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「一竜座」が見せる舞台芸の妙味 ー ウソとマコトのあわい(間)にある真実

2016年2月6日(土)芝居外題:『唄入り観音経』(大阪 十三・ 木川劇場 )

 

ご存知のとおり『唄入り観音経』の元ネタは浪曲三門 博 (1907-1998) 太平洋戦争会戦前夜の1929年に舞台にかけた作品である。当時の忠君愛国ムードにのって大いに人気を博したそうである。あとで述べる一竜座版のストーリーとはまるでちがい、お尋ね者のヤクザ木鼠吉五郎の人助けが当人の人望につながる話のようだ。ひとりの農夫が村から預かった公金をすり盗られ、せめてもの詫びにと川に身を投げようとする。そこへ吉五郎がたまたま通り合わせて自殺を思いとどまらせる。農民は吉五郎が無事に逃げおおせることを祈って恩返しのつもりで観音経を唱えつづける。これはあくまで私の想像だが、大衆演劇ではこの浪曲をヒントにしていくつかの物語 (sipin-off) ができたのかもしれない。

 

ところで多くの大衆演劇狂言や一部の歌舞伎狂言でも扱われるテーマに「親子の再会」がある。親子といっても大抵は母親と息子との間に生じる別離と再会である。ただしここでいう再会とは(1)ゴッコ(真似事)遊びとしての再会(=仮の再会)あるいは(2)幻想としての再会(=再会の仕損ない)を意味する。

 

後者の典型的な例として『瞼の母』がある。番場の忠太郎にとって母親はかすかな記憶をもとに自分でつくりあげた幻像以外の何ものでもない。忠太郎が恋しい愛しい母に出会えるのは心のなかだけである。おそらく母の場合も同様で彼女の心の中でしか最愛の息子に出会えない。(世間から見れば)ヤクザ者に身を持ち崩した男と離縁され、その後再婚したものの夫に死別して一人で商売を切り盛りしてきた女。こういう男女にはさまざまな世間のしがらみがまといついている。そういうしがらみのせいで二人は大手を振って再会を喜ぶわけにはいかないにちがいない。

 

一竜座による『唄入り観音経』の場合、上記の前者「ゴッコ遊びとしての再会」の一例を見たように思う。

 

芝居のあらすじはこうだ。江戸を遠く離れた鄙びた土地の峠の茶店で婆(白龍)が一人店番をする。セイタという息子(暁 龍馬)がいるが、これが遊び人で母親に小遣いをせびっては博奕三昧の日々。ある日(座長 あおい竜也演じる)旅人(たびにん)吉五郎が一休みしようと茶店に立ち寄る。しばらくして互いの身の上話になる。婆の夫は十数年前まだ幼い長男を連れて江戸に出かけたものの滞在中大火(17世紀半ばの有名な伝説となった「振袖火事」)に見舞われ夫は焼死、長男は行く方知れず。旅人はというと生き別れの母親を探して各地を旅しているという。婆には明かさないが、吉五郎は実は「木鼠吉五郎」というお尋ね者の盗人なのだ。話をするうち婆と吉五郎は相手が探し求める長男であり母であることに気づく。しかし二人ともそのことには触れない。吉五郎は自分がヤクザ者であることを恥じて名を明かさない。追っ手からいつまでも逃げ切れないと覚悟をきめた吉五郎。あてどのない人探しをしても埒があかないことを言い訳にして婆に向かい「仮の親子名のり」をさせてほしいと頼む。吉五郎の内心を察した婆もその頼みを受け入れる。立ち去るにあたって吉五郎は母と再会できれば贈物にしたいと博奕の儲けを少しづつ貯めた金を婆、実は母親に捧げる。婆は婆でこれが根性の別れだと覚悟し、再度生き別れになる長男のの形見として受けとる。その後吉五郎は土地の目明かし(竜美獅童)の温情でその手下となったセイタこと実の弟によって捕縛される。セイタは吉五郎が実の兄だとは知らない。一方吉五郎は長年探し求めた母と仮の形式ながら再会をすませてひとまず安堵している。しかし罪で汚れた身を清める仕事があとに控えていることを承知している吉五郎は後ろ髪を引かれる思いをこらえながら母のもとを去る。

 

私がこの芝居で興味を引かれるのは、生き別れの親子がせっかく出会えたにもかかわらず互いの身の上を明かして「親子名のり」をせずじまいという設定である。自分たちは本当の親子ではないので、これはお互いの寂しさを紛らわす目的でおこなうあくまで「仮の」親子名のりだと口に出していい、そう納得する(ふりをする)。いわば親子名のりゴッコ(=遊び)なのだ。もちろん本当のところ二人とも十数年ぶりにようやく再会できた喜びを分かち合いたい気持ちでいっぱいではある。しかしお尋ね者として逃げまわる長男吉五郎には母のそばにいてやれないという事情がある。母は母で息子の辛い立場を理解せざるをえない。だからこのようなウソの親子名のりでしか二人は愛情を確かめ合うことができないのではないだろうか。吉五郎とその母はたしかに再会してはいる。だが世間の事情をはばかって二人は親子の再会ゴッコで満足するしかない。とはいえ表面ではウソの親子名のりであっても、その実二人にとってマコトの親子名のり以外の何ものでもないのだ。観客は世間がこの親子に強いたゴッコ遊びの悲哀がひしひしひしと伝わってくる。

 

ちなみに、真実はウソとマコトのはざまにしか見いだせないといったのは近松門左衛門 (1653-1725) だといわれている。出典は芸能論「虚実皮膜論」だが、これが近松の著したものだかどうかさだかではない。あくまで(近松より40歳も年少の)儒学者 穂積以貫 (1692-1769) が『難波土産』と題した浄瑠璃評釈書に近松の言葉として記されているだけだ。しかしここでは近松の言葉としておきたい。

 

近松の考えによると、「ある人の云く、今時の人はよくよく理詰めの実 [じつ] らしき事にあらざれば合点せぬ世の中、(略)歌舞伎の役者なども兎角その所作が実事に似たるを上手とす。(略)この論尤ものやうなれども、芸といふ物の真実のいきかたをしらぬ説也。芸といふものは実 [じつ] と虚 [うそ] との皮膜の間にあるもの也」(出典『鑑賞 日本古典文学 第29巻 近松』(角川書店、1975年、346-347頁)。

 

思うに近松は現実を無視して虚構の世界を自由に想像し文章にしていいのだという戯作者(物書き)に許される特権を弁護、近松自身戯作物として自己弁護しているわけではない。世間に評判の座付き作者へと成長していく過程において獲得した信条ではないか。

 

今回観劇した一竜座による『唄入り観音経』でウソとマコトのないまぜになった「親子名のり」をきっかけに拙い言い分を書かせてもらった。

 

<単なるオマケだけど重要> 

木川劇場(大阪市淀川区十三東)付近の美味

木川本町商店街のお店紹介:

★ パン屋さんBäckerei Mika(ベーカリー・ミカ) ー ドイツ・パン製造の技術を生かして水っぽくない食べ応えのあるパンが買える。食パンや塩味コッペパンもいいが、私としては中でも「トスカーナ」(ドイツ・パン、イタリア・パン、どちらでも同名の製品があるらしい)がオススメ。フワフワ、モチモチしているがお腹にずしんとこたえる。お味はたいへん結構。

★ 浜口鮮魚店 ー 三重県の伊勢から毎日近鉄伊勢志摩魚行商組合の貸し切り「近鉄鮮魚列車」で鮮魚を十三まで運んで販売するお店。先日一袋350円で買ったちりめんじゃこは身がたっぷりつまっていてすごくうまかった。水菜、ほうれん草といっしょにごま油で炒めるとおいしい。