国立能楽堂記念行事には「演劇の巨人・渡邊守章」による解説がふさわしかった、残念!
2017年3月11日、国立劇場開場50周年記念行事の一環
能 『昭君(しょうくん)』 観世 銕之丞(観世流)
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3月9日からパリ オペラ座バレエ日本公演(東京文化会館)、歌舞伎座三月大歌舞伎につづき今回上京の最後の楽しみだった能狂言公演。狂言師茂山千五郎、茂山逸平、能楽師観世銕之丞らのプロの技を期待して遠路遥々関西から千駄ヶ谷の国立能楽堂にやってきた。
わたしの頭にはベテラン演者たちのことだけしかなかったので上演前に能楽師・狂言師ではない方の「前説」があることに気づかなかった。開演時間午後1時になり演者が出てくると思いきや現代服姿の御仁が延々半時間にわたってつづくことに。プログラムをよく見なかったわたしが悪いのだが、それにしてもこの解説ならぬ前説はむごかった。
能楽は伝統芸能の中でも最高に色気溢れるものなのだ。華麗な衣装を誇る歌舞伎が形式、内容ともに色気が濃いことはまちがいない。だが、そのいわば直球のイロケに対して能楽のそれは外部に爆発的に放出することなく内に貯めつづけるイロケとでもいおうか。能楽者はそのことを厳しい修練をとおして修得するのだろう。能楽者でなくても能楽を語ろうとするなら聞き手にそういうイロケの片鱗でも感じさせる語り口であるべきだ。
しかしながら今回の前説担当者はまるで蝉の抜け殻みたいに思えた。研究者の卵——そうとしか思えなかった−−がかなり手垢のついた批評用語、たとえば悲劇性、(女性の)驕慢などをもちだしても『昭君』という作品の魅力はなにも見えてこない。キーワードである「鏡」にも言及していたが、話の時間を15分にしぼってこの話題だけで能楽好きにわかる言葉遣いでしゃべればよかったものを。あの内容では研究者でも歓迎しない。実際会場内には長過ぎる前説のあいだずっとうつむいて眠っているみたいな観客がたくさん見受けられた。
退屈な『昭君』論がようやく終わったかと思いきや今度は『濯ぎ川』に話題転換。けれどこの作品には説明名など一切無用。
(いまから思うと過度に)近代精神溢れる=男女平等論者?の劇作家飯沢匡(1909—199年)が1952年に発表した笑劇がネタである。この飯沢の笑劇自体が16世紀フランスの小咄「洗い桶の笑劇 [La Farce du Cuvier]」を元ネタにしている。ほどなくしてその翻案を茂山一門が一遍の狂言に仕上げたらしい。ネットに公開されている研究ノートをみるかぎり (http://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/97/kawanabe.pdf) 『濯ぎ川』は元ネタであるLa Farce du Cuvierそのまんまだ。
学者や研究者とよばれる人たちのなかには学術的にすぐれた人材も多いことは承知している。だが分野に関わらず学術的能力に疑問符のつく人もいる。今回の上演前のお話は「鏡の虚実―能「昭君」の機巧」と題されていたが、固過ぎるタイトルはさておいてもカラクリ仕掛けのおもしろさは見えてこなかった。
『昭君』では「鏡」が重要な役割をはたすだそうだが、能楽郡山宝生流連合会に所属する小原隆夫という方がブログでご自分も出演したこの作品について詞章もあげて詳しく紹介している。
http://www5.plala.or.jp/obara123/u2133syouk.htm#昭 君(しょうくん)
そこにしるされた粗筋は簡潔でいい。いわく、
「昭君」は漢と胡国の和平のため胡国の韓邪将につかわされた昭君の老父母昭君への思いを述べ、昭君が旅立った時に植えた柳が枯れてしまったので、昭君は異国の地で亡くなったのに違いないと涙する。哀れに思った里人が故事にあるように柳を鏡に映して昭君の姿を見るように勧めるので、老父母がその通りにしてみると、美しい昭君の霊と鬼のような韓邪将の霊が映る。やがて韓邪将の霊は鏡に映った自分の姿を恥じて姿を消し、昭君にお姿だけがいつまでも映るという能です。
「鏡」を問題にするならルイス・キャロル作『鏡の国のアリス』などを引き合いに出すと聴衆の関心をかき立てたのではないか。あるいは(生半可な知識で申し訳ないが、)英国の詩人ジョン・ダン(John Donne, 1572-1631年)の恋愛詩「おはよう[The Good-Morrow]」も参考にならないか。その詩にある一節がおもしろい。
僕の顔が君の眼に。君の顔が僕の眼に映る。 二つの顔に貞節な心が宿っているからな。
(湯浅信之 訳『ジョン・ダン全詩集』、1996年)
英語原文はhttps://www.poetryfoundation.org/poems-and-poets/poems/detail/44104。
眼(まなこ)が鏡となる。ダンの詩では恋人どうしだが、『昭君』の場合早世した娘と後に残されたその老父母。幽明界を異にする者どうしがたがいを偲ぶ心が「心の眼」となってたがいの姿を宿しているかもしれない。
ネットに公開するブログは誰かを貶すべきではないのだが、今回はすぐにでもベテランの芸を堪能できるという期待をはずされた恨みが出てしまった。今後は慎みたい。
ちなみに能楽者や研究者がつづる『昭君』論はネットでもいくつか入手できる。
*http://awaya-noh.com/modules/pico2/content0368.html
粟谷明生『昭君』を勤めて--不条理な演出の見直しを—
(平成井23年6月26日 喜多流自主公演にて)
*http://www.hibikinokai.com/2005-2013/guide/syokun.html
*http://aobanokai.exblog.jp/12341972/
*http://choyokaikan.com/noh_plays/japanese/shokun/
1981年03月、小林健二
https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=372...
小林健二 著 - 1981