じた結果二羽のニワトリが誕生する。聴覚的だけでなく視覚的にも楽しめる。『仏師』は自宅で祭る仏像を求めて都へ出てきた田舎者が仏像制作の職人になりすました詐欺師にだまされてあやうく金を巻き上げられそうになる。生真面目な田舎者が世慣れた詐欺師に翻弄される。都会対田舎の価値観のバトルだ。最後に若手狂言師のひとり茂山童子の手になる新作狂言『二人山伏』。かつて山伏は厳しい修行で修得した法力ゆえに大いに恐れられ尊敬されもした。法力自慢のふたりの山伏が出会って法力比べをする。だがふたりは茶店の親爺にインチキぶりをからかわれるはめになる。権威者同士の深刻な対立という命題が部外者、アウトサイダーの機知でまるでちゃぶ台返しのごとくみごとにご破算になる滑稽さ。マンガでもよく見られる仕掛けだ。
さて話が狂言そのものからはずれるが、以前から気になっていたのが能・狂言の観客席のコドモの存在だ。今回主催者側の意図があるとはいえ、大勢のコドモが狂言に打ち興じる姿は印象的だった。いまさら何を驚いているのかと不思議がられるかもしれない。たしかに随分以前から初等・中等教育のプログラムには能楽師や狂言師による学校出張公演や劇場での観劇が実施されてきたのは承知している。それでも観客席に何人もいた小学校低学年くらいの児童の姿は印象に残る。
コドモ、童、童子。場所が京都だけに「京童」を連想してしまった。京童、平安時代末(10、11世紀ごろ)に登場したらしい徒党を組んで市中を徘徊し些細な出来事をきっかけにして騒ぎをおこすのを常とした輩。今でいう「半グレ集団」みたいなものか。のちに意味が拡大され、物見高くて口さがない連中をさすようになる。また14世紀ごろの体制に対する反逆者である「ばさら」、さらにのちの16世紀から19世紀に世間の注目を浴びる「かぶき者」の系譜にまでつながるようだ。
これまたあらずもがなの連想だが、漢字の研究で有名な故・白川 静・編著『字訓』、『字通』、『字統』によると、「童」の語源は眼の上に入墨をいれることであり刑罰として入墨をほどこされた罪人、受刑者をさす。(刺青と書いていれずみとよむが、これは谷崎潤一郎の小説『刺青(しせい)』に由来する。刑罰とは無関係で体制からの逸脱を志向する心根、ある種かぶき者の精神を暗示する。)上の「たつへん」は元々「辛」だとのことで把っ手のついて大きな針の形をあらわす。この針で入墨をいれるのだ。ここから「児童」という意味が派生したのは受刑者が結髪を許されず髪を垂らしていた習わしに基づくとか。話がますます古典芸能を堪能するコドモから離れてしまった。
当然のことながらこんな暗いイメージは金剛能楽堂で見た10歳前後の観客とは重ならない。現代の京都のコドモたちは全部が全部でないにしても芸術愛好家の風貌をもつようだ。
年少者はおとなにはない鋭い芸術的感性があるのか。なにかしら聖性を読みとりたくなるコドモたち。聖化されたコドモといえば、いまだに完全に消滅していない「七つまでは神のうち」(数え年7歳)という言い草が思い出される。江戸時代、いやそれ以前もそれ以後も医学の未発達や栄養学的知識の貧困のため乳児死亡率が高かった現実を背景に生まれた思考。10歳近くまで育たないことには「ヒト」としての存在を認められなかった。このように年少者たちはいつなんどき現世を去ってカミ・ホトケの世界に帰っていくか知れない。それほど危うい存在なのだと信じられていたことになる。またこの発想には近代のはじめごろまで残存していた間引きという習俗との関連性を無視できない。間引きを決行した理由がどうであれ社会の側が自らの罪意識を弱めるために創作した言い訳でもあるだろう。
わたしの場合、コドモという存在の脆弱さをめぐるこの通念を知ったのは日常的生活の場面ではなかった。たまたま必要があって歴史学者黒田日出男・著『境界の中世 象徴の中世』(1986年)を読んだからだ。第十章「『童』と『翁』—— 日本中世の老人と子どもをめぐって」で黒田は人間のライフ・サイクルの幼少期と老年期はカミ・ホトケ、すなわち彼岸に近接すると解釈する。間引きが原因である場合をふくめ幼くして死亡したコドモは慈愛深いカミ・ホトケの元にカエル(還る)、あるいはカエス(還す)のだと言い習わされたと指摘する。それゆえ(老人は別として)新生児から七、八歳のコドモまで葬式はいっさい出さなかったという。このように幼いコドモが聖なる存在として扱われていたことになる。
しかし巷に流布する聖化されたコドモという概念が批判の的になっていることに最近ようやく気づいた。柴田純の論考「“七つ前は神のうち”は本当か日本幼児史考」(国立歴史民俗博物館研究報告、第141集、2008年3月)がネット上に公開されているのだ。(ちょっと疑問なのは「七つまで」と「七つ前」とでは分別の基準が違うように思える。)著者柴田は広範囲に資料を援用しながらこの信仰めいた概念が近代の産物にすぎないと説く。(2008年ごろはまだM. フーコーの近代科学の思い上がりに対する批判が大いなる影響力をもっていたのかと思うと懐かしい。)「七つ前は神のうち」説は柳田國男が震源地らしい。「七歳になる迄は子供は神さまだと謂って居る地方があります」(「神に代りて来る、『定本柳田国男集』第二十巻、345頁」。この発言はほとんど柳田の憶測に近いと柴田は考える。
柴田が提示する資料によると古代、中世はコドモを社会的に認知していない。近世になると保護の対象として意識され将来社会の構成員とするべく一定の教育をほどこすべきだという考えに転換する。
門外漢のわたしには柴田説が正しいがどうか判断できない。かなり説得力があるような気もするが、2017年1月の現在ネット上の専門家や素人の言説をみるかぎり学会の定説とはいえなさそうだ —— これも素人判断にすぎないが。
柴田説はひとつ疑問に思う点がある。柴田が援用した資料を見るかぎり社会(オトナ)が絶対的主権を発揮してコドモをどう処遇するか、社会の維持発展に貢献させるかを判断している。だが、はたしてコドモがオトナ(社会)の「内部」(理解可能な範囲)に納めきれるのだろうか。オトナには完全には把握しきれない、「外部」というか埒外の存在という側面もあるのではないか。
コドモにはその年齢層特有の感性、現実的価値基準ではわりきれないセンスを身につけているような気がする。ただし上記柴田が指摘する近代の妄想を意識する今となっては「七つまでは神のうち」の発想でコドモを聖化するのは抵抗を感じる。とはいえ能や狂言の観劇時にわたしはコドモには鋭敏なセンサーがあるのではないかと思わせる経験をしている。大槻能能楽堂や大阪能楽堂で二、三度見かけた(祖母と思える女性に伴われた)10歳くらいの小学生も印象的だった。大阪の能舞台ではコドモの観客は少ない。いたとしても舞台自体に興味はなくてなにかほかのインセンティブ(餌?)につられて仕方なく座っているという風情だ。しかし偶然比較的近い席に座っていたこの子は能であれ狂言であれ舞台に対して自発的、積極的に反応していた。たしかにこれは私見にすぎない。憶測以下の単なるあやふやな勘でしかないかもしれない。
わたしのコドモに関する観察のあやふやさは認めよう。たしかに何かを主張するにはサンプルの数が少なすぎる、というより証拠にならないというべきか。
でももう少しこの件に粘着したい。今後の観劇で観客席のコドモの反応を観察しよう。
ポール・クローデル作『繻子の靴』ー8時間耐えたのちの感動とさらなる展開への期待
2016年12月10日ー11日、京都芸術劇場 春秋座(京都市左京区北白川、京都造形芸術大学内)
『繻子の靴』(四日間にわたる物語を描く四幕物)はざっくりいうと道ならぬ恋に燃えた男女(既婚女性ドニャ・プルエーズと未婚の騎士ドン・ロドリッグ)の物語だ。だが並の不倫話ではない。二人の愛は天上の高みをめざす。敬虔なカトリック教徒である二人は肉欲を排し魂の絆を希求する。表題の「繻子の靴」は女が生母マリアに対してプラトニック・ラブに徹することを誓う際に捧げるものでいわば決意表明に相当する。
物語の舞台の地理的スケールも大きく、(15世紀から2世紀にわたり続いた)大航海時代の新旧両大陸とアフリカ、それに日本までふくまれる。時は16世紀末。100年ほど昔にはイベリア半島を800年近く支配していたイスラム勢力に対してスペインのキリスト教徒勢力が勝利をおさめていた。航海術に長けたヨーロッパ列強の中でもとりわけ世界制覇の野望に燃えていたスペインはその失地回復と同時期にコロンブスにより(結果的には)発見された(ヨーロッパ人にとっての)新大陸アメリカで植民地政策を強引に押し進める。
スペインのナショナリズムとカトリックの信仰心が複雑に絡み合い植民地開拓が展開するという変動の時代を背景に二人の男女が必死に肉欲の炎を鎮めながら神の摂理にかなう愛を志向する。
このようにテーマ的に深刻であり観客もそれなりの覚悟がいる『繻子の靴』だ。しかし本公演はあえて全編一挙上演という荒技。なにしろ丸々上演すれば8時間をこえる大作ゆえ上演されても通常「第4日目」をのぞいて大幅に短縮されることが多かった。今回はそれを8時間かけて舞台化された。原作の翻訳および演出を担当した渡邊守章教授をはじめキャスト・スタッフの方々も大変だったことだろう。しかも2日間で全編合計2回上演だ。午前11時開演。途中30分の休憩が3回。午後8時30分終演。
ちなみに演出を担当した渡邊自身の新訳(2005年、岩波未文庫、2巻合計千ページ)を事前に読んでからと考えたもののろくに読みもせずに観劇したわたし。言い訳がましいが、現代劇の、いわゆる対話劇ではなく、いわば主人公二人の信仰告白もどきにしかわたしには思えない。だから事前に読んだところで本公演に対する理解が深まりそうにない。
話を元にもどして、椅子にすわってただ見ていただけの私もしんどかった。第2日目の終了後になって退出しようかと迷ったくらいだ。しかし終演まで残っていてよかったと思う。<彼岸の愛>に燃える男女の物語は二人の魂の救済がほのめかされたように思えたからだ。
劇の結末(第4日目の末尾)でかつてスペイン国王の名代として広大な植民地アメリカを支配したドン・ロドリッグはかれ自身が忠誠を尽くした国王の罠にはまり奴隷の身分に落とされる。かれは俗世の天国と地獄をともに経験したことになる。皮肉なことに絶大な権力をふるった時には実現しないままだったドニャ・プルエーズとの魂の結びつきが権力をすべて剥奪された今ようやく達成される。ただし実質的な保証があるわけではない。そのうえ愛の絆を結ぶべき相手ドニャ・プルエーズはそばにいない。実はすでにこの世の人ではないのだ。この世間的に許されない恋に走った二人の彼岸的絆はかすかに暗示されるにすぎない。
スペインのどこかの浜辺に連れてこられ、ある尼に奴隷として売られたドン・ロドリッグの耳に沖合の艦船から響いてくる大砲の音がかれには救済の証しとなる。というのも生き別れになった(ドニャ・プルエーズが現世で結婚した男との間に生まれたのだが、精神的というか超現世的な意味で)かれら二人の男女のまな娘がカトリックの教えに導かれるスペインの勝利に貢献する海軍軍人と結ばれるのだ。この娘が父ドン・ロドリッグに宛てた手紙がようやく届く。その文面からくだんの砲音が異国人ながらスペインに味方してイスラム勢力と戦う武人の妻となったことを知らせるものだとドン・ロドリッグは納得する(注1)。砲音といっても実は教会音楽っぽいトランペットの聖なる響きだが。これは作者クローデルがこの作品を宗教劇として位置づけているからだろう。
わたしは本作品に関するきちんとした知識も理解もないままに感動しているにすぎないことは承知している。それでもとりあえず感動と思わせていただきたい。
もうひとつ、日は浅いながら茂山狂言に見せられているわたしが劇を最後まで見てよかったと思ったのは第4日目第1場で(第1日目および第2日目で純然たる脇役として登場していた)狂言師茂山七五三(しげやま・しめ)、その長男宗彦(もとひこ)と次男逸平に新たに若手三人。さらに、ひょうきんな少年を結構巧みに演じた造形芸大在学生が加わり、短いながら 狂言師らしい笑いの世界が展開する。(宗彦と逸平が扮した)高慢な科学者2名を小舟に乗せた漁師たちが海上をさまよう。大まじめな科学者の要請に従い漁師らは海底に沈むなにかを引き上げようとしている。船上の話題はおそらく1571年ギリシア西部の海上でオスマン帝国海軍対ローマ教皇やスペインなどの連合海軍との間に勃発したレパントの海戦ことだろう。漁師たちはいたって能天気だ。科学者が執着する真理追究なんかどうでもいいのだ。信仰をないがしろにしがちな科学に対する作者クローデルの批判が反映しているのだろうか。さすが狂言師。笑いの達人ぶりがおみごと。見ているわたしも途中で帰らなくてよかったと思うことしきり。
出演陣は渡邊教授が率いる公演だけあって豪華だ。主役は仕事上渡邊教授と縁の深い元タカラジェンヌ剣幸とこれも教授と関わりのある「演劇集団 円」所属の石井英明。共演者も演劇集団 円や早稲田小劇場など1970年代以降の日本演劇界で活躍してきた役者連が多数。それにくわえて、スクリーン上の映像のみの出演だが、たえず古典芸能の伝統を創造的に超越しつづける野村萬斎(2008年に上演された朗読オラトリオ『繻子の靴』でドン・ロドリッグ役)が出演。また茂山一門の狂言師や能管(横笛)奏者。さらに渡邊教授の教えを受けた京都造形芸術大学在学生と卒業生たち。みなさん、芸達者だ。このように本公演は魅力あるものだった。たとえ上演時間の長さのために観客にとってもかなり心身の負担を強いられた感は否めないとしてもだ。
ところで日本語による『繻子の靴』上演の今後の展開についても私見を述べてみたい。作品に対する理解のないわたしがいうのもはばかられるが、出演者全員日本人でセリフも日本語ならクローデルの原作を大胆に翻案してもいいのではないか。大勢の観客にはフランス演劇やクローデル劇に親しんでいない人も含まれる。それでも今回の公演に関心があって劇場を訪れたわけである。こういう観客にも配慮してほしかった。
こういう注文をつけるとそれは言いがかりだと反論がおこるかもしれない。しかし<創造的逸脱>を得意とする渡邊教授ならこういう大胆不敵かつ繊細な心を反映するような翻案が可能ではないか。なにしろ『渡邊守章評論集 越境する伝統』(ダイヤモンド社、2009年)は名著の誉れ高い。いうまでもなく科学文献ならいざ知らず文学系の著作の翻訳はそっくりそのままのコピーや転写ではありえない。たしかに異質の文化大系間に生じる転換は原本の部分的喪失を伴う危険性がある。と同時に原本に秘められていた未知の可能性を生み出すこともありうるのではないだろうか。
翻訳は二つの言語がかかわる以上、異種の個別的表現媒体(medium)間での転換が生じる。そもそも舞台芸術はすぐれてtransmediaの特質が色濃くあらわれるものだ。舞台上で生身の身体、分析的知性と美的感性が協同して作り出した舞台装置、音楽、映像など多様な文化的、芸術的要素が溶け合う。
とはいえtransmediaというコンセプトにこだわりすぎるのも問題だ。(インターネットの技術の向上と普及を背景に1990年代以降注目を浴びるようになった)サブカルチャーを中心とするtransmedia storytellingまで『繻子の靴』の翻案にもちこむとクローデルという重要な存在が消えてしまいそうな気がする。
そこで今回の公演で渡邊教授がひらいた新境地の学術的、芸術的意義を多としたうえで、教授のお弟子さんたちが幅広い観客層に向けて『繻子の靴』を斬新に翻案し上演していただけることを期待している。たとえば、まず2時間前後の上演時間を設定しておいて古典芸の魚、とりわけ能あるいは狂言に改作する。いうまでもなく能と狂言は国際演劇の開拓に長年献身してきた渡邊教授自身の路線とも重なる。
深刻なテーマをもつ『繻子の靴』を能として上演すれば、能の悲劇性をあいまってますます観客にとって苦痛を強いることが懸念されるかもしれない。だが、能の悲劇性はある種の救いとカタルシスをもたらすことを考えれば、これも考慮にあたいするだろう。
もう一つの翻案の可能性は狂言だ。にわか狂言ファンのわたしとしては、できれば原作のカトリシズムの摂理によりそうテーマを換骨奪胎してほしいと思う。魂のレベルで高貴なドニャ・プルエーズとドン・ロドリッグの彼岸的愛がもたらす苦悩を地面に這いつくばるように生きる庶民のずぶとい感性で笑いのめしてほしい。こういったからといって庶民が粗野で無神経だといいたいのではない。庶民の笑いには他者の苦痛、苦悩に共感するこころが秘められているにちがいないと思うからだ。
(比較的)若手狂言師といえば、ちょっとおすましな東の気風を代表する野村萬斎。それに対してざっくばらんな西の気風を代表する茂山千五郎(去る9月までの旧名「正邦」、茂、宗彦、逸平、童子たち。かれら東西の若手狂言師の多くは渡邊教授が主導する舞台公演にすでに参加している(注2)・(注3)。かれら笑いの手練たちの活躍をぜひ見たいものだ。
注:
(1) この武人(Don Juan d’Autriche、英訳John of Austria)はgoogle.booksで見つけた Barbara Korte他・編、Popular History Now and Then: International Perspectives(2012年、220頁)によると新約『ヨハネ福音書』第1章6節にある「神から遣わされたヨハネという人」と関連づけることができ、救世主としてのイメージをおびているとか。だが、わたしにはこじつけくさい感じがする。
(2) 野村萬斎は2016年10月早稲田大学で「狂言とシェイクスピアの出会い」と題された講演をおこなった。演劇に対する萬斎の熱い思いが伝わってくる。
http://gujinnohitorigoto.cocolog-nifty.com/wakadanna/2016/10/post-e94b.html
(3) 茂山童子は2014年3月渡邊守章による構成・演出で「能ジャンクション『葵上』」および(ポール・クローデル作『繻子の靴』より)「マルティメディア・パフォーマンス『二重の影』」に参加し健闘した。
http://www.k-pac.org/performance/20140329d.html
劇団花吹雪が『ワン・ピースOne Piece』のパロディーを上演すると。。。
市川猿之助が『スーパー歌舞伎 II ワンピース』と題して尾田栄一郎・作manga『ワンピース』を歌舞伎で上演すると知ったときは、冗談かなと思い、無理して若者受けすることないだろうにと不満に感じた。
しかし生の舞台は未見ながら先月(2016年10月)と今月シネマ歌舞伎でこの歌舞伎版を見て当初の考えを改めざるをえなくなった。本来爆発的エネルギー、創造性を内に秘める歌舞伎の可能性を猿之助はみごとに引き出したと思う。さすがスーパー歌舞伎を創造した先代猿之助の後継者だけある。いや、現・当代猿之助は独自の道を着々と歩んでいる。主役ルフィーを演じた猿之助は世間的には若者世代ではないが、冒険心溢れる少年の熱き心を巧みに表現している。
歌舞伎界の中でも未来志向の若手とベテラン出演者陣のなかでとりわけ注目すべきは猿之助と(故・十代目坂東三津五郎の長男)巳之助だ。(劇中で演じた3役のうち)ボン・クレー役で見せたはじけぶりは巳之助の秘めた才能をよく物語っている。今後の成長が楽しみだ。
さてこの歌舞伎版は原作の再現ではない。猿之助は台詞回しをはじめ随所に歌舞伎特有の要素をふんだんにはめこんでいる。さらに歌舞伎役者がおのれの身にしみついた身体所作も舞台効果を盛り上げるのに大いに役立っている。この歌舞伎性が原作では露出していない物語の新たな側面を引き出している。原作のテーマは一応「冒険心と友情の絆」だろうが、歌舞伎版はストレートな賞賛ではない。たしかに今回の脚本と演出担当は横内謙介でありヒューマニズムが舞台の根底にはあるだろう。だが、猿之助たちが舞台に創造する世界は単純な人間讃歌にはならないはずだ。真っ正面からの人間讃歌に対してある種の異化効果というか<ずらし・はずし>をねらっているのではないか。おそらく原作もその大胆にデフォルメした絵柄から判断して表向きのテーマをずらし、はずす意図があるにちがいない。
このような異化効果を生み出す点では歌舞伎外の出演者たちも自分たちの持ち味を生かして歌舞伎役者に見劣りしない(異化効果のある)演技を見せてくれた。かれらの健闘もたたえたい。
前置きが長くなったが、ここから話題が花吹雪に転じる。歌舞伎版『ワンピース』の向うを張って大衆演劇、いやむしろ花吹雪版『ワンピース』を期待したい。本来大衆演劇は大芝居の作品をその本質は保ちながらも制約された予算と小作り舞台に合わせてのいわば翻案して舞台にかけてきた。その伝統的強みを生かして『ワンピース』に挑戦してほしい。原作自体膨大な物語なのでその一部をうまく取り出して上演時間1時間ほどにもとまらないものだろうか。創作力と諧謔精神に溢れる二人座長春之丞・京之介なら可能だと信じたい。
ちなみにキャスト陣のひとり中村隼人だが、私は以前から桜愛之助に似ていると思っている。本作ではルフィー率いる麦わら一味のコック(シェフ)であるサンジとオカマの革命戦士イナズマを演じる。おふたりの写真をご覧いただきたい。(google画像から無断転載。肖像権と著作権の侵害についてはご容赦ねがいたい。)
桜愛之助
大衆演劇 ゲスト公演 その意義を問う
「劇団花吹雪」はその名称どおり公演内容が華やかでウィットに富んでいるのだと最近ようやく気づいた。関西公演があればぜひ観劇を重ねて応援したい思いでいっぱいである。
今月(2016年11月)はわたしにとって足場のいい京橋羅い舞座だ。8日の昼公演を見た。芝居は『千里の虎』、京之介座長がタイトル・ロールtitle roleで主演。物語は一家の親分のお嬢さんをめぐる兄弟分どうしのあつれき。京之介演じる兄貴分の虎は弟分(伍代つかさ)にお嬢さんを譲る。この兄貴分はあくまで親分に忠義を尽くしお嬢さんに対してはプラトニック・ラブで踏みとどまる。実にかっこいい兄貴分を演じる座長の演技は充実している。
本質的にシリアスな芝居だが、随所にこの劇団ならではの笑いをはさみこんでも芝居全体のバランスをくずさない。さすが劇団花吹雪だけあっておみごと。
でも若い役者が多いこの劇団の将来を考えるともうひと工夫するべきではないか。いまや全国区になったといえる「大阪のお笑い」センスをもつ強みを生かす手だてをひねり出してほしいところだ。
たとえば、結末部だが、なにわ節風演歌の響くなかミエをきる虎。憧れのお嬢さんを断念した苦い思いを噛み締める虎の心情はよく伝わる。これはこれで上手な締めくくりだ。
だが正直言っていささか伝統に依拠しすぎという感がいなめない。この結末を虎の秘めたる思いを表出しながらも喜劇的演出できないものか。春之丞と京之介がそれぞれに強みとするお笑いセンスならひと工夫もふた工夫もできると信じたい。
ここから愚痴、不満を少しばかり。ゲスト公演は必要かなと疑っている。大物をよぶ必要があるのか。観客、少なくとも私は「劇団花吹雪」特有の舞台が楽しみなのでせっかくの大物ゲスト出演もただ単に不協和音を生みだすことにしかならない。
ただし11日は(すでに劇団を解散した)伍代孝雄だが、これは劇団との古くからのかかわり合いを考えれば納得しよう。また先々月(9月)神戸新開地劇場で見た『龍馬と近藤と沖田と時々ゴルフ』で無骨ながらユーモラスな近藤勇を怪演した伍代孝雄を思い出すと花吹雪公演に「時々・伍代」というのは観客にとってうれしい。
それから不満をもう一点。伍代つかさは所属劇団が解体して舞台に立つ機会が制限されている事情は理解できる。しかし師匠である伍代孝雄の威光を借りて長期ゲスト出演する根性はいただけない。師匠に対する尊敬の念は失わずにいっそのこと他劇団へ入団することも考えるべきだ。あるいはフリーランスで全国を股にかけることもいい。師匠頼みの心根がいつまでも続くようでは役者として成長しないだろうと危ぶまれる。
野村万作85歳 ー 枯淡の芸
2016年10月15日
万作氏の現在のお姿を拝見したくて観劇。恥ずかしながらこれまで野村父子の生の舞台を見たことがなかった。
はるか昔のこと、TVで万作演じる「釣り狐」を見て喜劇専門だと思い込んでいた狂言がギリシア悲劇そこのけの悲劇を舞台に創造すると知って驚いた。しかしそのときの感動を狂言鑑賞へとつなげなかったのはわれながら情けない。
狂言といえば去る(2016年)7月茂山一門の若手が上演した『おそれいります、シェイクスピアさん』を見て感動。これがきっかけで茂山狂言の関西公演を楽しませてもらっている。
狂言に興味が湧いているわたしは野村狂言が地元で公演するなら見逃すわけにはいかない。
盲人を演じる野村万作が杖をつきながら舞台をめぐるすがたはある種の悟りをえた人間の姿を彷彿させる。僭越ながら「お見事!」と賞賛するしかなかった。わたしには杖のつきかたの軟らかさが印象に残る。人間がセンサーを目一杯働かせて周囲の世界を観察するというのとはまたちがう何かがある。月を愛でる盲人は視覚以外の聴覚で月見の季節を味わう。虫の音を通して深まる秋の風情を丸ごと感じる。みずから身を乗り出して外界を観察するのではない。外界が響かせる風情を素直に、いわば受け身で感受するというべきだろうか。
静謐な境地に達している万作に対して萬斎はまだ上達の道程を歩んでいる最中だ。そういう目で父子を比較すると、お年を召された万作は体がいくぶん小さくなっているように思える。だが、それでも元気はつらつとした息子さんよりもはるかに大きく見える。これも芸道の名人であることの証しなのだろう。
ところで能・狂言について能楽は静のなかに動を秘め、逆に狂言は動のなかに静を秘めるとわたしは勝手に決めつけていた。しかし最近狂言をたてつづけに見るようになって考えを改めた。どちらの芸も「動」と「静」が微妙にないまぜになっている。
とはいえ今回野村父子の狂言を鑑賞して、野村流の狂言は茂山流の芸風と比較すると極論すれば「静」であり茂山流が「動」に思える。そこで勝手な期待だが、野村、茂山両流派の合同公演を見たいと思っている。
大衆演劇もいいのだが、狂言が描く人間世界も魅力に満ちあふれていることにようやく気づいた。視野が広まってきてありがたいことだ。