2018年春、パリ・オペラ座バスティーユに再度新風を吹き込むミルピエ

去る3月下旬(2018年)生まれて初めてパリ・オペラ座を訪れた。バレエとオペラに関してはまだ初心者のファンだが、第一の目的はバンジャマン・ミルピエ(Benjamin Millpied1977年生まれ)が振付を担当した舞台を観るためだ。迂闊にも知らなかったが、日本でも人気のあるマチュー・ガニオオペラ座エトワール)をはじめオペラ座のトップ・スターたちが交代で今回の2本立て公演『ダフニスとクロエ』(ラヴェル作曲、古代ギリシア恋物語に基づく)および『ボレロ』(ラヴェル作曲)の主役にキャスティングされた(2月24日〜3月24日)。

 

配役詳細: https://www.operadeparis.fr/saison-17-18/ballet/benjamin-millepied-maurice-bejart/distribution#head

 

残念ながら私には両演目の従来の振り付けとの差異を論じることはできない。しかし素人目にも舞台の清新さは感じられた。とりわけ男女共衣装は薄い生地ながらも身体を拘束するような伝統的衣装を廃して白を基本カラーに身体をふわりと覆うようなものだったことが印象深い。

<参考動画> 何年版かは不明だが、今回見たのと似ているーhttps://www.youtube.com/watch?v=0_N60WyJcLM

 

素人の勝手な連想にすぎないが、モダン・ダンス生みの親と言われるイサドラ・ダンカン(Isadora Duncan、1877-1927年)を思い出した。

参考サイト:http://www.duncandancers.com/about.html

 

後半では光の三原色、赤、青、緑を少しくすませた色合いの衣装で男女が踊る。

<参考動画>

2018年版?—https://www.youtube.com/watch?v=7KNpshI0T1g

 

こういう衣装のシンプルさがシンプルなストライプを基調にした(現在80歳になる)ダニエル・ビューレンによる舞台美術と相まって情熱に溢れながら清々しい出来栄えになっていた。

<参考動画>

2014年版—http://www.ina.fr/video/5258740_001_030

 

ちなみにフランス語の批評(google翻訳で英語に転換するとかなり読めると思う)は概ね肯定的。だが、英語で書かれた批評を一つ見つけたが、これは辛口だ。世間に広まった名声に見合うだけの仕事ができていないという。

https://www.fjordreview.com/marie-agnes-gillot-paris-opera-ballet/

筆者はJade Larineとあるが、ペンネームだろうか。同名の人がパリ大3大学の比較文学専攻のポスドク(博士号取得後で求職中の研究者の卵)として見つかったが、同一人物かどうか不明。

 

話を元に戻そう。質素、簡素、清新な色調は(突飛なことを言うようだが)チベットの僧侶の衣装や民族衣装を思い起こさせる。

 

このような根拠の薄い連想を元に発言するので誰にも信用されそうにないが、『ダフニスとクロエ』のフィナーレではミルピエ自身がダンサーの一員として参加していて驚いた。やはり彼の踊りはひときわ精彩を放っていたと思う。とりわけミルピエの姿はチベット僧ではないが、どこかの国の<修行僧>に見えた。一部の隙もないほど自己を厳しく律する姿勢が印象に残る。

 

このようにミルピエはダンスの極地を追求する宗教的求道者を思わせる。その点で旧ソ連ウクライナ出身のバレエ・ダンサー、セルゲイ・ポルーニン(Sergei Polunin、1989年生まれ)に似ている。ポルーニンの存在はドキュメンタリ映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』(2016年)で日本にも紹介された。

<参考動画>

https://www.youtube.com/watch?v=FLcSAJq_HSg N. Osipova, S. Polunin - Giselle(6) 24.07.15. Moscow

https://www.youtube.com/watch?v=9eEhkaNRecw 

 

ところでヨーロッパとは必ずしも同質ではないアメリカで伝統的バレエの訓練を積んだミルピエだが、彼の資質が大きく影響してモダン・ダンスへと方向転換したようだ。もちろん伝統的バレエに対する関心と敬意は失ってはいない。このことは彼が2014年アメリカから故国に呼びもどされて伝統志向の強固なパリ・オペラ座のバレエ団芸術監督を引き受けたことからもわかる。また一年余りでその座を退きながらも今回オペラ座バレエ団を振付けた事実にも表れている。

 

ミルピエはフランス、ボルドーの生まれでバレエ・ダンサーだった母の影響で幼少期からバレエを始めている。十代半ばでNew York City Balletに関係があるThe School of American Balletの夏期講習で渡米。フランス流バレエからスタートして彼だが、アメリカン・スタイルに強く引かれたらしい。その後すぐにフランスの奨学金を得てこのバレエ学校に正式留学。まだ10代後半のミルピエだった。1995年、二十歳になる少し前New York City Balletに入団を許可される。それからわずか7年ほどでバレエ団ダンサーの最高位「プリンシパル」(フランスの「エトワール」に相当)を授けられる。

 

それから約10年間バレエ。ダンサーとして活躍する一方で振付けにも情熱を燃やす。彼の活動領域はフランスやスイスのバレエ界、さらにはメトロポリタン・オペラの振付けにも及んだ。おそらく伝統に固執せず新しい地平を切り拓くのを信条とするアメリカのバレエ界からの刺激があって彼本来の創造性が活性化されたにちがいない。

 

成長し進化する彼の創造性は比較的自由で許容性の高いアメリカのバレエ界でさえも息苦しく感じたのだろうか。2011年長年親しんだバレエ団からの退団意思を表明。

 

同年、信頼の置ける仲間たちとL.A. Dance Projectを設立する。モダン・ダンスの未知の領域の開拓に邁進。

 

その輝かしい才能と活躍振りに注目した伝統重視のパリ・オペラ座がミルピエをバレエ団芸術監督という重責を負うポジションに招く。

 

ミルピエも挑戦心を掻き立てられたのだろう、期待に応えるように真摯に努力したもののバレエ団最高幹部諸氏はバレエ団全体を説得できていなかったらしい。結局ミルピエは1年余りで当人にとって無念にも芸術監督退任となった。だがバレエ団全体の意思が彼を支持しなかったのならその立場にとどまる意味がないし開拓精神溢れるミルピエにとっても不幸でしかなかっただろう。

 

現在ミルピエはアメリカにもどりL.A. Dance Projectを続行しており、国外での舞台でもダンサー兼振付師として活躍中だ。

Three Billboards outside Ebbing, Missouri (2017) はただの推理ものではない。

この映画の真価はGolden GlobeやらOscarにノミネートされたり受賞するかどうかという問題とは無関係である。

 

人間失格というべき男に娘をレープされた上殺され、警察は警察で真犯人をあげる能力も意欲もない。映画を観るまで、いやスクリーンに展開する物語の途中までそんな現実に怒れるママ(ミルドレッド)が地元警察を私的に告発し、犯人を追求しようとするリベンジものの映画かと思っていた。

 

題名にある「3枚の看板」にはグズな捜査指揮しかできない警察署長を告発するメッセージがしたためられている。簡潔に、実に簡潔に、しかも名誉毀損で告訴されないよう細心の注意を払った上で出来上がったメッセージ。「致命傷を負わされながらレープされた」、「なのに犯人があげられない」、「どうしてなの、責任者ウィロビー署長殿?」。

 

これからいよいよ女戦士の復讐が始まる!

 

かと思いきや、この映画はエンタメ作品の形式を踏まえながらもお手軽なモラルが一切通用しない世界を描いている。そこが面白いと思う。

 

この3枚の看板は主人公の家のそばに立っているのだが、そこは人も車も滅多に通らないとんでもない町外れなのだ。とはいえ告発対象の警察は意識せざるをえない。

 

真犯人を見つけ出せという母の訴えを伝える看板は地元のコミュニティ、アメリカ社会、いやそれどころか人間の実態、実相を断片的ながらも照らし出す効果を発揮する。

 

主人公の思いがこもる3枚の看板はそれ自体が重要なのではなく人間の姿をあぶり出す一種の<触媒>の働きをしている。つまりレープ・殺人犯をつきとめることが映画の主題などではない。

 

作品を貫徹する本筋というべきものが意図的に避けられている。だからたとえば某映画批評は的外れに思える。曰く「物語中心主義の作品は、あらすじの紹介だけでもネタバレのリスクを伴う」。この作品は「物語中心主義」とは対極にある。ネタバレの心配は皆無である。

 

もはや娘を殺された母の復讐譚にとどまってはいない。社会的正義という姑息なイデオロギーでは把握できない多面的、複層的な人間性がちらほら見えてくる。

 

南部の保守的人間像はリアルな描写ではなくあくまでカリカチュアなのだ。無教育な貧乏白人の住む地域だから極端な差別意識や偏見が人間性のかけらもない犯罪を生み出すのだとこの映画は主張するわけではない。このようなプア・ホワイト像はアメリカ社会ばかりでなく全世界に広まってしまった通念、いや薄っぺらな認識に過ぎない。そんな見方では人間の実像は見えない。

 

ステレオタイプ化した認識や価値観は社会というか世間に定着しやすい。誰しも楽チンに知識を得たいものだ。だがそういう認識や価値観と称されるものにはかなりの程度嘘が混じることが多い。物事の真相を突き詰めようとすれば一面的見方を避けて多角的に見るべきだろう。人間世界の有様は割れたガラスのギザギザになった断面みたいに実にとらえどころのないものだどいう気がする。

 

主人公もプア・ホワイトの一人だ。しかしある面ではプア・ホワイト的価値観に挑戦せざるをえない状況にいる。孤軍奮闘する女戦士のイメージとはほど遠い。そもそも主人公の家庭生活は順調ではない。崩壊寸前というべきか。夫は家族を捨て小娘を愛人にして別居。母親の元にいる息子も両親に対して微妙な態度をとる。そして後に殺害される娘の生前の姿がフラッシュ・バックで映し出されるが、母親との関係は険悪だ。十代の子どもに全責任を負わせられないにしてもいわゆる「ビッチbitch」の予備軍だ。

 

本作の監督Martin McDonagh (1970年生まれ、英国とアイルランドの市民権を保持)映画脚本、監督であると同時に劇作家としても活躍するだけあってテーマに対するアプローチが一面的ではない。当然Deus ex machine(機械仕掛けから登場する神)よろしく登場人物の誰かがなんお前触れもなく突然絶対的権威、権力を発揮して紛糾する事態を一挙に解決することがない。さすが手練れの作家だけのことはある。

 

主人公はNew Yorker誌の映画評 https://www.newyorker.com/culture/culture-desk/the-feel-good-fallacies-of-three-billboards-outside-ebbing-missouri での指摘とはちがって「女Rambo」とは描かれていないない。Ramboなら決意は変わらないはずだ。ところが結末でかつて娘の殺害者捜査をめぐって仇敵の関係にあったディクソン元警官とともに真犯人に見立てたアイダホ在住の男を成敗に向かう車中で抹殺する決意が揺らいでいることがわかる。印象に残るエンディングだ。これではRamboになれない。

 

欧米、ことにアメリカ社会ではRamboといえばまともな教育も受けず差別意識や偏見まみれの下層階級の象徴みたいなイメージでとらえられる。いくつか英米の映画評を読んだが、Ramboに負けず劣らずの偏見まみれのディクソン警官を否定的、それどころか除去すれば作品自体がかなりましになるとまで主張する向きもある。

<見本> “Why Three Billboards Outside Ebbing, Missouri is so controversial” https://hellogiggles.com/news/why-three-billboards-outside-ebbing-missouri-controversial/

“How Three Billboards went from film fest darling to awards-season controversy” https://www.vox.com/2018/1/19/16878018/three-billboards-controversy-racist-sam-rockwell-redemption-flannery-oconnor

 

しかしこういう視点からの映画評は批評の自滅につながりかねない気がする。というのも作品中の価値観、とりわけモラルや政治観を完全無欠な聖人のそれで断罪するのは納得しかねる。極端な理想主義的平和主義、平等主義などで「人間」を語れるものかどうか疑わしい。

 

ちなみに昨今の日本では権力を批判するのが正しい道だという<偏見>がまかり通っているように思える。権力の座にいる誰でもいい誰かさんを<悪者>にする。ほとんど<スケープ・ゴート>ごっこ遊びでしかない。

 

人間はもっともっと複雑怪奇だ。膵臓癌で余命短いことが原因で自殺するウィロビー署長の後任として登場する頼り甲斐がありそうな黒人男性も南部の偏見まみれの田舎町の不正を断固正すというようなヒーローとは描かれない。

 

人間の多面性に鋭い視線を向けるこの映画の魅力の一つはシリアスとコミカルな側面が同居する点だ。息子を高校まで送ってきた主人公の車に発泡ドリンクを投げつけた犯人と疑える高校生男女の股間を蹴り上げる主人公。

 

またアイロニーも効いている。たとえば署長が法秩序の維持に関心がないだめ警官ディクソン宛の遺書で「法執行者」は人を愛する心が肝心だと愛の功徳を説くくだり。こんな形で人を愛せよと説かれてもはいそうですかと返せないはずだ。

 

もう一つ純粋なアイロニーというより若干暖かい理解の心がこもるアイロニー。様々な意味で差別意識まみれの警官ディクソンが実はホモセクシュアルであることがほのめかされるのが所長の訃報を聞いて先輩警官と抱き合って泣く場面。監督の人物描写は複層的で面白い。

 

このように映画が描き出す危機的状況で垣間見える人間の多面性こそこの映画の魅力だといえる。

 

魅力はもう一つある。The Last Rose of Summerアイルランド民謡『庭の千草』)をはじめとする劇中歌だ。私には未知のカントリー・シンガーTownes van Zandtの歌うBuckskin Stallion Bluesが印象に残る。https://www.youtube.com/watch?v=zJN5W-EreVs

劇中歌一覧はこちら:

https://www.tunefind.com/movie/three-billboards-outside-ebbing-missouri-2017 (曲の冒頭部分のみ視聴可能)

ソプラノ歌手Renee Flemingが歌う The Last Rose of Summer

https://www.youtube.com/watch?v=OzYUvAytrgI

劇中歌全部まとめたサントラ:https://www.youtube.com/watch?v=h4EfNhK4Ep0

 

ただしこのような終始物語の背景に流れる一見牧歌的な音楽は「保守的な南部」特有の文化、感性にいかにもぴったりだとして挿入されているのではないと思われる。こういう牧歌性は映画に頻出する暴力性にまったくそぐわない。牧歌的音楽はいわば不協和音を生じさせる働きをする。あえて異質のものを並存させることで「南部」に関するステレオタイプなものの見方に疑問を提起しているに違いない。通念に異議を唱えることは一種の異化効果だ。観客に従来とは異質の認識を促している。

 

最後に余談めいた話だが、脚本の元ネタにもなったらしい現実の事件がある。場所は同じミズーリ州の田舎町Holts Summit。2003年のこと、Marianne Asher-Chapmanの娘Angie(作中の少女と同名だが年齢は20代前半の既婚者)が突然行方不明に。当初Angieの夫が妻は男と駆け落ちしたと主張。後に自分が誤って妻をベランダから転落させたが、それはあくまで事故だと主張する。Angieは転落死したという。突然のことに判断力を失った夫は妻の遺骸を遠く離れた川に運んで沈めたと主張する。裁判の結果懲役7年だったが、4年後に釈放される。

 

一方遺体の所在は謎のまま。母Marianneは娘の生存の可能性に一縷の望みを失わずにいるそうだ。

<参考サイト> “Two billboards outside Holt Summit, Missouri: the true story” https://www.theaustralian.com.au/arts/in-depth/oscars/two-billboards-outside-holt-summit-missouri-the-true-story/news-story/135867a3ac066b4c0bd1e8e2f2a73d08 https://www.youtube.com/watch?v=IL76oS6CdiE http://www.news.com.au/lifestyle/real-life/news-life/meet-the-reallife-mother-behind-the-heartbreaking-three-billboards-story/news-story/99659bd632a1bacb57e8c0a6ed7cd6ed?from=rss-basic

パリで見たハイテク活用の人形劇

2018年3月下旬パリに1週間滞在。

 

ホテルの近所にあるカフェで朝食をとっていて店のそばにある人形劇場の看板が窓越しに見えた。興味が湧いて劇場をのぞいて見たが、公演時間帯でないので扉が閉まったまま。

 

そこでネット検索したところ通例の人形劇ではなく様々な物体を生き物、生命体に見立てるかなり実験的な舞台作りをしているらしい。 会場はLe Théâtre Mouffetard (住所73 rue Mouffetard, 75005 Paris) http://lemouffetard.com/

 

24日(土)の席がとれ会場へ出向いてびっくり。来場者の大半は10歳未満と思える子どもと少数の付き添いの大人。この作品は数年前からフランス 各地で上演されていて子どもたちに大人気らしい。

 

もっと驚いたのは最初中国系フランス 人かと思えた人形使い?の女性が冒頭で日本語を話したことだ。 航空機の機内放送などでよくあるように電磁波を発するスマホなど電子機器はこれから始まるショーで使う機器を狂わせるおそれがあるので電源オフにするように私以外全員フランス 人と思える観客に日本語で注意する。

 

えッ!観客は日本語を理解できるの?そんなことありえない。 案の定誰もその警告を行動に移さなかった。

 

後日このショーを考案し演出するMathieu Enderlin氏がネットで公開している文章を見てもここで日本語を使う必然性にはまったく触れていなかった。人形劇を楽しむつもりの子どもにもあるだろう予定調和的な感覚を崩して未知の世界を新鮮な目で楽しんでほしいという演出家や演者の期待がこめられているのだろうか。

 

私が見た演目はCubix。Cubeといえば正六面体。ちょうどサイコロの形だ。この英単語の複数形はcubicsだが、それをオシャレ?に変形させてcubixかな。

 

ちなみに cubix というと15年ほど前に製作され海外でも評判になった日本初のアニメ『さいころボット コンボック』(英語題名はCubix: Robots for Everyone)を連想させるが、関係なさそう。

 

実際舞台で使われたのは1辺が10センチくらいのサイコロ状もので、それを二人の女性が数十個随時並べ替えたりしながら光のマジックのようなことをして見せるショーだ。Cubicというサイコロ型のパペット(?)の群を操るのが日仏のご両人、望月康代 (Yasuyo Mochizuki) とオーレリ・デュマレ(Aurélie Dumaret)。(デュマレさんは頭を丸刈りにしているので男性かと思ってしまった。)

 

1時間ほどの舞台。複数のcubicがスクリーンになっているのか淡い色が現れたりする。とりわけ興味を引くのが舞台に立っている二人の女性の顔がそれぞれ20個前後のcubicにくっきり映る。一部のcubicを外すとその部分は背景の黒幕が見えるだけ。二人は百面相ぽい表情で観客の子どもたちを喜ばせる。最後にキュービックでいびつな形の塔を組み上げる。微妙な安定を保つ塔。塔の構成要素cubicをいくつか抜いて見せ観客をハラハラさせたりする。ゲームでありそうな積木くづしみたいなものか。こういう具合で人形劇よりマジック・ショーに近い。

 

言葉で説明するより過去の同様の内容の公演がいいとこ取りで3分間だけyoutubeで見れるのでぜひご覧いただきたい。 “CUBiX Teaser” https://www.youtube.com/watch?v=jfKSTk3b0aw

 

場内の子どもたちには大受け。しょっちゅう笑い声が響いた。 サイコロ型cubic群に投影される鮮明な映像がどういう仕掛けで現れるのか当初わからなかったが、後面投影 (rear projection) 映写技術を利用しているにちがいない。後面投影は映写機の位置がスクリーンの全面、つまり観客の側ではなくスクリーンの背後なのだ。最近よく見かけるがビルの壁面とか窓ガラスをスクリーン代わりにコマーシャルなどのビデオが映し出される。あれと同じだろう。

後面投影参考サイト: https://www.e-tamaya.co.jp/html/faq/projector/503.html http://theaterhouse.co.jp/p_rear/item_top.html#film-list

 

ただ舞台で使われていたのは大型スクリーンなどでない。先に書いたように1辺が10センチ程度の手のひらに乗るサイズのサイコロである。公演の規模から推測して高価な仕掛けを使うとは考えられない。

 

ネット検索で知ったのだが、厚手のトレーシング・ペーパーだとクリアな映像を写すスクリーンになるそうだ。トレーシング・ペーパーだと安く購入できるし、細工もしやすい。

スクリーンの素材参考サイト: https://nichibun.net/case/project/index.php

 

しかしスクリーンの役目を果たすにはほとんど厚みのないものでないと後面投影される映像が映らないのじゃないか。ところが立体的に組み立てたトレーシング・ペーパーが後面投影のスクリーンとしてりっぱに機能することが次のyoutube動画で納得できる。 「リアプロジェクションマッピングを試した【トレーシングスクリーン】」 https://www.youtube.com/watch?v=7ojzRUCpXWQ

1分24秒の時点で現れる高層建築らしい立体物に後方から投影される映像がくっきり映し出されている。

 

一見高度なテクノロジーが随分身近な場面で(おそらく)安価に効果的な映像効果、いや舞台効果を生み出しているではないか。

 

私の無知を自覚させられたことはさておいてハイテクが演劇の進化に役立っている。今時の子どもたちはそれを当然のこととして受け入れているようだ。

 

しかし考えてみれば、後面投影の技術は随分前から屋内、屋外を問わず大規模なコンサートなどでも利用されている。我が身の物知らずぶりが恥ずかしい。

大衆演劇界ではおそらく日本一の人気劇団「都若丸劇団」を久しぶりに観劇

2018年3月、大阪は羅い舞座 京橋劇場。

 

久しぶりの若丸劇団、その人気は衰えていない。千秋楽前日の29日大入り4枚。今月の観客動員数1万五千だと豪語するのも当然か。

 

劇団の(かつての)芸達者ぶりは認める。でも個人的にはそこそこの出来具合のTVお笑い番組的内容を繰り返しているだけだと思えてきてここ数年遠ざかっていた。

 

前回見てから5年以上経過しているので正直言って座員の皆さんは成長したというか老けてきている。また座員の子供さんたちがいい意味で成長して舞台に立つようになっているではないか。

 

この劇団全体としての芸の成長のなさのせいか、かつてのパワーが感じられない。ここ10年ばかり全国区の人気劇団の一つとして活躍してきたようだが、進化がない。みなさんの動き、所作がこわばってきているように思える。

 

10年余り前のこと、当時住んでいた静岡県は浜松から岐阜葵劇場へ。そこで見た都星矢さんの色気オーラはすごかった。お花をつけずにおれなかった。

 

だが、その後もしばらく放たれていたこのオーラがもはや感じられない。踊りの所作が硬い、筋肉の動きでしかない。

 

今回の観劇で一番気になったのは芝居(劇団御得意の『泥棒道中』)で見せる座長の言葉遊びがいただけない。面白くない。以前より明らかに劣化している。スラップスティック芸も同様にだめ。なのにしつこく繰り返す。

 

ここで思い出すのがドリフターズの言葉として身体を使ったお笑い芸のレベルの高さ。準備段階で積み重ねた高度な知的操作は一切感じさせずにあっさりと上質のお笑いを提供するいかりや長介率いるドリフはいまでも世界に誇れる。 またそれを幼稚園児や小学生がそれなりに理解した上で笑うという日本のコドモの高度な知的センス。 1980年代のテレビ文化は優れていたのだろう。

 

いや今もその伝統は消滅したわけではない。『クレヨンしんちゃん』の風刺精神をまだ小学校にも上がらないコドモが察知し、作者に代表されるある種のオトナと共有しているではないか。ただし大多数の大衆は別である。風刺の心を理解しない。

 

現在の若丸劇団ファンは日頃なんとなくTVを見ていて、現在の劣化したTV文化に馴染んでしまっているので若ちゃんのギャグ程度で喜んでしまうのではないか。

 

若丸座長の踊りは齢を重ねているせいで以前より一層踊りの所作が硬くなっている。 座長の舞踊に比べてキャプテン城太郎さんの踊りは(日本舞踊とは何の関わりもないにしても)動きが柔らかくて見苦しくない。

 

最近の若丸劇団は「ブラフ(はったり)が多すぎる」という人もいるが、それどころか、はったりさえないに等しい。単におもろくないだけ。 よその劇団はこの劇団を真似たらダメだ。学ぶところ1ミリもない。それぞれ自分で業界でのサバイバル策を練るしかない。

 

「ブラフ」ですらもゼロの証拠はというと、 劇中(『泥棒道中』)で剛さん演じる商人は商売の資金を懐に旅の途上。この商人は地元で悪名高い泥棒(若丸座長)にまといつかれて困っている。そこでこの泥棒をなんとかまこうと相手の注意をそらしてそのすきに逃げようとする。 商人は遠くのほうを指差して「馬と鹿が喧嘩してる」とかなんとか泥棒の関心をよそに向けようとする。ここではとりあえず成功するも泥棒はすぐ追いついてきて自分のことを「ばか」にしたなと商人をなじる。このくだり聞いてる観客も辛い。アホらしすぎる。千年前のギャグかいな。小学生にもバカにされる。このレベルのギャグもどきが頻出。痛すぎです。 ドリフのリーダーいかりやさんなら激怒するレベルだ。

 

トップクラスの劇団がこの有様では大衆演劇界で生き残れる劇団もその数がますます減ってきているのかと心寂しくなる。

 

劇団荒城が関西に進出できないものかと個人的には思ったりする。

(短期、長期にかかわらず)パリ滞在者にとってコスパの高い公共交通乗り放題パ定期券

2018年3月下旬の1週間にわたる今度の旅行はパリ・オペラ座Palais GarnierとOpéra Bastille)でバレエとオペラを見るのが目的だった。滞在中市内を経済的かつ楽に移動したいとピタパやスイカみたいのものがないかとネット検索して「パリヴィジット」に行き当たる。

 

<ネット情報> PARIS VISITE(パリヴィジット)は、 海外旅行者を対象としているカードで、決められた区域(ZONE ゾーン) を運行する地下鉄・バスなどの公共の交通機関が、全て1枚で乗り放題となるチケットです。 チケットは1日券から5日間券までがあります。 このチケットは加えて美術館や博物館など主要観光スポットで入場料が割引となる観光特典もつきます。http://paris-travel.amary-amary.com/c_trafic/parisvisite.php

料金:

<ネット情報>

①ゾーン ZONE 1-3(注記:パリ市内中心部) 1日間券 12€(子供 6€) 2日間券 19,5€(子供 9,75€) 3日間券 26,65€ (子供 13,3€) 5日間券 38,35€ (子供 19,15€)

②ゾーン ZONE 1-5(注記:パリ市内中心部とその周辺部を含む。観光客でもZONE 1-5は大抵行き来するはず) 1日間券 25,25€(子供 12,6€) 2日間券 38,35€ (子供 19,15€) 3日間券 53,75€(子供 26,85€) 5日間券 65,8€ (子供 32,9€) http://jams-parisfrance.com/info/metroparisien_tarifs/ https://www.ratp.fr/en/titres-et-tarifs/paris-visite-travel-pass

 

出発前からZONE 1-3の範囲で使える5日間券 38,35€ (子供 19,15€)を選ぼうと決めていた。そこで パリの玄関口CDG空港で構内のSNCF( Société nationale des chemins de fer françaisフランス国鉄) 切符売り場へ向かう。入り口付近にはSNCF公式ガイドらしき人たちが数人いる。あるガイドさんから耳寄りな情報。Paris VisiteよりNavigo Découverteナビゴ・デクベ(「デクベルト」とは聞こえない)の方がお得だという。前者が38,35€ かかるのに対して22,80€と安い。

 

耳で聞いただけだから条件付き乗り放題パスNavigo Découverteの綴も意味も不明のままだった。(navigoはラテン語由来のイタリア語動詞navigare [英語のnavigate]の一人称単数現在形らしい。découverteは「発見」の意味するので「我は未知の領域を冒険する」てなことか。)切符売り場のカンターでさっき教えてもらったばかりの乗車定期券(la carteの一種だから乗車カードか?)の名称を口真似して購入。代金22,80€のうち5€はカード本体の料金。1週間なり1ヶ月の期限が切れたら各駅のチケット自販機でクレジット・カードや現金でrechargeできる。参照サイト:http://www.hitoriparis.com/benri/navigo.html(操作方法の画像付きでわかりやすい)

http://www.insidr.paris/paris-tips/paris-navigo-pass-jp

 

<ネット情報>

NAVIGOの週間パス“SEMAINE(スメーヌ)”は大変お得なチケットですが、購入と有効期間には注意が必要です。 これは有効となる期間が「月曜日から日曜日まで」と定められていて、日曜日から月曜日に跨って利用する事は出来ません。例えば「水曜日から翌週火曜日まで」という使い方は出来ず、その場合は月曜日から新たなチケットが必要となります。 近郊列車にも乗れる。NAVIGO SEMAINEは、ゾーン1~5のメトロやRERの他、RER(Réseau express régional d'Île-de-France、イル=ド=フランス地域圏急行鉄道網)以外のフランス国鉄SNCFにも乗る事が出来ます。https://pianotohikouki.com/NAVIGO-SEMAINE/Decouverte/Paris-Metro.html(このサイトは乗車パスの画像もあって有益だが、2016年7月に記されているので料金が改定前だ。)

 

一方こちらのパリ交通公団(Régie Autonome des Transports Parisiens、略称RATP)の英語版サイトでは最新料金がわかる。 https://www.ratp.fr/en/titres-et-tarifs/navigo-monthly-and-weekly-travel-passes

 

繰り返しになるが、(月曜日から日曜日までの)ウィークリー・パス22,80€。

 

もう一点注意を要するのは(上記のサイトなどで触れているように)Navigo DécouverteはID用写真(約3x 2.5cm)1枚が必要だ。パスを購入して切符売場の外でもホテルでもパスの指定箇所に勝手に貼り付け、署名をする。ただし鉄道会社は一切確認などしない。雑誌や広告から他人の写真を盗用しても自分と一見似てそうな極東系の同性人物なら問題なさそうだと思う。ひょっとしたら全然似ていなくても駅員がいちいち点検するわけでなし、パスを改札口の機械にタッチさせるだけだ。こういう詐欺まがいのことはしない方がいいだろうが。

 

日本出国前にこの写真を用意するのがベスト。わたしは用意していなかったのでどこで写真を調達すればいいのかと切符売場で尋ねたところどの駅にもある(日本のスピード写真に相当する)Photomatonで撮れとのこと。料金は5ユーロ。

 

あいにく付近に設置されている2台のPhotomatonは故障中。スクリーンにタッチしても反応しない。そのうち1台は5ユーロ札を飲み込んだきり吐き出さない。パリに着いた途端に損した。

 

そばにいたさっきとは別のガイドにきくと次の駅へ行けとのこと。切符を買わなきゃいけないし、おまけにそこでも故障中かもしれない。そこで再度切符売場で尋ねてみる。するとこの階より二階上に「あるらしい」が保証はしかねると言う返事。あっても故障中かもと不安に思いながらもようやく発見。人目につきにくいので利用者が少ないのかPhotomatonは正常に作動。結局写真1枚入手するのに倍額の10ユーロもかかってしまった。

 

そんなこんなで空港到着後知らぬ間に2時間余りが経過してしまうという始末。しょっぱなからトラブってばかりでこれからのパリ1週間滞在が心配になってくる。時間は午後8時。

 

さてようやく入手したパスで予定通りRERとよばれる急行列車でリュクサンブール駅までいき、そこから15分かけて東にあるホテルまで歩くつもりだったが、すでに日はとっぷりくれている。定期券購入でトラブってかなり疲れた。

 

ちなみに、当分パリ再訪の予定はないので中古の「Navigo Découverteナビゴ・デクベ」(本体のみ、要チャージ)をメルカリとラクマ で売りに出している。送料込み五百円。

 

以下は定期券と無関係なおまけ。

 

リュクサンブール駅はかのリュクサンブール公園Le Jardin du Luxembourgの東端。パリ第6区にあり17世紀に造園された有名な場所だ。それに公園の東側にはエリート養成の高校、(パリ)大学などが点在。カルチェ・ラタンQuartier latinとよびならわされる学生街、知識人街の中心部だ。

 

それはさておきタクシーを見つけてホテル名を告げたが、歩いても5分だからと運転手には儲けが少ないと考えたのだろうか、実質上乗車拒否にあう。

 

仕方がないのでなんども道をききながら20分くらいかけてホテルに到着。

 

こういう時こそスマホの道案内があればいいのだが、翌日になってからネットでは評判のいいFree Mobileブランドのsim(30ユーロ、4千円)を購入予定だったのでこの時点ではスマホは役立たず。 このsimは実店舗で買ったが、店員さんが丁寧に指導してくれたので入店後10分くらいでネットに接続できた。助かった。

 

話変わってパリ市内の印象はというと物乞いが多い。ネット新聞によると人数ではニューヨークをしのぐとか。地下鉄の構内で大男の老人(白人)が床に這いつくばるようにして小銭を乞うているのには驚いたし、痛々しい。また地下鉄構内の座席で寝袋にくるまって寝ている人を何人も見かけた。食べ物はどうするんだろう。構内を出入りするには切符がいるし。。。

神戸能楽界

今年の正月に夙川にある能楽堂「瓦照苑」(上田同門会所属)を初めて訪問し、舞初めを観劇。自宅から30分あまりの距離なのでこれからしょっちゅう訪れたいと思っていた。

 

最近この能楽堂と縁つづきの能楽師を薬剤師の資格がらみで(下品に)非難するツイッターを見てしまって複雑な心境になっている。

 

このツイッター主はかなり偏執的にほぼ同じ内容の非難をくりかえしているので投稿内容がどの程度事実かどうか判断できかねる。

 

とはいえ虚偽なら法的手段も含めて対抗処置をすべきだが、そういう様子はなさそうだ。確かに相手にする値打ちもない単なるデタラメな非難なのかもしれない。

 

確かにツイッターの投稿回数は多いものの世間は無視しているので能楽界も相手にしないのかもしれない。

 

しかし頻繁に投稿されるツイッターの内容はある1点で共通しているので上田同門会としては見過ごすべきだはないと思える。非難の矛先は観世流にも及んでいる。

 

たまたまこツイッターに出くわした人が、(神戸)能楽界に偏見を持つようにならないかと恐れる。

 

こういう現状を考慮すると是非とも上田同門会と縁つづきの重鎮大倉源次郎氏が采配をふるってウチとソトの非を正し、(神戸)能楽界の名誉を守ってほしい。

神戸能楽界

今年の正月に夙川にある能楽堂「瓦照苑」(上田同門会所属)を初めて訪問し、舞初めを観劇。自宅から30分あまりの距離なのでこれからしょっちゅう訪れたいと思っていた。

 

最近この能楽堂と縁つづきの能楽師を(下品に)非難するツイッターを見てしまって複雑な心境になっている。

 

このツイッター主はかなり偏執的にほぼ同じ内容の非難をくりかえしているので投稿内容がどの程度事実かどうか判断できかねる。

 

とはいえ虚偽なら法的手段も含めて対抗処置をすべきだが、そういう様子はなさそうだ。確かに相手にする値打ちもない単なるデタラメな非難なのかもしれない。

 

確かにツイッターの投稿回数は多いものの世間は無視しているので能楽界も相手にしないのかもしれない。

 

しかし頻繁に投稿されるツイッターの内容はある1点で共通しているので上田同門会としては見過ごすべきだはないと思える。非難の矛先は観世流にも及んでいる。

 

たまたまこツイッターに出くわした人が、(神戸)能楽界に偏見を持つようにならないかと恐れる。

 

こういう現状を考慮すると是非とも上田同門会と縁つづきの重鎮大倉源次郎氏が采配をふるって(神戸)能楽界の名誉を守ってほしい。