メトロポリタン・オペラL’amour de loin (『遥かなる愛』) ー「他者」と「過剰性」

Kaija Saaariaho (カイヤ)作曲、Amin Maalouf (アミンマアル)

 台本

20171月下旬上映

 

オペラ鑑賞はまだ不慣れなわたしだが、その華麗さで観客を魅了するメトロポリタン・オペラの映画版を楽しんでいる。毎回キャスト&クルーのレベルの高さもさることながら視覚性に厚く配慮して演劇作品に仕上げようとする姿勢がうれしい。

作曲者が1952年生まれのフィンランド人女性。台本作者が1949年生まれのレバノン人作家。オペラ界ではめずらしいコンビではないかと思われる。

昨年12メトロポリタン歌劇場で上演された『遥かなる愛』の初演は16年前(2000年)ザルツブルグ音楽祭だった。女性作曲家の作品がメトロポリタン・オペラにかけられるのは100年ぶりだそうだ。1903年にイギリス人Ethel Mary Smythの作曲した一幕物『森 (Der Wald)』が上演されたきりだった<1>。また女性指揮者も珍しく(1976年、1996年、2013年につづいて)ようやく4人目でSusanna Mälkki(スサナ・マルッキ、1969年生まれのフィンランド人)が担当<2>。このようにMETの流儀からすると意外な女性芸術家の積極的な抜擢もイタリアやフランスに対抗して世界一のオペラ劇場をめざす劇場総裁ゲルプ氏の変革への強い意志のあらわれなのだろう。

わたしにはオペラというと歌舞伎でさえ俗っぽく思えるほど高等な芸術だという感じがしていた。それなのに粗筋だけ読むと不倫譚などとても高尚とはいえないけっこう猥雑な内容であることが多いと思えてしかたがない。しかしそれが舞台にかかると歌唱と演奏が作品を荘厳の高みへと昇華するから(わたし的には)不思議だ。

『遥かなる愛』は下世話な物語ではけっしてない。むしろ逆に隅から隅まで超現実性、理想主義に彩られている。神々しい愛のためには俗世の幸福をあきらめるし、死でさえ厭わないほどだ。生身の人間であることを忘れて神の領域に踏みこもうという主人公ふたりの姿勢は傲慢ではないかと感じられなくもない。

作品の荘重さは作曲者、台本、演出、その演出にもとづく照明に負うところが大きい。(音楽に無知なわたしはその名さえ知らなかったが、)作曲者サホの芸術的感性を育んだ北欧。北欧神話を連想するほどかの地は神話性豊かな風土だ。ただし同じスカンジナビア半島とはいっても半島の東に位置するフィンランドは西側の三か国(ノールウェイ、スウェーデンデンマーク)とでは民族文化のルーツが異なるらしい。とはいえ広い意味での神話性が色濃いことにちがいはなさそうだ。

作曲と同様に重要な台本。台本作者マアルーフが出会うことがかなわない永遠の恋人どうしの物語を創造した。男、中世ヨーロッパ(現在のフランス南西部に位置し、北大西洋ビスケー湾を臨む)ブレ(Blaye)の領主の世継ぎである。この人物はとりわけ吟遊詩人として有名だ。史実と伝説がないまぜになって今に語り伝えられるJaufré Rudel (ジョフレ・リュデル、演者Eric Owens、ただし去る12月の舞台では一日だけMichael Todd Simpsonが演じた)がその人である 。そして女、(12世紀から13世紀にかけてキリスト教イスラム教間のしのぎを削る戦いのさなか現在のレバノンに位置し「十字軍国家の一部」をなしたトリポリの女伯爵 Clémence(クレマンス、演者Susanna Phillips。二人の橋渡し役を演じる謎めいた「旅人」とよばれる巡礼(演者Tamara Mulford)の三人が此岸では成就せず、彼岸に花咲くであろうと観客に期待させる理想の愛の物語を紡ぐ。永遠の愛は現実的には実現不可能だ。その意味で二人の恋人は互いに現実的次元ではわかり合えない「他者」でありつづけるしかない。

台本作者マアルーフは政治的かつ軍事的に不安定な中東の対立抗争の皺寄せを受けつづけたレバノン出身で1976年以来正式に難民として認定されパリに在住。レバノンではフランス語で教育を受けており、フランスでもフランス語でフィクション、ノンフィクションさらにオペラ台本を手がける作家として長年活躍している。

著作の一部は日本語にも翻訳され高く評価もされている(と思える)。そのうちの一冊『アラブがた十字』(ノンフィクション)は原著上梓の3年後にはや日本語訳が出版されている(牟田口新川雅子、リブロポト、1986年、新版・ちくま学芸文庫、2001年)。地元の図書館から同書を借り出してみた。史実と(著者による)虚構がないまぜになっているのだろうが、(原文を反映しているにちがいない訳文には)朗読される歴史物語のようなリズム感があって眼前に歴史絵巻が展開するようだ。翻訳書の外装の痛み具合から判断して結構多くの読者に愛でられているようだ。

レバノンというあまたの民族と宗教が混在する特殊な状況があるだけに安易な相互理解はむずかしい。というより不可能だろう。現実問題としては(政治的)妥協が不可避だろうが、その一方でそれとは裏腹に「永遠」や「理想」が魂のレベルで重視されるような気がする。レバノン出身のマアルーフが映画版のインタビューで述べたことだが、文化の差異を越えて相互理解に努力するというよりむしろ文化の差異があるからこそ相互理解への道が開けるのだという。人間は皆同じという発想、いわば同一性幻想は虚妄にしかすぎず、「はじめに他者ありき」という覚悟がなければ相互理解はおぼつかないという趣旨ではないか。

マアルーフ自身が使った言い回しではないが、「はじめに他者ありき」とはなんとも重い人間観だし、厄介かつ危険な見方でもある。複雑な宗教構成のレバノンではマアルーフが劇中で暗示する肯定的な意味合いばかりでなく、現実のレバノンでは血なまぐさい武力対立を引き起こしてきたのだ。

そういう「他者」の現実を自ら体験したマアルーフが理想の恋人を求め合う男女を一編のオペラの世界に創造した。想像力豊かな吟遊詩人ジョフレはまだ見ぬ理想の女性クレマンスを心に思い描く。一方、仲介役の「旅人」にジョフレの手になる恋歌を歌って聞かされるクレマンス。純粋に空想の中で自分を恋い慕う男の存在を知って感動し、彼女も真摯な恋の思いにとらわれる。この男女はそれぞれ現実の次元ではかなわない恋愛の虜となる。このような、求めても求められない理想の恋人は自己にとって合理的判断の埒外にある存在、いわば「他者」とならざるをえない。生死を賭けて敵対する危険性のある「他者」とは異なるが、理想化された存在もまた現実的次元の自己とは根本的に異質な他者なのである。ジョフレにとってもクレマンスにとっても求めようとする理想の恋人が他者であるからにはその恋は現世では成就することはかなわない。

さてホとマアルーフが創造した世界を可視化するのがフランス系カナダ人演出家Robert Lepage(ロベール・ルパージュ)による演出プランだ。ルパージュは超現実性を得意とする演出家だが、20102011年ついで20112012年と2シーズンを要したワーグナーの4部作『ニーベルングの指輪』では間口、奥行きともに30メートル前後ある巨大な舞台をほぼ全面的におおう(可動式金属製パネルの組み合わせからなる)「機械仕掛け」を導入。芸術と機械は相容れないと批判も噴出して賛否両論かまびすしかった<注3>

前回は神話特有の超現実性を浮き彫りにしようと観客の度肝を抜くような大掛かりな装置が呼び物だった。生の舞台も映画版も未見でその一部をyoutube動画でしか知らないのだが<注4>、それはまるで宇宙空間をかけめぐる「機動戦士ガンダム」を連想させる装置とも思える。世界のトップクラスの歌手たちが披露する歌唱力とあいまって舞台装置が生み出す視覚的インパクトが半端ではない。観客に印象づけるのはこの巨大な舞台装置が生みだす「過剰」性だ。その強大なエネルギーは舞台という容器から溢れ出さんばかり。

しかし今回の演出は前回、毀誉褒貶相半ばする『ニーベルングの指輪』と比較して「機械仕掛け」は抑制気味だ。それでも過剰性は消しようがない。舞台上に広がる青い光の海。広大無辺であるかのような大海原。過剰そのものが自己主張する海のイメージ。ルパージュは演出の核に超人的愛というか彼岸的愛の物語が展開する時空間をこのような「光の海」で表現する。これは一定のリズムに合わせるかのように明滅する28,000本あまりのLED管で構成されている<注5>。潤沢な制作資金を活用して舞台をめくるめく光の音楽で覆い尽くす。物量にものをいわせ芸術的アイデアを(むしろ肯定的な意味で)蕩尽するかのような演出。今回もまたルパージュは日常性を支配する現実的拘束を振り払って彼岸的愛の成就が期待される天上の高みへと観客を誘う魂胆にちがいない。

過剰性に彩られる舞台は光の海が暗示するように広大無辺あるいは無限の時空間を観客にかいまみさせようとする。(ネット上で公開されている)多くの劇評でも指摘されるように光の海は主役の二人、ジョフレとクレマンスを分断する「距離」を表象する<注6>

かれら二人を隔てる距離は劇中何度か光の海に出現するシーソーに似た架橋が暗示する。この架橋は男女が離ればなれに暮らす海沿いの城郭を表象する。しかし一度だけだが、二人が長さ8メートル足らずの架橋の両端に同時に、しかしたがいに反対方向を向いたままたたずんでいた(グーグル画像を使えばl’amour de loin bridgeなどの検索語で確認できる)。何歩か歩み寄れば手が触れ合う距離だ。それでいながら二人の視線の方向が真逆だというのはかれらを隔てる距離の大きさを表わす象徴的絵柄だ。だがその一方で逆説的でもある。物理的距離の微小さが心理的距離の巨大さに通じるという逆説。

逆説にこだわるようだが、ルパージュの演出ではミクロとマクロの世界のコントラストも印象深い。リズミカルに点滅するLEDライト管の群れは広大な大洋というマクロの世界を表象する。その一方でこの海の光景は光センサー(色・赤色・黄色光タンパク質など)を遺伝的に組み込んだ(たとえば)神経細胞の鎖において信号伝達が展開するさまを可視化したミクロの世界を連想させもする。極小と極大があたかも相互補完の関係を保つかのように並立する。強調される逆説性は日常性を超越した彼岸の愛を歌うこのオペラ作品にはふさわしい逆説だと思える。

ここで一言触れておくべきなのはルパージュの演出プランを効果的に現出させたのがKevin Adams (lighting designer)Lionel Arnould (lightscape image designer)だということ。Adams1962年生まれ)は照明デザイナーとして複数回トニー賞ノミネーションと受賞の栄誉に輝いている。メトロポリタンとの関わりも深い。他方Arnould はカナダ人で主にケベックの演劇界で映像・照明のデザイナーとして活躍しているらしい。2012年『指輪』第4部「神々の黄昏」でvideo image artistとしてメトロポリタンで初仕事をこなしている。

最後に言い訳がましい弁を一言。的確なキャスティングと期待にみごとに応えた歌手たちについてはネット上の劇評を見ても数多く言及されている。わたしは歌唱力や音楽性を適切に批評できないので、ここでは作品のテーマと照明を含む舞台装置が生みだす演劇的視覚性がそのテーマにどう貢献しているかという点にかぎって私見を述べた。

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<注1>

https://www.nytimes.com/2016/09/18/arts/music/with-women-in-command-the-met-opera-addresses-a-gender-gap-kaija-saariaho-amour-de-loin.html

 

https://www.nytimes.com/2016/02/19/arts/design/ethel-m-smyth-opera-composer-met-a-chorus-of-critical-disdain-in-1903.html

 

<注2>

https://www.nytimes.com/2016/09/18/arts/music/with-women-in-command-the-met-opera-addresses-a-gender-gap-kaija-saariaho-amour-de-loin.html

 

<注3>

http://operawire.com/metropolitan-opera-review-2016-17-lamour-de-loin-singer-provide-light-despite-a-strange-dark-moment-in-saariahos-masterpiece/

 

https://bachtrack.com/appraisal-wagner-ring-cycle-robert-lepage-metropolitan-opera

 

https://www.thestar.com/entertainment/2012/05/03/wagners_dream_review_man_meets_machine_at_the_metropolitan_opera.html

 

<注4>

たとえば、https://www.youtube.com/watch?v=xeRwBiu4wfQ

 

<注5>

https://www.nytimes.com/2016/12/02/arts/music/review-met-opera-amour-de-loin-kaija-saariaho.html?_r=0

 

<注6>

http://www.summitdaily.com/explore-summit/metropolitan-opera-hd-broadcast-presents-lamour-de-loin-dec-10-in-breckenridge/

 

http://livedesignonline.com/theatre/bridging-art-and-tech-lamour-de-loin-met#slide-7-field_images-180111

 

<注7> 参考画像:https://www.youtube.com/watch?v=PSSuUAOdC3I