知らなかった!若手狂言方がこんなに才気煥発とは

花形狂言『おそれいります、シェイクスピアさん』

2016年7月18日、兵庫県立芸術文化センター

 

 ここ数年歌舞伎界の若手(20ー30代)の活躍ぶりは目を見張らせるものがあると常々思っている。が、伝統芸能のひとつ狂言界も若手(30ちょいからアラフォー)が意気盛んだとはうかつにも知らなかった。自分にとって母語である関西弁(出演者が京都生れの面々だから正確には京都弁か)であり、狂言方(=狂言方能楽師)として笑いの身体表現に長けた演者たちの巧みな演技に魅されて2時間あまりの上演時間がまたたくまに過ぎてしまった。狂言の舞台に接したのは数年ぶり。実に楽しかった。

 今回出演した狂言師ユニットは大蔵流の若手たちだ。構成メンバーは茂山宗彦・逸平兄弟、茂山正邦 (今年9月「十四世茂山千五郎」襲名予定)、茂山茂、茂山童子。外題からして剽軽さが感じられて私としては観劇前から期待感を募らせる。上演内容といっても常識的な意味でのかっちりきまった物語の展開があるわけではない。観客の眼前に緩やかに引かれた線上をシェイクスピアの代表作、『ハムレット』、『ロミオとジュリエット』や『真夏の夜の夢』などの断片が横断していく。ウイットのきいた言葉の応酬とそれを身体化する狂言方。器用さにのみ頼る芸ではなく若手ながら鍛錬を積んではじめて習得できる芸を見せてもらった。

 チラシによると16年前(2000年)に茂山宗彦・逸平兄弟がふたりだけで同じ趣旨の(想像するに内容的にはずっとシンプルな)作品が上演されたそうだ。初演時も今回も「わかぎ ゑふ」が演出を担当。わかぎ ゑふといえば女優、演出家、劇作家として長年関西の演劇界で活躍している人だ。この名前に接するのも何十年ぶり。彼女は2004年に急逝した中島らもが1986年に旗揚げした「笑殺軍団リリパットアーミー」に参加していた。現在リリパットアーミー II(ツー)の主催者として中島の遺志を引き継ぎ発展させているらしい。5人の若手狂言方の芸は賞賛に値するが、わかぎ ゑふの演出力にも脱帽する。

 芝居のはじまりは「シェイクスピアさん」役の茂山宗彦とこのシェイクスピアさんが創作した名作『ハムレット』の主人公役をつとめる弟・逸平のなんともいえないおかしみを誘う問答だ。ハムレット』の台本を書き始めたシェイクスピアさんは気が乗らないのか筆が進まず困っている。困るのは作者だけでなく中途半端に命を与えられた登場人物、ハムレットも同じ。なんとか作者シェイクスピアさんを奮起させようと苦労するハムレットさん。しかし登場人物一人では強いインパクトを与えられないと気づき、仲間の登場人物さんたちの強力を求める。茂山正邦 、茂山茂そして茂山童子が加わり作者を説得しにかかる。

 まず自分たちがシェイクスピアさんの想像力が生んだ正真正銘の登場人物であることを証明しようと『ロミオとジュリエット』から名場面だけをよりすぐって実演する。ハムレットの恋人オフィーリアを女形で演じる茂さんの奇妙な色気には感服した。メンバー中一番年少の童子さん軽やかさはおシャレの一語に尽きる。最後に最年長の正邦さんは重厚なひょうきんさで他を圧倒している。蓮の葉の雨傘をさして「トトロ」の着ぐるみに身を包んだ姿は傑作だ。会場は爆笑の渦。それにこの人声がよく通り、しかも美しい。狂言方の発声のよさには歌舞伎役者はかなわないだろう。しまいにはシェイクスピアさんもヤル気を出す。

 本作はここでヒネリをきかしていいて登場人物のハムレットが原稿用紙に次々字を埋めていく設定になっている。ということは登場人物は作者の想像力の単なる産物ではなく作者と足並みをそろえてともに現実とは異次元の世界を生きるということなのだろうか。現実と虚構の二元論をつきくずそうという演者と演出家の意気込みが伝わってくるようで興味深い。

 こういう設定は不条理劇の始祖とみなされたりする(イタリアの劇作家)Luigi Pirandello (1867-1936年)を思い起こさせる。とくに『作者を探す六人の登場人物』(1921年)と関連づけたくなる。かれら6人の登場人物は活躍できるはずの芝居が没になって居場所を失っているのだ。作者の姿が見当たらないので仕方なく劇団の座長や俳優たちを相手に交渉をはじめるわけである。常識的に接点を共有しないはずの虚構と現実が入り交じる奇妙さ、滑稽さ。それは笑いを超えて深刻な問題にまで発展しかねないという危うさ。

 今回の狂言仕立ての芝居も大いなる笑いにちょっぴり存在の不安めいたものが混じり込んでいるような気もする。

 演者5人はそれぞれが狂言の枠を超えて活躍している。とかく歌舞伎や能の陰になりがちな狂言、将来を担う若手にとって狂言を外から見直す機会は今後の狂言の発展にとって重要だろう。ちなみにご承知のとおり狂言方能楽師和泉流野村萬斎(1966年生れ)は若い頃から伝統芸能以外の分野でも大活躍。萬斎の場合ご本人の才能と創意工夫も高く評価できるが、東京を中心に活動しているせいでマスコミで広くとりあげられてきたこともその存在感を強めるのに役立っているだろう。

 そこで関西狂言の若手を応援する新参者としては茂山一党に積極的に公演回数をふやしてほしいと願う。でも公演には自己資金ばかりでなく多額の(公的・私的)援助金が必要なのだろう。狂言界は歌舞伎と違って自由にできる資金が潤沢ではないのかもしれない。ということはわれわれ観客がチケット代が高いとぼやかずに財布のひもを緩めるしかなさそうだ。

 

 私事ながらこの久しぶりの狂言との再会を機に生の舞台を積極的に見にいこうと心に決めた。さっそくネットで8月と10月のチケットを入手。8月6日は「納涼茂山狂言祭2016 大阪公演」(大阪能楽堂)と10月2日「茂山狂言会特別公演」(大槻能楽堂)。ベテランと若手の茂山一党の舞台が今から楽しみだ。

ジャ・ジャンクー 監督最新作『山河ノスタルジア』(原題『山河故人』)は歴史的時間を超越している

ただし題名が「悠久不変の自然こそわが旧友(故人=旧友)」だという意味らしい『山河故人』なのだからというのではない。悠久の歴史を誇る中国という俗説にのっかって歴史の超越うんぬんというのとは違う意味だ。私にはこの映画を通して歴史が展開する現実世界とは異次元の世界をかいま見た気がする。適当な言い回しが思い当たらなくて自分でいらだってしまうが、physicalとは真逆のある種spiritualななにかを感じてしまう。ジャンクー監督は人と人とのかかわり合いについて一種の実験的な視点を提示しているのではないだろうか。

日本語や英語の映画評を見てもどれも中国が対面している急激な変化にもかかわらず雄大な山河が不変であるように人間の情愛も変わらず、夫婦ではなく母と子の愛情は永遠不滅だという。これだと耳タコの平板すぎる人間観になってしまう。

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(上のポスターはhttp://ent.qq.com/a/20151029/000831.htm から無断借用)

 

さて前半の舞台は監督自身の故郷でもある中国北部山西省汾陽市に設定されている。地方の小都市 の典型というところか。主人公は二十歳を少し過ぎたばかりのひとりの女(学校教師タオ)とふたりの男(炭坑夫リャンズと資本主義の魅力とりつかれ起業家をめざすジンシェン)だ。幼なじみかどうかわからないが仲良し3人組。

20世紀最後の1999年を皮切りに2014年、次いで2025年の3期に分けてこの3人組の四半世紀にわたる人生が描かれる。国際ビジネスで米ドルをどっさり手に入れようと上昇志向満々の自信家ジンシェンは何事にも控えめなリャンズを出し抜いてタオと結婚してしまう。失意のリャンズは故郷を捨てて遠い町の鉱山に仕事を求める。タオはリャンズのことを気にかけながらもジンシェンとの結婚生活に喜びを見いだしやがて男児を出産。成金根性を恥じない父親は息子をダラー(Dollar)と名づける始末。しかしダラーが十歳になるかならないうちに夫婦は破局を迎え、相当な慰謝料を得たものの妻・母のタオはダラーの親権をとれずにひとり去る。父と子はビジネスの拡大をもくろんで上海に転居しそこで父と子そして新しい妻・母の3人家族ができる。息子は将来国際的に活躍できるようにと当地で英語教育を実施するインターナショナル・スクールに入学させられる。年月は瞬く間にすぎ、タオをたっての頼みを聞き入れたジンシェンは14歳になったダラーを生母タオの元に一時的に赴かせる。だが、ダラーにとって現在の母がほんとうの母であり、生母タオは見知らぬおばさんでしかない。生母にそっけない態度のダラー。そればかりか生母を「おかあさん」でなく「マミー(Mommy)」とよぶ実の息子にショックを受けるタオ。

それからさらに11年が経過。舞台はオーストラリの某市。ビジネス・チャンスに恵まれつづけるジンシェンが息子と二人暮らす。再婚した妻の姿はない。しかし父と子に会話がなりたたない。父は英語が話せず、息子はとうに中国語を忘れている。タブレットを手にグーグル翻訳でようやく話が通じるという皮肉な状況が出来上がっているのだ。

父に反発する息子ダラーは英語学校の中年女性教師ミヤにひょんなきっかけから恋愛感情をいだくようになる。この女性教師がどことなくタオに似ている。まさにミヤはタオの面影を彷彿させる。それにまた彼女が父の管理から逃れたい気持ちを理解してくれることもダラーの彼女に対する淡い恋心の芽生えに関係しているようにも思える。

一方タオは離婚後20年あまりたつ現在もひとり住まいのままだ。しかし結末近くでダラーが遠い外国で母に似た女性と時をすごしているダラーの思いを実母タオが察知したかのように思わせる場面が映し出される。かつてのつかの間の息子との逢瀬でタオが心づくしの水餃子を食べさせた。あれから11年。ふたたび母は息子の来訪を待ちわびるように水餃子をつくる。水餃子が大写しになる。母の顔はどことなく息子との再会に心を弾ませているように見える。永遠の絆でつながれている母子の関係をそれとなく暗示的にカメラが映し出す。現実的な感覚でいえば、この第二の再会は実現不可能だ。だが、時空を超えた次元ではおこりうることなのだ。

もうひとつこの映画で気になるのはタオをはじめ主人公たちが十年、二十年を年月の経過に応じた自然な老化を感じさせないことである。某サイトによるとメークは映画界で国際的に『活躍するメークアップ・アーティスト橋本申二のおかげでわざとらしくない「自然な」老けをみせたらしい。だが私には人物の老化がほとんど目立たないのは監督の意図だと思える。山河という大自然と同様、人間の「魂」のレベルでは何十年たとうが深い絆はほどけないことを監督は訴えているにちがいない。

ただし息子ダラーは少年期と青年期は別々の俳優が演じている。これは彼がほとんど一緒にくらした記憶のない生母タオとの絆を浮かび上がらせるためだ。彼の魂のレベルでの成長が父に反逆し生母との縁にいつとはなしに気づき明確な自覚なしに思慕の情を募らせるようすを視覚化する工夫がされていると思える。

 

山河は不変であり、永遠にわが旧友に思えるのと同じく魂どうしが結び合わされた人間と人間の絆は不変である。ただしここでいう「人間」は人間一般ではない。選ばれた気高い魂の持主にかぎられる。いかにジャンクー監督の故国が中華人民共和国とはいえ、悪しきポピュリズムpopulismをここには適用できない。たしかに万民の幸福をうたうポピュリスムは耳に心地よい。人間、あるがままが最高!なら宗教も芸術も無用だ。歴史が証明してきたようにポピュリズムの金看板をかかげたイデオロギーは早晩滅びる。個々人の魂は個々人が磨くしかない。魂同士の絆。怪しいカルトの妄言とは違う意味でこの魂の絆はspiritualな次元でしか実現しないのだろう。

 

ちなみにジャ・ジャンクー (Jia Zhangke) 監督作品『山河故人』は英語題名が Mountains May Depart)だが、あちこちのサイトでもそのように指摘されている。

この題名の典拠は旧約聖書にあるイザヤ書第54章第10節に由来する。

「『たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから映らず、わたしの平和の契約はうごかない』とあなたをあわれむ主は仰せられる。」

この箇所は英語圏でもっとも信頼される英訳聖書、『欽定聖書King James Bible』の場合こうだ。

Isaiah 54:10

For the mountains shall depart, and the hills be removed; but my kindness shall not depart from thee, neither shall the covenant of my peace be removed, saith the LORD that hath mercy on thee.

 

次のジャンクー監督作品はDVDがレンタル可能:

『長江哀歌』2004年

『無用』2007年

四川のうた』2008年

 

余談:

前述のとおり成人したダラーと記憶にほとんど残らぬ実母タオをつなぐのは英語教師ミヤだが、その役を演じたのは台湾出身で台湾ならびに中国の映画界で活躍しているSylvia Chang。62歳の彼女はジャーナリスト桜井よしこ氏(70歳)に似ている。驚いた。

 

 

「劇団 悠」快進撃

メンバーが入れ替わってもパワーが下がるどころか逆に向上している。うれしい!

去る3月末頃このブログで高橋茂紀と嵐山錦之助が一時的にせよ抜けるとせっかく盛り上がってきた集団のパワーが弱体化すると書いてしまった。これは杞憂にすぎなかった。前言撤回。座長を初め座員一人ひとりが力伸ばしている。

 

特筆すべきは長縄龍郎の活躍だ。日にち毎日の舞台で輝いている。この劇団には「高橋しげこ・ショー」に加えて「長縄りゅうこ・ショー」が人気出し物となっている。やがて展開するはずの「しげこ」対「「りゅうこ」の流血必死のバトルが楽しみだ。

 

それから和(かず)・さおりが先月ひと月大阪を離れている間にめざましい成長をとげた。スゴイ役者根性!開演前の観客席で贈物のバッグをいっぱい手に提げている彼女の姿を見ていて私までうれしくなる。もっと高価な贈物、着物までプレゼントされていた。頼もしいファンができてきているのだ。

 

さらにもう一人忘れてはならないのが駿河染二郎。エンターテイナーとして歌も芝居もプロの芸を見せる染二郎。『化け猫』が上演された5月8日はフィナーレで「大殺陣、羅生門」。座員全員の殺陣が決まっていたが、なかでも当日ゲスト出演のプロの殺陣師さんを相手にした染二郎の殺陣が光っていた。

 

常任座員ではないが、竹内春樹も注目に値する。今月は彼の存在感が大きいように思う。舞踊で見せる任侠姿の男っぷりが冴えている。お花もつく。女性客の心をとらえているにちがいない。

 

ちなみに高橋茂紀と嵐山錦之助は現在身を置くそれぞれの居場所で健闘している。このふたりが劇団 悠がもどってくれば、今度はまた新たな磁場が創成されていっそうのパワーアップが期待できる。

劇団「時遊」は精神的に即刻自立すべき — 人(Waka-maru)頼みは自滅をまねく

2016年4月、大阪十三「遊楽館」

「時遊」は3年前の大阪公演(梅南座、名生座)で見て以来久しぶりだ。劇団「絆」(錦 蓮座長)と合同公演だった。口上挨拶が楽しかったことが記憶に残る。ようやく近くに来たのだから行ってみる気になった。

 

4月9日(土)『三下剣法』(弱虫男が苦い経験を通して自立する悲劇)

弱虫の百姓男、松(座長烏丸遊也)が強い男になりたくてある梵天親分(都川 純)のもとでヤクザ修行をするが、挫折し帰郷。ところが気の強い母にもう一度やり直してこいと追い出されてしかたなく元の一家にもどる。しかし松の留守中、病気ですっかりにらみのきかなくなった梵天親分の一家は対立する鮫津(ゲスト? 甲斐浩志)の一家に今にも乗っとられる危機を迎えている。まず松の兄貴分(ゲスト 優木 誠)が謀殺される。その後梵天親分とそのひとり娘およね(雲母坂美遊 [きららざか・みゆ])もだまし討ちにかけられる。そこへ嫌々もどる松。弱虫根性はあいかわらずだが、おたおたしながら鮫津一家ともみあううちに偶然にも親分一家の仇討ちに成功。ようやく任侠心が芽生えてくる。

 

気の弱い主人公「松」役の座長は自分の外見を効果的に生かして好演。しかしこの座長より落ち目のヤクザを演じた都川 純演技力はすごい。演技のスタイルが古いのなんのというような批判をこえたレベルで名役者とよぶにふさわしい。

 

4月10日(日)『黒潮の兄妹』(性根の腐りきった女、人の子の母親でもあるこの女が原因で心根のやさしいその子どもたち(兄と妹)が命を失う暗黒悲劇)

貧しい漁村。寡婦のツネばあさん(十 川流 [つなし・せんりゅう])は寄る年波からか昔のように男漁りこそ しなくなったもののあいかわらず身持ちが悪い。日にち毎日飲んだくれている。ツネは娘オシン(雲母坂美遊)に男でも辛い灯台(江戸時代のよび名は「灯明台」トウミョウダイ)の番人の仕事をさせ、稼いだ金を酒代にと巻き上げるありさま。親様の名にあたいしない輩である。飲み代ほしさに土地の代貸(都川 純)が代官まで抱きこんで仕組んだ悪巧みに加担する。この悪巧みとは毎年上浜と下浜のふたつの集団からなる地元の漁師たちが漁業の優先権を賭けて夜間に競争をするらしい。安全航行の頼りになる灯台の存在意義は大きい。その際、代貸に都合の悪い、つまり儲け話にならない集団(上浜か下浜か失念)が先に浜に近づいた場合は灯台の火を消して難破(水死)させようというのだ。そうすれば二千両だかの大金が代貸の懐に入る算段。そこでツネばあさんが親の権威で灯台の番人をつとめる娘を説き伏せて明かりを消せばすべて策略どおりになり、礼金をツネにくれてやるというのだ。ツネは二つ返事で引き受ける。

 

やがて主人公シンタロウが登場。この男、実はオシンの兄でツネの息子である。シンタロウはツネの死んだ亭主の考えで捨て子を拾って嫌々育てたという事情があってもともとツネはシンタロウを嫌っている。父親の死後性根の悪い「母親」ツネを嫌ってシンタロウは出奔し渡世人になっている。ハハとムスコの関係は最悪。帰ってきたムスコは邪魔者でしかない。ツネは両の金儲けのことで頭がいっぱい。帰郷してもいづらくなったシンタロウは再度旅烏にもどろうと家を出る。ところがツネは自分で競争のなりゆきに応じて灯台の明かりを操作しようと娘オシンから灯台の番小屋の鍵を奪いとる。その後代貸の手先(優木 誠)が企みの邪魔者であるオシンに傷を負わせて番小屋に近づけなくする。血を流しながらもオシンは番小屋へ。シンタロウも異変に気づき、番小屋へ駆けつける。そこで妹(オシン)とツネに出くわす。隙をねらってツネはシンタロウを刀で刺す。深手を負いながらもシンタロウは血のつながらないうえに母性愛もない性悪女なら親様ではないと言い訳してツネを殺す。妹が息絶えたことを知って絶望したシンタロウが自害する。善人がふたりとも死んでしまうという救いのない悲劇だ。

 

都川 純はいつもながら名演技。今回は新しい発見が。私が知るかぎりいつも十 川流はセリフの少ない脇役だったが、この日は違った。性悪な人間をみごとに演じきっていた。芝居がうまい!都川 純に比較できるほどの芸達者なのだ。この果てしなく暗い悲劇を重厚な作品にする功績は都川 純と十 川流にある。座長はまだこのふたりにかなわない。

 

ちなみに雲母坂美遊も芝居上手だ。男女とも若手は大概セリフと顔の表情が連動しない。顔に芝居らしい表現が出てこないことがほとんどだ。だが雲母坂美遊は表情が豊かに変化する。

 

こういうぐあいに劇団「時遊」が芝居上手だと褒めたうえでひとついいたいことがある。座長が芸の面で都若丸に直結していないにもかかわらず、なぜことさらに「若丸一門」を口にするのか理解できない。「ミックス・ジュース」の猿マネなどもってほほかだ。

 

都若丸のおじである都川 純は(人づてに聞いたにすぎないが)若丸に時代劇演出のツボを伝授した御仁なので若丸を話題にするのは理解できる。しかし座長は若丸に恩を売ったわけではない。母の夫であったらしい都川 純を接点に若丸と関係づけられるに過ぎない。(個人的に思うのだが、TVのバラエティー・ショーの延長線上にあるにすぎない都若丸劇団をモデルにしてどういう意味があるのか。たいして数も多くない手持ちのパターンをリピートしているだけの都若丸劇団に将来はない。)

 

烏丸遊也は劇団「時遊」の座長としての矜持をもつべきだ。自分の芸の手本とできるベテラン役者ふたり(都川 純と十 川流)がそばにいるではないか。それに芸の習得に熱心な雲母坂美遊もいる。(すでに退団したらしい 川咲 碧がいれば劇団にとっていっそう好ましいと私は思うのだが。)人頼みの根性は腰が引けていることを世間にばらすようなものではないか。マイナスになるだけ。

 

それにしても、いや人頼みの根性だからか、大阪で集客できないことにもっと危機感を覚えるべきだ。認知度が低すぎ。

 

それからもうひとつの疑問。今月だけのゲストとはいえ優木 誠(元・見海堂劇団「笑泰夢」座長)に芝居でもっと重要な役を振るべきだ。

 

ちなみにむすこさんである「専務なおや」も6年ぶりか。2010年当時静岡県浜松市に住んでいたが、地元の劇場「浜松健康センター バーデン バーデン」で優木 誠親子の舞台を見たことがある。あのころは専務なおや君も就学前で今は小学6年生かな。京娘の舞踊が達者で感心した。

 

劇団「時遊」よ、誇りをもて!

 

<予定外題など>

4月14日 『新吾捕物帳』

4月15日 特別ゲスト「松山勘十郎」一座(「大衆プロレス」だとか。松山勘十郎のツイッターをご覧あれ:https://twitter.com/kanjyuro_osaka?lang=ja

4月16日 『新月桂川

 

 

 

 

間断なく流動する時空間の万華鏡 ー 劇団 新感線『乱鶯』

観劇:2016年3月26日、新橋演舞場

 

長年日本の現代演劇の最前線を走りつづける「新感線」だが、私の場合今回が初めての観劇体験だ。ただ、新感線を代表するいのうえ ひでのり(演出)と中島かずき(脚本)がかれらの異才を発揮した歌舞伎NEXT阿弖流為』(2015年10月、大阪公演)を見ているのでまったく未知の世界ではない。

 

現在の新感線はメンバー構成が特異である。上演ごとに劇団内部と外部が合同する。1980年に旗揚げ五2000年ごろまでは純粋に所属メンバーだけで公演活動していたようだ。しかし人気が高まるにつれ上演形態が変化し、劇団外部から異才を放つ俳優やタレントを招いて劇団員との混成部隊を編成するようになった。(私が見た唯一の新感線作品)阿弖流為(私が見た唯一の新感線系作品)は劇団人気作のひとつらしい。この作品は新感線独自の斬新なアイデアと(市川染五郎中村勘九郎七之助ら)歌舞伎界の精鋭が発揮した演技力の結合だった。

 

さて新感線の舞台に大いに興味があってチケットを購入した。それともうひとつ理由がある。稲森いずみの成長というか変身ぶりをみたいと思った。私はTVドラマ『ロングバケーション』(1996年)以外、稲森の活動は知らない。リアルタイムから8年遅れくらいでDVDで『ロンバケ』を見て「モモちゃん」役の稲森のズレ方、はずし方が気に入っていた。あれから20年、あのときの魅力がどう進化したのか興味津々。新感線を代表する個性派役者、古田新太とガチに組んで引けをとらない演技には魅せられた。(とはいうもののTV出演を数多くこなす古田が自分だけ浮いてしまわないテクニックを学んできたことも関係しているかもしれない。)また稲森は今回が新感線の舞台が初めてではない。2009年に『蛮幽鬼』で古田と共演しているそうだ。この作品は動画におさめられ「ゲキ X シネ」シリーズの一環として5月27日神戸三宮にある神戸国際松竹で上映予定なのでぜひ見たい。 

 

新橋演舞場のキャパは1,400あまり。週末だけに入りがいい。いや週末だからじゃなく絶大な人気を誇る新感線だから観客が詰めかけたというべきだろう。それに観客の顔ぶれもいわゆる歌舞伎と比べて格段に若い。ついでに大衆演劇と比べてみても新感線ファンの観客層は子どもどころか孫の世代である。

 

私の席は3階右翼、貧乏席?という人も。正直なところ同じ価格帯でも左翼にすべきだったと悔やんでいる。浅知恵を働かせて右翼席なら花道を出入りする役者がよく見えると期待してしまった。ところが『乱鶯』は登場人物たちが舞台上手で絡み合う場面が多かったのだ。そのためかれらの姿は見えないし、劇場の構造に問題があるのかセリフが聞きとりにくかった。おもしろそうなやりとりが足下の不可視かつ聴取しにくいの空間で進められるはめになり残念だった。

       

上演時間は休憩をのぞいても3時間あまり。舞台上で数多くの登場人物たちの口から膨大な量の言葉の群れが溢れ出す。口ばかりでなくかれらの身体からも無言のうちに言葉が果てしなく放散される。こういう言葉の洪水に飲み込まれて観客は息つく暇もないという状態だったという記憶が残る。

 

セリフのとちりなど私は気づかなかった。だれもトチらなかったのかもしれないが。ネット上の観劇記などによると開幕直後はセリフのいい間違いがあったとか。だが開幕からすでに3週間が過ぎ出演者もかなりなれてきたのか、みなさん滑らかなセリフ回しだった気がする。

 

私には登場人物のセリフも動きも実になめらかだったという印象が強い。アップテンポで進行するで登場人物同士の複雑な絡み合いが生み出す人間模様はまるで万華鏡の像を思わせる。千変万化する幻影。劇の進行に連れて次々に現れる幻想の絵模様。これから先の展開を心待ちにしてワクワクせずにおれない。

 

遅まきながら新感線のスタイルを知りたくて中島かずきの作品を出版物で読み出している。まだ一作だけだが、小説形式の『髑髏城の七人』を読んだ。一応小説とうたってあるが、ト書きの多い脚本というのが似つかわしい。登場人物の動きがまさに万華鏡の絵模様だ。個々の人物がそれぞれの人生を歩んでいるというような文芸物の伝統的人物造形とはまるで無縁の手法を中島は選んでいる。おそらくそれが中島らしいスタイルなのだろう。かといって人間像がないわけではなく、それぞれがある種の個性を発揮していて、しっかりキャラ立ちしている。読者に休憩なく一気に読ませる吸引力に満ちていると思う。

 

ちなみにこの「小説」は中島自身が執筆した『髑髏城の七人』(1990年初演、「いのうえ歌舞伎 巻之四」)シリーズの延長線上にあると中島はいう。1997年に再演したあと2004年には同作の「アカドクロ版」および「アオドクロ版」を上演。この2作では歌舞伎界の若手市川染五郎をはじめ積極的に劇壇外から出演者を招いている。主要登場人物が入れ替わるたびにその役者を最大限に生かせるように人物像も場面も書き換えてきたそうだ。中島の柔軟な創造力には感服するしかない。中島は劇団の魅力を生み出す原動力の重要な要素のひとつなのだろう。

 

話を元にもどそう。従来「いのうえ歌舞伎」はいのうえ ひでのりによる演出、中島かずきが脚本という体制である。いのうえ・中島は強力なタッグを組んで名作を続々と産んできたらしい。 ところが『乱鶯』は外部から評判の高い演出家兼劇作家で「ペンギン プル ペイル パイルズ」という劇団を主宰する倉持裕が脚本を担当している。そのせいか『乱鶯』の作風はいつもの新感線とは違って普通の時代劇っぽいという意見をネットで見かけた。倉持裕は未知の作家なのでまず『バット男』(2003年、舞城王太郎・原作)を読む予定。このように『乱鶯』の場合脚本家は外部からの招聘だが、新感線の性格として脚本を忠実に再現することは考えられない。準備段階でいのうえや中島ばかりでなく劇団員の意見が反映され元の脚本から大きく変化していると推測できる。そうだとすると「普通の時代劇っぽい」という意見が暗示する新感線らしくないという『乱鶯』は実は新感線が新たな進化の段階に入ったことを証明しているのかもしれない。

 

新感線の舞台になじみがない私は今回の観劇をきっかけに今後上映される「ゲキ X シネ」を通して「いのうえ歌舞伎」シリーズに親しみたいと思っている。関西では4月後半に『髑髏城の七人 ーアカドクロ版』と『薔薇とサムライ』が上映される。その後も次々と新感線の舞台が映画として公開される予定だ。さらに6月下旬には「シネマ歌舞伎」で『アテルイ阿弖流為)』が封切られる。おかげで私には楽しみがふえた。

 

なくもがなの余談ながら、『乱鶯』は善も悪も登場人物を個別に全面規定するわけではないのかもしれない。善と悪の奇妙な混在。裏切りがあるようでないようで、いややっぱりあるかもしれない。一見一番悪人ぽい黒部源四郎が中途半端な悪人、小悪党でしかないこともありうる。一方、主人公鶯の十三郎を改心させて盗人稼業から足を洗わた劇中でもっとも好人物あるいは善の権化と思える(元?)幕府目付小橋貞右衛門もその善人ぶりと息子思いぶりがかえって怪しく思えてこないでもない。この善人が火縄の捨吉率いる強盗一味を裏で操っているのではかいかと勘ぐってみたい気がする。幕府目付といえば政治の中枢で司法部門に所属する以上正義を実践してしかるべきではある。あの長谷川平蔵(江戸の治安維持の最高責任者たる火付け盗賊改、長谷川宣以(はせがわ のぶため)みたいな役どころである。しかしこの人物を疑ったら、その愛息、盗賊一味に惨殺されてしまう脳天気でなんとも愛らしい人物こと御先手組組頭小橋勝之助の立つ瀬がなくなる。やっぱり小橋貞右衛門はあくまで正義の人かな。いや、怪しいかな?完璧なグレー・ゾーンだ。

 

それともう一人鶯の十三郎も疑れば疑れる。盗賊火縄の捨吉をうまく操って恩ある小橋貞右衛門の息子勝之助に一味を現行犯で捕縛させようと画策することになってはいる。だが、火縄の捨吉がその罠を察知して押し入り決行日を早める。結果狙われた店の(見習い女中をのぞく)全員、それに勝之助も殺されるはめになる。十三郎は捨吉から聞き出した決行日を捕縛の指揮をとるはずの勝之助に告げる。これはストーリー上当然の行為だ。それでも十三郎が怪しく思えるのは状況認識ができず口の軽い勝之助に対して口外無用とわざとらしく際立たせたセリフ回しでいうのがどうも解せない。案の定勝之助は人前でその日取りをばらしてしまう。十三郎はこういう展開を計算に入れているのじゃないか。でもそんなことして何の得になるのか。ひょっとして実はさきに触れたように小橋貞右衛門にもうかがえる「グレー・ゾーン」を印象づけるのがこの作品の眼目かもしれないと思ったりする。かくして疑問ばかりわいてきて話が落ちない。なので長過ぎる余談もこれで終了。