向田邦子ドラマに見る「生きることの責任」
「白やぎさん」ならぬ「黒やぎさん」からお手紙(てがみ)ついた:ハゲタカ出版社のこと
つい最近のこと某オンライン誌に載った私のペーパー(… the dance of the heavenly maiden)を見て著者に関心を持ったとかで投稿依頼メールが来た。私無名ですけど、何か?と思った私。編集委員会にも参加してほしいとまでのたもう。ここまで言われると私としては当然「コイケ土地路」にならってアラート発令するしかない。誌名はAmerican Journal of Design and Artとある。査読ありとうたいながらその実無審査で高額掲載料をふんだくるインチキ誌かと思いググったところ(学術出版を装った)いわゆるpredatory publisherでは引っかからなかったが、実態はどうなんだろう。当該誌のHPで公開されている最近号の目次によると執筆者は非英語圏の方々が大多数だ。この点は俗にいうハゲタカ出版社の特徴に当てはまる。もう一点掲載費が高い。一本につき850米ドル1万円近いじゃないか。
ここで我が身を振り返る。毎年投稿する(学術)雑誌は学会参加費および(査読で排除される可能性がある)投稿権を合わせて600米ドル。加えて、人の目につきやすい方がいいと考えてopen accessを選ぶので200米ドル加算。800米ドルになって上記の場合と変わらんな。open accessというオプションも学会運営・出版社にとってはいい儲けじゃないか。でも毎回査読のコメントはかなり手厳しいし、自分が査読者となるのもいい経験だと思っている。
さて、ことば遊びめいた成句publish or perishが定着している現状では正規の学会誌と研究者の需給バランスがとれない以上(世界のあちこちではな、なぜか)主として米国?でハゲタカさんが跋扈するのも仕方がないのか。日本人研究者も人ごとではない。とにもかくにも業績を積めというのが至上命題だという弱みにつけ込まれやすいようだ。とりわけ国際競争が激化する一方の医学系で犠牲が出ているとか。エヴィデンスのない論文などすぐばれるじゃないかと素人は思ってしまう。しかしかつてのW大で教育を受けたOB0KATAが起こしたスタップ事件を思い出すと再現不可能な理論と実験結果を恥じらいもなく公表する手合いは後を絶たない。
そういう事情を憂いて日本の大学も研究者に対して警告を発している。 図書館に関する情報ポータル(https://current.ndl.go.jp/node/42063)には「ハゲタカジャーナル・ハゲタカ出版に対する『警戒リスト』『安全リスト』の質的内容分析(文献紹介)」(Posted 2020年9月24日)が掲載されている。
それにしても人はだまされやすいものなのか。1995年の人為的に起こされたソーカル事件は社会的に評価の高い文系批評誌がフェイク論文と見抜けなかったという現実を暴露してしまった。さらにそれから五年あまりでStap不正論文が世界的権威を誇るNature誌をまんまとだましおおせてしまったのだ。真贋の判断が得意そうな学者も必ずしもそうではないということか。
ちなみに、現在注目を浴びている「日本学術会議」問題は経験豊富な学術関係者が能天気に「学問」が無原則、無条件で「自由」であると信じている現実をさらけ出してしまった。キーワードをきちんと定義してから議論に進むのは常識なんだが、白毛のシニアが駄々っ子みたく喚く姿はみっともないったらありゃしない。
動画配信でも楽しめる演芸
コロナ騒動のおかげで講談や浪曲など以前は興味を覚えなかった芸能分野にも目がいくようになってきた。
私の場合近隣には大阪天満宮そば「天満天神繁昌亭」、(天王寺)動物園に近い「動楽亭」(桂ざこばさん主催)、神戸新開地の「喜楽館」、それから阪神千鳥橋駅からほど近い「此花千鳥亭」。
この中でも異色なのは「此花千鳥亭」だ。まだ開場して2年足らずだが、この演芸場を発足させたのは旭堂南龍さんと旭堂小南陵さんら講談師の面々だ。従来関西の演芸場は主として落語を取り上げる。一方講談師が活動できる場は少ない。そういう不満がきっかけでほとんど自前で劇場を設置したらしい。
このお二人が喋る動画がアップされている。
天満天神繁昌亭や此花千鳥亭は動画配信(Zoom、ぴあLive Stream)も提供している。
ネットで外国語映画を楽しむ
能楽と孤高の精神
数年前、能楽に興味を覚え始めた頃DVD『能楽名演集』(NHKエンタープライズ)を一通り視聴して印象深かった演者の一人が十四世喜多六平太(1874-1971年)だった。仕舞「船弁慶」(能楽名演集:仕舞、独吟、一調、舞囃子集)を演じた六平太は随分小柄な人(身長150cmらしい)だが、薙刀を振るう姿は弁慶を思わせ殺気さえ感じられた。上演年はおぼろげな記憶ではたしか1935年ごろだったので六平太は60歳ぐらいか。90歳ごろまで舞台に立たれたそうだから体力的には余裕しゃくしゃくと思えた。大正から昭和にかけて名声をほしいままにした能楽師だったのでそれも当然だろう。
能楽の名人と呼ばれる人は誰もが孤高の人であるわけがないし、六平太も社交嫌いではなかったらしい。弟子に対する指導は厳しくとも愛情溢れる人物だったと想像する。対人関係で一見して孤立を好むのではなく、その精神において孤高の人と言えるのではないか。映像でしか拝見したことがないが、他者を拒絶する雰囲気はなく、厳しく自己を律する凛とした心構えの持ち主であったような気がする。
ちなみに人に対する応対が繊細で和やかな能楽師は現代にもいる。京都能楽界の重鎮の一人某氏も目立って物腰柔らかで笑顔を絶やさず心遣いも細やかだが、その内面には孤高の精神が潜んでいると思えてならない。
話を元にもどして、(能楽師諸氏に関する知識も理解も限られた私だが、)こういう六平太と心構えを同じくする御仁がもう一人いたと思える。それは幕末以前から明治末期まで九州は福岡藩のお抱え喜多流能楽師として活躍し、維新後かつての庇護者を失い苦難の道を歩んだ能楽界で独自の姿勢を貫いた喜多流の梅津只圓(1817年〜1910年)だ。この人物のことはつい最近まで知らなかった。山村修・著『花の他には松ばかり』(檜書店、2006年)で夢野久作が能楽師でもあったという私には意外な事実を教えられた。山村は夢野久作の能楽エッセー「能楽嫌ひの事」にふれて能楽愛好者が必ずしも能楽べったりではないことを指摘する。盲目的な愛は自己本位でしかなく、往々にして対象を見誤る恐れがあると言いたげだ。何かを愛好するにはまず己を律する心構えが不可欠ということだろうか。この点で山村は夢野久作にあい通じる精神を見てとったに違いない。
山村は夢野久作の能の師匠である梅津只圓には言及しないが、この能楽師に興味が湧いて「能楽嫌ひの事」が掲載されている『夢野久作全集』第4巻所収「梅津只圓翁伝」(ネット上の青空文庫に全文掲載済)を読んでみた。そこに描かれる梅津只圓像はあくまで夢野久作の目を通したものには違いない。が、決して師匠の偶像化ではない。偶像化は夢野久作とまるで無縁だ。それでも思春期の頃に親しく接した師匠に対する著者の愛着と尊敬の念は読み手の心に強く響く。
夢野久作の脳裏に刻みつけられた梅津只圓は能楽を「神事」だと理解していたそうだ。夢野は人づてに聞いたこととして次のように記している。能楽は格別神聖な芸能だから「慰みに遣るのなら、ほかの芸を神様に献上しなさい。神様に上ぐる芸は能より他に無い道理がわからんか。下司下郎のお能は下司下郎だけで芝居小舎でゞも演んなさい。神様の前に持って来る事はならぬ」(『夢野久作全集』第4巻、68頁)と主張してやまなかった。梅津翁がいくら能楽は武家の式楽だという観念の中で育ったとはいえ、明治(あるいは大正)の世の中でここまで断言する人はほとんどいなかっただろう。こういう能楽観は武家文化に取り込まれる以前、世阿弥が「世子六十以後申楽談儀」(『新潮古典集成第4巻:世阿弥芸術論集』173頁)冒頭で表明した考えに直結するというべきかもしれない。
能楽が深い意味で「神聖な芸術」だとする考えは戸井田道三が1964年に『能——神と乞食の芸術』(せりか書房で再刊、2000年、41頁)で指摘している。歴史的に見て能が中世において猿楽と呼ばれ、それを演じる(実質上放浪芸人と言える)芸能民が被った社会的差別が蔓延し賎民としての社会的位置付けられたことは事実である。しかしその社会的蔑視こそが逆説的にこういう芸能民を神聖視する結果となったことも否定できない。
ちなみに夢野によると梅津只圓は遠く祖先をたどれば(京都府南部)山城国葛野郡(かどのぐん)梅津(京都市右京区)に住んでいた「歌舞音曲の家柄」だとか(27頁)。
もう一つ余談ながら、こういう逆説の論理が生まれる背景には固定された静的な社会観や歴史観を批判して社会と歴史の動的な性質に注目する、1960年代初め頃に台頭してきた、たとえば網野善彦や山口昌男らが唱え始めた歴史観、社会観があるのではないだろうか。
戸井田は能の中でも神事性の高いものとして特別扱いされる「翁」という演目にまず注目するが、その深遠な聖性が能全体に通じることを見抜いている。「いやしめられる身分の者であったからこそ、逆に神聖なるものに変身しうる社会的な約束が成立していたのであるし、また神聖なるものに変身しうるものとして物をもらうがゆえに卑しめられた、ともいえるであろう。「翁」が能にして能にあらず、といわれるのは、こういう翁のもっている二重性が一方では全ての能に浸透しているからであり、一方ではこれほどあらわに神事的である能はないからである」(『能—神と乞食の芸術』41頁)。
現代の能楽師で能の特権的な神事性を信じた梅津只圓と同じ考えの人っているんだろうか。思うにその数はごく少ないだろうが、外見の現代的柔和さの奥に能楽の神聖さを確信している真摯な心構えの能楽師もきっといるに違いない。
夢野は中学生だった頃に知った梅津翁の意外な面を表す思い出話をして、幼かった自分が老練の能楽師の弱みを握っていくらか溜飲が下がる思いをしているようなくだりが印象に残る(87〜90頁)。老師から謎めいたお使いを言いつかって老師が雷嫌いだと知るのだ。これ以上にもっと意外な梅津翁の人間ぶりを暴露する逸話がある。88歳の頃稽古がすんで急に好々爺になったそうだ。「元気は元気ぢゃが、倅の方が先にお浄土参りしてしまふた。クニャクニャになって詰まらん」と云って門弟連中を絶倒させた。それから赤い頭巾に赤い緞子[筆者注:緞子・どんす=模様を織り出した厚手の生地](であったと思ふ)のチャンチャンコをひっかけて、鳩の杖[筆者注:握りに鳩の飾りのある老人用の杖]を突いて、舞台の宴会場から帰りしなに、「乳呑見たい。乳のまう乳のまう」と七十歳近い老夫人に戯れたりした(98頁)。「梅津只圓翁伝」全体を読んでみると了解してもらえるはずだが、こういう逸話は普段稽古場で厳しくされる弟子が意趣返しのつもりで書いているのとはわけが違う。
70年の年の開きがある老師の人間としての崇高さと同時に人間臭さを見抜く夢野の感性と洞察力は半端ではない。十四世喜多六平太は能楽ファンならご存知だろうが、梅津只圓となると現在の能楽界でも知る人は少ないのではないか。梅津翁の存命中でも(十二世喜多六平太や十四世六平太の本拠であった)東京あたりでは無名の人でしかなく、たまにかつての主君、旧福岡藩主(黒田長知、1838〜1902年)に同行して上京しても辺鄙な九州の田舎能楽師と見下す態度の人が多かったと夢野が「梅津只圓翁伝」で記している(43頁)。偉人は必ずしも世間の注目を浴びるわけではないということだろうか。しかしそれでも夢野久作がそうであったようにそういう存在に気づく人もいる。孤立と孤高は意味が違う。やはり梅津只圓は「孤高の人」であった。
喜多流謡曲指南「夢野久作」の能楽に対するなんとも屈折した思い
最近ネットで洒脱な文章を得意とする山村修さんが書いた簡潔なエッセー形式の謡曲論評『花のほかには松ばかり』(題名は謡曲「道成寺」の詞章にちなむ)の存在を知った。山村さんは序説で稀代の小説(探偵小説?推理小説?)『ドグラ・マグラ』(1935年)の著者夢野久作(生没年:1889年〜1936年)の話をし始める。えっ、能楽がテーマなのになんで夢野久作?私の場合夢野久作は偉大なる作家という漠然とした思いしかなかった。これまで随分と色々な批評家たちがこの作家、とりわけその代表作と言われる『ドグラ・マグラ』の存在意義を褒め称える文章に接してきた私だが、作品自体はい恥ずかしながら一度も読んだことがない。人様の賞賛を読んだだけでお腹いっぱいという思いなのだ。
そんなことはさておき、夢野久作が引き合いに出される言われは彼が杉山萠圓(すぎやま・ほうえん)と名乗って謡曲指南の看板を掲げていた事実にある。多様な遍歴、職歴の人だったから驚くには当たらない。夢野は能楽師でもあった。わずか3歳の頃から祖父(江戸末期の福岡藩士杉山三郎平)に漢籍と能(謡曲と仕舞)の手ほどきを受け、9歳から9年ほどは福岡藩(黒田藩)お抱え能楽師であった梅津只圓(うめづ・しえん、生没年1817〜1910)に教えを乞うた。ちなみにこの人は低迷していた喜多流に新たな命を吹き込むことになる十四世喜多六平太(1874年〜1971年)にとっても十二世喜多六平太と同様に能楽収容において大きな影響を及ぼした人であった。
山村さんは簡単明瞭にという自らの方針のためだろうが、梅津只圓には触れない。あくまで夢野久作と能との関わり合いにこだわる。夢野久作には「謡曲黒白談」と題した結構長いエッセー集(約130頁)がある。彼にとって能は二十歳近くまで稽古を続け、数年の空白期間を挟んで喜多流に背式入門したぐらいだからこだわりがあって当然だろう。だが、1930年前後の九州地区の喜多流の内部事情は複雑だったらしい。そういういきさつが反映したのか「謡曲黒白談」の冒頭には [謡曲嫌ひの事]という項目がある(青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/所収)。次の一節には著者自身の能に対する屈折した思いがうかがわれる。
謡曲の中でも比較的芝居がゝりに出来て居る鉢の木、安宅等ですら、処々三、四行乃至十四行宛[づゝ]要領の得悪 [にく]い文句が挿まって居て、習ふ本人のみならず黒人[クロウト]の先生方でも何だか解からぬまゝ唸って居のが多く、まして其他の曲に到っては全部雑巾の様に古びた黒い寄せ文句で出来上って居るのだから、局外者が聞いて訳が解かり兼ねて面白くないのも尤もな事と思晴れる。(葦書房、1979年、122頁)
山村さんによると、美文調をひけらかすような謡曲の詞章をからかって「つづれ錦」と評してきたそうだ。褒め言葉の真反対だ。[謡曲嫌ひの事]の後には[謡曲の廃物利用の事]と題した小文が続く。私はここまでしか読んでいないのでその範囲内で物申すが、多少ひねっているとはいえ夢野久作の多少ユーモアセンスは嫌味なところがなさそうである。能楽の舞台が、謡曲が好きなのだ。その点で山村さんも同様だ。『花のほかには松ばかり』は25編の能楽ファンにはおなじみの作品が6頁の分量にきちっと納まる作品紹介を兼ねたウィッティーな劇評で構成されていて著者の能楽に対する愛着が感じられる。私には時々もう少し突っ込んで欲しいという不満を感じたりするが、それは読者各自が深堀すればいいだけのこと。劇評に入る前の序説を使って爽やかな筆致で夢野久作の能、謡曲に対するユニークかつ刺激的な態度に目を向けてくれた山村さんには感謝したい。おかげで夢野久作にとって能の師匠であった梅津只圓に対する人物評『梅津只圓翁伝』(1935年、春秋社、全文ネット上の青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/ にあり。冊子体では約百頁。)を読むことができた。この伝記にはまだ完読していない「謡曲黒白談」と共通するに違いない夢野久作独自の能楽観がうかがえる。この点については別稿で述べてみたい。