ある能公演からの連想 ー 見え隠れする物語の連鎖

片山定期能 7月15日(土)12:30~16:50 京都観世会

能「張良」武田邦弘  狂言「仏師」茂山良暢  能「松風 見留」片山九郎右衛門 (狂言の前後に片山伸吾、梅田邦久らによる仕舞が二曲)

 

10分の休憩2回を含む4時間あまりの公演。中身も濃かった。(上記演目では各演目お一人に留めたが、)シテ、ツレ、ワキをつとめた中堅、ベテラン演者、囃子方をはじめみなさん気合がこもった舞台だったと思う。

 

私の個人的嗜好にすぎないが、『松風』で囃子方を勤めた笛方藤田六郎兵衛と小鼓方大倉源次郎の大ファンゆえお二人の奏でる音色に聞き惚れてしまった。

 

「パリンプセスト」とは元々「長期間にわたって何度も重ね書きされた羊皮紙(parchment, vellum)のことをいう。西欧の場合、文字による記録ははるかな昔粘土板や石版、やがて紀元前2千5百年頃からパピルスと羊皮紙が使われだし、これが中世末期1千4百年半ばまで続く。ちなみに古代中国は紀元前150年にはすでに紙を製造する技術があったそうだ。その技術は日本に7世紀の時点ですでに輸入されていたといわれている。

 

記録媒体が乏しかった時代は様々な文書がたいていの場合不完全に消され、そこへ新しい文書が上書きされた。旧文書の削除とは羊皮紙の表層を削りとることである。新たな記録が必要となるたびにこういう削りとりが繰り返された。後日再利用と言う意図はなかっただろうが、記録の断片は残ってしまい特別な処理をしなくてもすかし読むことも可能である。

 

このような重ね書きされた古記録(パリンプセスト)が世間の注目を浴びるようになったのは20年ほど昔のこと、最新の電子工学などを利用した結果古代ギリシャの学者アルキメデスの未知の著作が発見された(The Archimedes Palimpsest)ことがきっかけだ。アルキメデスより後代(10世紀)の誰かがこの数編の論文を羊皮紙に書き写し、それを不完全ながら削りとって13世紀のキリスト教関係の文書が上書きされていたとのこと。この解読については次のサイトなどが役に立つかもしれない。 http://archimedespalimpsest.org/about/ http://www.slac.stanford.edu/gen/com/slac_project.html

 

しかし考えてみるとパリンプセストは考古学的領域に限らない。インターネットの技術が日々向上している現在、電子情報の記録はごく日常的に上書きされるが、羊皮紙場合と比べて本質的に変わらないだろう。古いデジタル記録は削除してもそれは形式上のことで完全に消去してわけではないらしい。専門知識に基づく特殊な方法なら削除したファイルなどを回収、復元できるそうだ。

 

前置きが長くなりすぎた。本題は能『松風』だった。ストーリは諸国を行脚する僧と亡霊との邂逅という定番だ。この曲では亡霊は須磨の浦に住む若い海女二人に身をやつしている。二人は松風、村雨という姉妹だとなのる。驚いたことにはこの娘たちはすでに亡霊となっていた。姉松風はその昔任地へ赴く途次この地に立ち寄った在原行平の寵愛を受ける。だがやがて行平は旅立ってゆき、二人は寂しく後に残される。その悲しみのあまり姉も姉思いの妹もともに狂い死んでしまったのだった。そういう事情を松風は夜を徹して旅僧に語りきかせ行平との辛い別れを偲びながら舞い続ける。須磨の浦に夜明けがくる前に二人の亡霊は冥界に去る。語り、舞うことで松風は現実的には一瞬の時間でしかないが、行平との逢瀬を成就できたのだろう。

 

8世紀に実在した貴族・歌人在原行平は『伊勢物語』のモテ男こと「昔男」のモデルだと信じられてきた在原業平の兄である。兄弟ともに平城天皇の第一皇子こと阿保(あぼ)親王を父にもつ兄弟が政治的事情を慮った父の配慮で臣籍降下している。弟業平はイケメン天才歌人として伝説化している。おそらくその連想からだろうが、かなり影の薄い兄行平も同様のイメージを被された伝説の人である。皇籍離脱したとはいえ高貴な血に変わりはなく宮廷政治の世界でもそこそこの出世を遂げている。この二人、特に弟は歌人として高い評価を得た。だがモテ男であったかどうか確たる証拠がない。あくまで別人の手になる和歌などを通してうかがえる当代や後世の評判というあやふやな資料をもとにそう判断されているにすぎないのだ。

 

噂が噂を呼び、根拠不明な噂がますます増殖する。そういう噂なるものを栄養源にして伝説が次々に製造される。わずか一つの噂でも無数の過去の噂に上書きが繰り返された結果の産物なのだ。いうまでもないが、上書きは古い噂の群を排除したものではなく、過去の諸々の噂が絶えず見え隠れしている。そういう噂を原材料にして紡がれる伝説もまた過去の伝説の上書きの結果生まれたものだ。こうして<在原業平・伝説>が形成され現在にまで伝わる。その亜種として誕生したのが<在原行平・伝説>。ここに一つのパリンプセストができあがる。

 

『松風』はもう一つパリンプセストが形成されている。それが純真な恋する乙女松風をめぐるパリンプセストである。愛しい行平との別れのあと彼女の心に行平との思い出が繰り返し去来する。その一つひとつが物語であり、彼女は心に刻んでは消し、刻んでは消す。成就することのない記録・記憶という行為は存命中果てしなく続く。別れの辛さに耐えかねて狂い死にして今は冥界の人となっても彼女の魂は生前と同様に刻んでは消すという行為を続けざるをえない。劇中では旅の僧のおかげで安らぎをえたようである。が、これが最終的な安らぎなのかどうか誰にもわからないかもしれない。再度人間に身をやつして宗教者に頼って救いを求めることにならないとは断言できないだろう。先に述べたパリンプセストと違って、こちらは生者、死者のどちらにも苦痛を強いるものではないか。願わくば、旅の僧との出会いでかなったこの一度の救いが決定的なものであってほしい。

 

最後に付け足しみたいだが、文芸批評用語としてのパリンプセストは19世紀の英国文芸作家Thomas De Quincey (1785-1859)に由来するといわれる。「人間の頭脳というパリンプセスト」というエッセーを書いており、その中で人間は一生を過ごすうちに繰り返しくりかえし思考を重ね、また様々な感情にかられる。そのすべてが必ずしも原形どおりかどうか定かではないものの心に刻み込まれるとド・クインシーは説く。そういう頭脳が典型的なパリンプセストだというのである。原文がネットで公開されている。 http://essays.quotidiana.org/dequincey/palimpsest_of_the_human_brain/

 

デジタル文化誕生の150年も前に亡くなったド・クインシーは人間の精神のありようとデジタル技術が産んだ世界のありようがかなり共通することを見通していたのかと驚かされる。

 

ここからは私の勝手な考えだが、最先端のテクノロジーは外見とは大いに異なり深く精神世界を掘り下げる文芸と緊密な接点をもつのではないか。テクノロジーと魂とは決して無縁ではないのではないか。だからこそ1995年、押井守監督の映画『The Ghost in the Shell /攻殻機動隊』がじわじわと多くの人を感動の輪の中に取り込んだのだ。魂ghostと機械shellとは共存できるし、その共存は一種の宗教性さえ帯びる。この映画(ならびにマンガ作家士郎正宗による原作)の影響力は25年近く経過した現在にも及び今年、2017年はじめにはアメリカで実写版実写版としてリメイクされ評判を読んだ。

 

この文章、今読み返してみると連想というより暴想あるいは暴走になってしまったみたいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(国際)人文系学会での発表のあり方

今年は6月と7月、アテネ、ロンドンで口頭発表させてもらった。自分のことは棚に上げての発言なのだが、毎度思うのは口頭発表といういわば演技の舞台であらかじめ用意した台本をそのまま読み上げる人が今も絶えない。話の内容が聞き手の関心事であるとないとにかかわらず、こういう朗読が15分から20分つづくのは退屈どころか苦痛になることもある。

 

発表内容は査読を経てオンライン誌などに掲載されるのだから、関心があればその時点でじっくり読める。口頭発表の場合、肝の部分を印象深く聴衆に訴えるという姿勢が必要なのではないか。スライドやパワーポイントは必ずしも必須ではないだろう。聴衆にとって未知の分野なら画像や動画は有効だろう。しかし視覚的資料は出せばいいものではなく論点を明確にする効果がなければ無意味だ。おまけに聴衆の興味をかきたてる工夫も欠かせない。

 

理系の知人から来た話だが、国内の学会で某長老が発表者にきびしいコメントを発したそうだ。朗読するだけなら聴衆に余計な手間をとらせず論文を配布すべしと皮肉を混めて批判されたらしい。分野を越えていずこも同じ問題をかかえているようだ。

 

わたしの限られた経験範囲内では一途に論文の朗読などせず専門外の聞き手にも興味をかきたてる方法で発表する人がときどきいる。今も記憶に強く残るのは10年近く前アメリカ中西部の都市シンシナティで開催された記号論学会でのスウェーデン人の発表だった。商品ブランドという概念を記号論的に分析したのだが、商業戦略に対する切り口が新鮮だった。発表後ご本人に話しかけ発表内容とスタイルがすばらしかったと意見を述べたら、普段から企業人相手のセミナーでしゃべり慣れているせいだろうと謙遜していた。

 

この方の発表スタイルに学べばいいのだが、そうおいそれとはできない。いまだに試行錯誤の最中だ。

 

学会での口頭発表のあり方についてはごくたまに台本朗読などもってのほかという意見を耳にする。

 

一方、日本人以上にハウ・ツウ指南(how-to tips and tricks)が好きなアメリカ人はネットに説得力がありしかも聞き手を引きつけるプレゼンに関する情報を溢れさせている。学術研究に限定しても口頭発表の要領しかり、卒論や修論はいうに及ばず博士論文の構想から執筆にいたるまで懇切丁寧かつまじめなオンライン版指南書が簡単に入手できる。実に便利だ。教育の現場でもそういう指南は実践されているだろうが、指導者による偏りは避けられない。そこで豊富な事例に基づいて客観化されたマニュアルが登場する必然性が生じるのだ。個別の大学が在籍者を対象にオンラインでこの手のマニュアルを公表している。ネット上の情報である以上誰でも利用可能だ。おそらく学外者、一般人に対する教育も意図されているにちがいない。どれを見ても的確なアドバイスがなされている。

 

ただし、こういう<ハウ・ツウ>志向・嗜好は学術・研究倫理の道を踏み外せば公式に認定されていない怪しげな自称「教育研究機関」なるものが有料で発行するインチキ学位diploma [degree] mill: a usually unregulated institution of higher education granting degrees with few or no academic requirements (引用元https://www.merriam-webster.com/) につながる恐れなしとしない。(機械文明が登場する以前、水車 (mill) は有益な動力機関だったのにニセ学位製造機と一緒くたにされて気の毒な気がする。)

 

その一例がかの有名な小保方事件だ。このトンデモ事件についてはしごくまっとうな批評がネット上にある。『社会科学者の随想』に「早稲田大学大学院の学位(博士号)の深化—小保方晴子問題の焦点—」(2014年7月21日づけhttp://blog.livedoor.jp/bbgmgt/)

 

話をもとにもどそう。そういう有益なアドバイスがあふれているにもかかわらず、わたしの知る範囲内ではアメリカ人研究者にも台本朗読が多い。なんでかな。台本朗読が常識みたいな状況なので人に尋ねてみたことはないが、みんな退屈しないのだろうか。

 

研究内容が最先端をゆくものだとか学術的に有意義だとかならいざしらず発表時間内に納まるようにむりやり短縮した原稿の朗読は大抵の場合聞きづらい。5分以内に読み切れる上質のレジュメでも配布してくれといいたくなる。

 

なんだかダラダラと中途半端な工夫しかできずにいるおのれに対する自戒をこめて書き記してしまった。

シネマ歌舞伎『東海道中膝栗毛』--- コピーはオリジナルに劣るか

2017年6月上映(6月14日、神戸国際松竹)

 

昨年8月の舞台は見ず仕舞ながら映画版は大いに楽しめた。(恥ずかしながら原作は原文、現代語訳ともに未読だったので岩波文庫で今読み始めたところ。)

 

市川猿之助市川染五郎の共演はさすがこれからの歌舞伎を牽引する主導力だけあって上出来の舞台を生み出して当然だ。終映後の観客の反応(大阪ステーションシネマ)は無言の感動とでもいおうか。その感動がじわじわと伝わってきた。猿之助染五郎の主演作。ふたりとも芸達者、創造性豊か、それゆえ若い観客層に人気がある。たしかにお笑いネタを満載し過ぎてテンコ盛り状態ではあった。(あの渡邊守章教授がいり京都造形芸術大学杉原邦生が構成担当、戸部和久と猿之助が脚本(協同脚本ということかな?)。演出は猿之助。<猿之助>カラーが濃厚というべきか。

 

ちなみに杉原邦生(1982年生まれ)は昨年12月ポール・クローデル作『繻子の靴』を自ら翻訳演出し8時間あまりにおよぶ一挙上演を敢行したかの渡邊守章教授(1933年生まれ)が教鞭をとる京都造形芸術大学の卒業生。現在は演出家・舞台美術家、劇団KUNIO主宰者として活躍中。同窓で親交のある木ノ下裕一(1985年生まれ)は「木ノ下歌舞伎」の座長で渡邊教授の信頼厚く、『繻子の靴』で演出助手を勤めた人。

 

シネ歌舞伎で見る『東海道中膝栗毛』は娯楽作品として快作だ。しかし問題は上映時間が通常の勤務についている人には不便な時間帯だという点。(こんなすばらしい芸術作品を配給してくれている)松竹さんが営利を最優先するのはもっともだが、もう少し観客の事情にも配慮してもらいたい。(同様のことはメトロポリタン・オペラ映画版にもいえる。)

 

さて元ネタである十返舎一九の作品が秘める創造的エネルギーのすさまじさはいうまでもないが、その旨味を現代の感覚で引き出す若手芸術家たちも賞賛にあたいする。『東海道中膝栗毛』が若者に与えてきた影響力は無視できないだろう。過去40年ほどの人気はマンガ化からはじまった。1980年代は市東亮子・作『やじきた学園道中記』が女子高校生をコンビにした。ついで1990年代にはしりあがり寿のマンガが評判に。しりあがり寿の場合、2005年に映画化される。脚本・監督が宮藤官九郎弥次喜多コンビを長瀬智也中村七之助なので人気を読んで当然だ。さらにその2年後、今度はマンガを元にしていないが、手練の役者、故・十八代目中村勘三郎柄本明による異種格闘技もどきのわくわくさせる芝居。このふたりが弥次喜多コンビを結成すればおもしろくないわけがない。監督が平山秀幸監督で、この人はのちに岡田准一・主演『エヴェレストー神々の山嶺(いただき)』(2016年、夢枕獏・原作)でそこそこのヒット作を撮っている。私見だが、この2本の「弥次喜多」映画版は上出来の娯楽作品であるばかりでなく社会批評としても悪くはなかった。このように(おそらくいつの時代も)若者はその鋭い洞察力と新鮮な芸術的感性で他の世代も感動させる創造力を発揮するようだ。

 

では元の舞台版がどう評価されているのか気になって(お手軽すぎるかもしれないが、)ネット検索してみた。するとベテラン演劇批評家渡辺保氏に行き当たった(http://watanabetamotu.la.coocan.jp/REVIEW/BACK%20NO/2016.8-2.htm)。表題が「惜しい弥次喜多」なので今後の猿之助染五郎による新たな共演を期待しながらも辛口気味にならざるをえないのだろう。いわく、

「最初の歌舞伎座の劇中劇『吉野山』に弥次喜多が黒衣の後見で絡んで大失敗になるのは、かつての『雲の上団五郎一座』、つづく追っかけは野田秀樹の『研辰』、お化け屋敷から絶壁の上の小屋はこれもかっての喜劇の焼き直しで、むろん焼き直しでも面白ければいいのだが、その焼き直し方がもとの面白さを十分に理解していない。たとえば団五郎一座は後見がはじめから素人の弥次喜多だとわかっていなければ滑稽さが効かず失敗も生きない。あるいはお化け屋敷はちっともこわくないし、崖の上の小屋は一度傾くだけの上に、二人の動きがその傾斜につれておかしくない。これは何度も小屋が二人の動きで傾けたり戻ったりするから面白いのだろう。二人の芸で笑わせる見せ場がないのだ」。

 

オリジナルとコピーの差異を前提にしたこの論理はよくわかる。正論だ。わたしもどちらかというと旧世代だからだが。そうことわったうえで反論。けれども、ここでいう「おもしろさ」っていわゆる「本歌取り」のルールに則らないといけないのだろうか。古歌という元ネタが背景として生きていないとダメなのか。単なる模倣や気の抜けたパロディでしかないのか。わたし自身の矛盾をさておいていうと、新世代にとってオリジナルとコピーの分断は必ずしも有効ではないにちがいない。かつてボードリヤールが投げかけた真贋二元論に対する疑問をもちだすまでもない。

 

わたし個人のシネ歌舞伎の体験やネットに溢れるコメントをもとにすると若い観客層は本歌取りを意識せずに結構楽しんでいるように思える。かれらは1960年代の映画・TV番組「雲の上団五郎一座」を知るよしもない。2001年に上演された『野田版・研辰の討たれ』でさえ知らない人もいるにちがいない。以前中高年が中心だった歌舞伎ファン層に最近若い世代が加わるようになってきた現在、本歌取りを意識しろとはいえない。実際意識せずとも楽しめる。

 

また劇評にある「追っかけ」は映画用語の「ロード・ムービーroad movie」にも重なる。いやそれ以前に古代ギリシアの文学作品、ホメロス作と伝えられる『オデュッセイア』だって、歌舞伎、浄瑠璃の「道行き」だってロード・ムービーの精神に通じる追っかけだ。いかに野田秀樹が天才だといってもかれの純然たる独創ではない。野田は人類の文化遺産をふまえてみごとに独自の創造をやってのけたのである。

 

新作歌舞伎版「弥次喜多道中記」はやはりおもしろい。ただ、猿之助染五郎の新しい歌舞伎を創りたいという思いが先走ってかお笑いネタを満載し過ぎてテンコ盛りに終わってしまったところが惜しい。今回とは異なる弥次喜多道中のエピソードを組合わせる今後の改作、改訂を期待したい。

 

ついでながら、いうまでもなく本稿でいう意識的あるいは無意識的コピーはたとえば佐野研一郎がおこした「五輪ロゴ事件」や小保方事件など悪名高い贋作の事例とは一線を画すべきものだ。小浜逸郎の弁を借りると「明らかな盗用でないかぎり、著作権侵害をあまりに言い立てるのは慎みたい。制作物は過去の作品の模倣と継承によってしか成り立たないからである。人が真似してくれるのは自分の作品が優れているからだという余裕の心も必要である。ただし金銭的利害が絡む法的な問題は、これとは別であるが」(http://blogos.com/article/138296」)。

 

追記

あくまで個人的意見だが、並の人道主義的演出はご免こうむりたい。その意味で猿之助を中心に若い歌舞伎役者と外部の俳優が共演した『ワンピース』は猿之助たちの心意気は買うものの若干不満が残る。『東海道中膝栗毛』の場合、たとえばふたり連れの盲人(座頭)がふたりとも足を濡らすことはないとジャンケンで負けた方が相棒を背負って川を渡ろうとするシーン(場所は現在の静岡県掛川市内、江戸時代は塩井川とよばれた逆川)。座頭の弱みにつけこんで人に背負われてまんまと川を渡るはずの弥次喜多だったが、インチキがばれて結局ふたりとも川の中。「(気づいて座頭に川に振り落とされた北八)てあしをもがきながれるゆえ、弥次郎とびこみ引上れば、あたまからほねまで、くさるほどぬれ」てしまう(岩波文庫東海道中膝栗毛』上巻、三編ー下)。

 

この川渡りは内田保廣氏のブログによると、  

狂言『どぶかっちり』をはめ込んだ趣向として大変有名なシーンだが、狂言では弥次喜多に相当する「通りの者」が二人の盲人をだまして川も渡るし酒も飲む。その上報いを受けることも無く、だまされた盲人同士が争って終わる設定である。弥次喜多の場合には、どちらの場合でも報いを受けている。狂言よりは倫理性が高くなっているのである。」http://uchidayasu.cocolog-nifty.com/yulog/2006/09/post_a7f1.html

 

ここは人間の本性の一面をさらけ出す元の狂言を生かしてほしいところだ。相手の目が見えないことをいいことにずる賢く他人を利用する喜多八にこんなセリフをいわせてはどうかな。「近頃巷にはやるもの、うすっぺらな社会的公正とかポリコレ(ポリティカル・コレクトニス)。社会的公正、社会正義をまるでこわれものか箱入り娘扱いの昨今。なんでもかんでも善人ぶるのがはやるけど、人を出し抜くのもおもしろいぜ」とかなんとか小悪人を演じる皮肉もあっていい。

多様な形態をもつ物語(俊徳丸伝説)の宇宙、その一端を辰巳萬次郎の舞台にかいま見た

平成29年南都春日・興福寺古儀 薪能

(第二日 2017年5月20日)

11時~ 春日大社若宮社  

御社上がりの儀     

能『花月』金春穂高

17時半~ 興福寺 南大門跡・般若之芝     

南大門の儀     

能『杜若』シテ・観世喜之、ワキ・小林努     

狂言『附子』茂山千三郎、丸山やすし、網谷正美     

能『弱法師』シテ・辰巳満次郎、ワキ・原 大(はら まさる)

5月19、20日二日間の演目詳細は次のサイトなどで。 http://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/noh/eventinfo/cat482/

 

 今回観劇したのは興福寺での薪能公演のみ。興福寺薪能は初体験だったが、総じて見応えがあった。とりわけ最後の能『弱法師』がひときわ印象に残る。シテ方宝生流能楽師辰巳萬次郎(1959年生まれ)は年齢的にまだまだ体力が充実しているためだと思うが、周囲から弱法師とよばれるように見るからにはかなげな盲目の乞食を演じて見事だった。役者の生身の身体と舞台で演じる人物の身体とは別物だ。病んだ身体で病者は演じることはできない。

 体力旺盛と弱々しい劇中人物とは一見矛盾しそうだが、実はそうともかぎらない。むしろ演技は心身の強靭さが求められる場合が多い。身体を自在に操ることが役者にとって必須のことのように思える。(とはいえ演技の名人の場合、老いが皮相な意図から生じる心身のこわばりをなくす効果が期待できそうな気もするのだが。)

 裕福な家の父と子。父は悪意ある人にそそのかされて子を追い出す。子は盲いとなって諸国を流浪するが、長い年月ののち父と子は再会し和解する。物語は古い言い伝え、河内の国高安(現在の大阪府八尾市を含む地域)を舞台にした「俊徳丸伝説」に拠ることはご承知のとおり。元の伝説では子(俊徳丸)が継母の呪いを受けて失明し物乞いとしてさまようが、能の『弱法師』は父が子を放逐する。物語という面では世界各地の神話、伝説、民話などに多く見られる「貴種流離譚」の典型だ。英雄や貴公子などのように高貴な血筋に生まれ将来偉大な功績をあげる人物は(多くの場合若年時に)艱難辛苦に耐えるという経験を求められるという。たしかに悪人でない限り人が試練に耐える姿は同情をよぶ。こういう展開は民間に流布する昔話などではおなじみだ。

 他方、能(謡曲)では少しちがうようだ。私見に過ぎないが、観客は苦労に苦労を重ねる登場人物に対して憐憫の情を覚えるのではなく、耐え忍ぶ姿を精神というか魂の錬磨だと直感的に感じとるのではないだろうか。『弱法師』の主人公は能で多く見られるような死後も地獄の苦しみを味わう死者が旅の僧の手助けによって魂の救済をえるのとは事情がことなるような気がする。主人公が体現する魂の錬磨が観客の心を、魂を浄化する。観客はいわばカタルシスへと誘われるのだと思える。別離ののちに訪れる再会と和解は物語の締めくくりであってその本編ではない。別離と彷徨こそが本編なのではないか。この点で『弱法師』はいわゆる貴種流離譚に分類される作品群の中で「典型」ではなくむしろ特異だと思える。

 遥か昔、親と子の葛藤が集合的無意識として社会的に共有される。その集合的無意識がいわば目に見える形をとって噂として世間に広まっていった。こうしてできあがった荒削りな物語のひとつが俊徳丸伝説ではないだろうか。

 親子間の葛藤がいつの頃か、おそらく室町時代はじめ(14世紀なかば)総称的に俊徳丸伝説とよばれるようになったらしい。この伝説を世阿弥の長男、観世元雅(15世紀前半の猿楽師)が能形式に仕上げたといわれる。

 一方、語り物芸能に携わる人たちによって説経節『しんとく丸(信徳丸)』にまとめられ世間の評判をよぶ。その変形ともいえる説経節『愛護若』も人気を博した。

 さらにこれが芸術的に洗練されて17世紀以降人形浄瑠璃や歌舞伎では『摂州合邦辻』とよばれる。

 おもしろいことに「俊徳丸伝説」は古典芸能の世界に閉じ込められはしなかった。詩人・劇作家・劇団(「演劇実験室・天井桟敷」)主催者として1960年代なかばから若者世代に絶大な人気を誇った寺山修司が自ら伝説化した自身の母子関係を投影する形でこの伝説を20世紀後半によみがえらせたのだ。このいわゆるアングラ劇の表題は『身毒丸』(1978年初演)だが、その漢字表記が劇中に描かれる母子関係の性的なニュアンスをほのめかす。(ちなみに寺山より先に折口信夫がこの伝説を近代小説可した『身毒丸』(1918年)を書いている。)

 寺山版「俊徳丸伝説」に刺激された鬼才の演出家、故・蜷川幸雄が1995年から2011年にかけてアメリカ公演1回をふくめ6回の上演を達成した。さらに2015年寺山劇団の精神をを継承する「演劇実験室◎万有引力」(J・A・シーザー主宰)が寺山版に大幅な改定を施したうえで上演。

 現在上演される『弱法師』は時代の変化に応じて変化、発展する「俊徳丸伝説」という大きな物語宇宙の中に位置づけられる。今回の能楽師辰巳萬次郎版「俊徳丸伝説」は辰巳萬次郎による凛とした人物造型という点で注目に値するものとして記憶されてしかるべきだろう。

 余計なことかもしれないが、ネット上には<満次郎★ガールズ>と称する熱心なファンが存在することを知って驚いた。

 いやいや先日、5月22日奈良県桜井市郊外、多武峰(とうのみね)にある談山(たんざん)神社で実際に目にしたのである。ただしこちらは<(小鼓方)大倉源次郎♦女子応援団>。熱気がムンムンしていた!「多武峰 談山能」の詳細は hayashi-soichiro.jp/schedule/434.html 。

 女子に負けじと男子も応援隊結成しなくては。<(大鼓方)山本哲也♠ボーイズ>、<(笛方)藤田六郎兵衛(ふじた ろくろびょうえ)♣ボーイズ>を立ち上げたい。

 

 

 

2017年5月姫路城薪能 狂言『察化』、その題名の由来にこだわって

 「察化」ということばは初めて耳にしたせいか、気になって仕方がない。今回の上演はおそらく主に大蔵流が使う台本に従ったのだろうと思う。『日本古典文学大系42 狂言集 上』(小山弘志 校注、岩波書店、1960年、331-341頁)に収録されているのと同じもののようだ。太郎冠者が「伯父御」として連れてきた人物を一目見てニセモノと見抜いた主が家来にその事実を明かす。「あれは 都に隠れもない、みごいの察化というて、大のすっぱ[詐欺師]じゃ」と。校注者によると「みごい」ならびに「さっか」という語の意味は未詳だが、天理図書館が所蔵する『狂言六義』(17世紀中頃)など和泉流に伝わる台本集や『狂言記』(17世紀中頃出版の台本集)にはほぼ同文でつぎのようにあるとのこと。「みごいというのは、人のものを見て、乞うても取るような者じゃによって、見ごいという。さっくわというは、盗人の異名じゃ」(天理本)。なるほど。

 さて、察化に関連して気になっていたのは30年前の松田修氏の発言だ。朝倉喬司が聞き手となったインタビュー記事「狂言にみるサンカの原像」は『マージナル』2号、現代書館、1988年で初出。のちに『松田修 著作集』第8巻(右文書院、2003年)ならびに「KAWADE道の手帳」シリーズ『サンカ 幻の漂白民を探して』(河出書房新社、2005年、162-173頁)に採録されている。朝倉喬司(1943—2010年)は犯罪を含む社会の裏面に鋭い視線を投じたジャーナリストとして活躍した。他方、松田修(1927-2004年)は近世国文学を中心に文化的、政治的、性的異端をテーマに斬新な批評を展開した。両者ともに体制破壊者、制外者に強い関心を示し、新鮮で兆発的な批評の視座を切り開いた。てなことは私的すぎるのでここで中止。

 で、話を察化にもどそう。くだんのインタビュー記事ではさっか(察化)と山地回遊集団といわれる「サンカ」とのかかわりがほんの少し話題になっただけでスルーされてしまった。ただひとつサンカという表現のルーツを中世の制外者集団であった坂者(京都の清水坂や大和と山城を結ぶ交通路であった奈良坂に群れ住んだ貧窮流浪民集団に代表される存在)にたどっているのが興味深い。とにかく話が進展しなかったのも「サンカ」とよばれる集団が学問的にはいまだに未詳なので当然かもしれない。おっと、また薮深い横道に入りそうだ。ここではサンカよりもあくまでサッカ。

 松田氏いわく、「古く固有名詞的に使われている漢字はあてにならぬあて字で、地名や人名でもわれわれはいつもだまされているわけですね。このサッカにしても、大蔵流は察化ですが、和泉流の本では殺すという字に喧嘩の嘩。殺嘩なんです」(『サンカ 幻の漂白民を探して』163頁)。

 「殺嘩」という漢字表記は中世の(金目のものをもっていると目をつけた相手には喧あるいは嘩(かまびす)しくわめいて威嚇し、ときには暴力をふるってでも見乞(見請・みごい)する、すなわち実質的には強奪するペテン師にはぴったりな気がする。わたしの直感はあたっていた。「さっか」ってあまりひびきがよくない感じがしたのだから。

 和泉流では「察化」のかわりに「殺嘩」という題名を使っていたという指摘を手がかりにネット検索すると、

<引用:昭和38(1963)年 zeami.ci.sugiyama-u.ac.jp/~izuka/erito1/kyo/s38.pdf 四月から和泉流野村万蔵氏が渡米され. る由、 日本文化の海外宣伝に貢就 .... 身請咲嘩け逢った頸もない頼うだ人の. 叔父を迎えに出された太郎冠者、 ま. んまと欺されて叔父に化けた身請の. 殺嘩と云うス ッパ を連れて帰る。 身. の盗人は人の目をしのうで ... 

 ここには名古屋狂言共同社発行の月刊『狂言』1963年1月号から2年分の紙面が掲載されている。『狂言』昭和38年4月号に「身請殺嘩についての考察」と題して佐藤秀雄氏が寄稿されている。多分戦後になってからだろうが、殺嘩では物騒な表記であることを慮ってもう一方の表記である咲嘩に統一されるようになったのだろう。「和泉流では『身請殺嘩』又は『身請咲嘩』という此狂言大蔵流では『察化』と云う。身請は身乞ともかき(中略)。大蔵流では身乞の察化とあり別に説明はないが、」に続けて佐藤氏がひとつ気になることを指摘している。「大蔵虎光著の狂言不審議には身乞とはなく似鯉とあり、似鯉についての文献を書き記して(後略)」。

 そこで『狂言不審議』なる書物をネットで探すが、見当たらない。しばらくしてこれは『狂言不審紙(きょうげん ふしんがみ)』らしいと気づく。

 

<引用:「狂言不審紙」 狂言の注釈書。大蔵流八右衛門派7世大蔵虎光著。春夏秋冬の4冊から成る。文政6 (1823) 年の序,同 10年の跋がある。狂言 167番の難解な語句について解説し,作者,演奏の時間などを書きとめたもの。「春」の巻に,狂言の句伝,狂言によく使われる詞や装束,道具などを説明し,狂言1番ずつを注解して 24番,「夏」に 47番,「秋」に 59番,「冬」に 37番を掲げる。 https://kotobank.jp/word/狂言不審紙-52591>

 さいわいなことにこの本は一冊丸々国会図書館のデジタルコレクションで無料公開されている。

<引用:国立国会図書館デジタルコレクション – 狂言不審紙(きょうげん ふしんがみ) dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1125595 書誌情報. 詳細レコード表示にする. 永続的識別子: info:ndljp/pid/1125595; タイトル: 狂言不審紙; 著者:大蔵虎光 著[他]; 出版者: 改造社; 出版年月日: 昭和18; シリーズ名: 改造文庫 ; 第2部 第514篇; 請求記号: 773.9-O57ウ; 書誌ID(NDL-OPACへのリンク) …>

 『察化』に関する記述は165-166頁(デジタル・コレクションで閲覧する場合は84-85コマ目を選ぶ)。

「平野何某伝来之書に、にこひのさつくわと云は、鯉の内に似鯉と言て鯉と見えぬよりて鯉有、是を似鯉と言なり。」(パソコン打ち込みの都合で旧漢字を現代表記に改めた。)

このあと鯉似関する講釈がひとしきり続き、

「按(ここ)に、此狂言のにこひのさつくわと言は、紛敷者故ににこひと言し事にや。さつくわとも言も其時の式に応し、いろいろの者に成て人をたらす成べし。(下線は筆者)。)

  「鯉似」説は身請あるいは身乞というあて字の講釈に比べてかなり強引だ。しかし恥ずかしい話だが、わたしは「みごい」と聞いたとき「真鯉」、「緋鯉」を連想した覚えがあるので無茶な話だとはいいにくい。『狂言不審紙』では長々と専門家もどきの鯉論議を聞かせて根拠づけようとしているところがかわいらしいし、耳を傾けてあげようという気にさせられもする。

 結局「みごい」も「にごい」もどんな漢字を宛てようと自由なのだと思える。的外れでない方向に想像力がかき立てられるなら、それでよしとしたい。

 この『狂言』という月刊紙は途絶えたようだが、狂言共同社は今も名古屋を本拠にして狂言の普及に尽力しているようだ。

<引用:狂言共同社 - 和泉流 山脇派 - www.kyogen.co.jp/ 名古屋を本拠地としながら全国の能舞台で活動する和泉流山脇派の狂言共同社のホームページです。公演案内や演者紹介をはじめ、和泉流狂言の歴史や出張公演の案内等をご紹介しています。>

 ちなみに佐藤秀雄(1912-1984年)氏は名古屋の裕福な文具問屋の次男として生まれ、お店(おおだな)経営者の子弟のしつけと教養の修得を目的に(兄は謡曲)弟は狂言を習わされたそうだ。その結果ご本人はプロの狂言師となり、子や孫の代も同じ道を進んでおいでのようだ。http://www.kyogen.co.jp/member/past/3rd/000047.html

 最後になったが、この佐藤氏の文章にたどり着けたのは椙山女学園大学 飯塚恵理人(えりと)教授(中世国文学、とりわけ能楽)のおかげだ。飯塚氏は古典芸能に関する潤沢な情報を収集し、HPなどにアップしておまけにオープン・アクセスにしておいでだ。自ら古典芸能を愛で、さらにその楽しさを社会全体で共有できるように活動する飯塚氏には感謝に堪えない。

 ご本人が勤務先のサイトで紹介されている。

http://www.ci.sugiyama-u.ac.jp/staffs/166_staff_c.html

 ご本人が作成した公式HP(能、狂言を中心に古典芸能関係の音源が豊富にアーカイブされていて閲覧・聴取自由。 http://zeami.ci.sugiyama-u.ac.jp/~izuka/erito1/

2017年5月12日(金)第47回 姫路城薪能

 姫路薪能姫路城三の丸広場特設舞台で上演された(午後6時時-8時15分)。 当日夜8時から雨だという気象予報。でもまあお天気ばかりは運任せにするしかない。駅から会場に向かう途中道順をきこうとわたしが話しかけた人もおっしゃっていたが、過去にも雨に祟られたことが何度かあったそうだ。

 結局予報どうりに第三曲目「小鍛冶」が後少しで終わるというところで小雨が降り出す。去る4月8日篠山能(兵庫県)と似たような状況。 開演直前に到着。有料席にすわったものの、それでも舞台からかなり離れている。オペラグラスを用意すべきだった。大勢の来場者を見越して観客席の範囲がかなり大きい。

 当日の演目・主な出演者は、 (1)能楽「吉野天人」シテ方:上田拓司 ワキ方:江崎正左衛門 (2)狂言「察化」 茂山千作 (3)能楽「小鍛冶」 シテ方:杉浦豊彦 ワキ方:江崎欽次朗  

 出演者は今回初めて見せていただく方がやや多い。一方すでに舞台を何度か拝見してわたしの方で勝手に気に入っているのは茂山父子(千作、千五郎、茂)、山本哲也(大鼓)、大倉源次郎(小鼓)さんたちだ。

 「吉野天人」は桜を愛でにきた都人が人間の姿をした天女と出会う。人間界を彩る桜に魅された天女は正体を明かし、やがて日が暮れて再度あらわれ五節(ごせち)の舞(宮廷の儀式で舞われる舞の一種)を披露して天界に帰ってゆく。

 古来、吉野はカミの住まいする(吉野山から大峰山山上ヶ岳にいたる金峰山(きんぷせん)と総称される)聖域にふくまれる。そこでカミとヒトが遭遇しても不思議ではない。ヒトはカミを恐れるがその一方で歓待もする。「吉野天人」が描くのはまさにそういう意味合いをもつ両者の出会いだ。

 天界の住人をも感嘆させる桜を一種の贄(にえ)、カミに捧げる供物と考えることもできる。とすれば、桜が媒介するカミとヒトとの出会いはカミとヒトの宴、「神人共食」(「直会(なおらい)」)の場でもある。カミにお供えした物をヒトが食べ、その行為をカミとヒトがともに食事を楽しんだと解釈したい。

 2時間ばかりの薪能世知辛い日常を離れて心の癒しをえられる貴重な機会だ。21世紀の現代だから世知辛いわけではない。人世界は今も昔もちがわないはずだ。いつの世もそれなりのストレスがあり生きづらく感じることがある。600年前の日本人も能、狂言の舞台に救われていたのだろう。

 「小鍛冶」もカミとヒトの出会いがテーマだ。刀鍛冶三條小鍛冶宗近(さんじょうのこかじむねちか)はいかに職人としての技量にすぐれ高名であれ、ココ一番の勝負をする段になると不安から逃れられないようだ。やはりカミの助力が必要なのだ。とはいえ職人なら、いやヒトなら誰でもカミが手をかすかというとそうではない。人物と技術の両面ですぐれていることが大前提。

 後半部で(天皇から依頼された)刀剣を鍛える小鍛冶宗近とその相方(相鎚)を勤める狐の精霊(実は稲荷明神)とが軽やかなテンポで交互に刀を打つ。この場面が見どころの一つだそうだが、こういう現実ではありえないカミとヒトとの出会いを楽しんだ昔の人たちの想像力の豊かさに関心せざるをえない。当時の観客は社会の上層部ばかりでなく一般庶民もいたはずだ。読み書きさえできない人もいただろう。しかし人間社会は万人に見えない教育を施していたのだろうか。人間て、すごいの一語に尽きる。

 ちなみに劇中(茂山一門の)狂言師丸山やすしさんが名刀が生まれる事情を詳細に語る「アイ」役で登場。弁舌爽やかで聞いていて心地よかった。 今回の公演で印象に残ったことの一つは具体的な役者の演技だ。茂山千作とその子息お二人が演じた「察化」(和泉流は「咲嘩」と表記?)

http://style.nikkei.com/article/DGXDZO72576080R10C14A6BE0P01)。千作さんの剽軽ぶりに魅せられた。

 察化とは室町時代のことば(?)で詐欺師をさすそうだ。風流ごとに疎い田舎住まいの主が文芸の嗜みのある都住まいの叔父を連れてくるようにと太郎冠者に命じる。ところが主人はうっかり叔父の名前も住所も告げずに太郎冠者を送り出す。太郎冠者も同様にうっかり者で尋ねる相手の情報なしに慣れない都にやってくる。いい加減な人探しをする太郎冠者は生き馬の眼を抜くような都を泳ぎ回る察化(詐欺師)の餌食に。察化は相手の家に入り込んで金品を盗もうという魂胆らしい。しかし田舎者の主人はコトを荒げずに察化を追い返そうとするが、主人の言動を猿真似する太郎冠者のせいで主人ばかりか察化まで呆れさせてしまう。そんなこんなでコトは丸く納まってしまう。

 昨年秋長男の正邦さんに「千五郎」を襲名させたあと舞台には頻繁に出られるもののご隠居さんぽかった。だが、「察化」の主役である太郎冠者の演技は京都狂言の名門茂山千五郎家の実質的総帥であることを見せつけた。本人の生来の飄々とした人柄と長年の芸で鍛えた演技力があいまって「察化」の性格づけが完璧といっていいほどだった。他方襲名後1年足らずの現・千五郎さんはまだ未熟だ。察化の人のよさばかりが出るだけで詐欺師という面が感じられなかった。善悪の両面性を演じなくてだめだ。

 題名の「察化(咲嘩)」という語句は初めてきいた。ネットで調べてもこの狂言が発信源だとしかわからない。あちこち探しているうちに現代書館がかつて発行していた雑誌『マージナル』(marginal=周辺)第2号(1988年)に国文学者松田 修氏(1927-2004年)を対象にしたインタビュー記事「狂言にみるサンカの原像「察化」があるのを見つけた。「サンカ(山窩」とはかつて作家三角 寛(1903-1971年)が提唱した戸籍、住民登録などを一切拒否して山間を回遊する幻の集団をさす。しかし現在ではこの集団の存在は三角の小説的創作だとされている。ユニークな発想で知られた松田 修がどういう見解をもっていたのかしりたいので上記資料(『マージナル』2号)を読んでみるつもりでいる。(この資料は2005年、河出書房新社からKAWADE・道の手帳シリーズで『サンカ 幻の漂白民を探して』と題して再刊されている。)

 余談だが(人工照明と)かがり火に照らされた「小鍛冶」の舞台の真上を鷺とおぼしき野鳥が(お城周辺に住むらしいアオサギコサギかな?)舞台に向かって左から右方向に飛ぶ。城の(白すぎると批判もあるらしい)白壁に映えて趣があった。観客席からも控えめながらどよめきがあがったのもうなづける。    

 

 先月は狂言を2公演(和泉流・野村一門と大倉流・茂山一門)楽しんだ。だが能は先月はじめの篠山能以来久しぶりになる。役者もさることながら地謡囃子方の声音、楽の音の響きに接するのが待ち遠しかった。会場が名城の庭園で上演中に夜の帳がおりかがり火が燃えるという設定は舞台効果をいやましに高める。と期待していた。  

 たしかに屋内の能舞台では味わえない好ましい雰囲気を味わえた。それに当日の演目もわたしにとって初見であり期待が高まりキャスト陣のすぐれた芸のおかげで大いに楽しめた。これだけいい条件なら不満をもつなんてありえないはずだが、マイクを通してきくセリフや楽の音が本来の魅力をそいでいるように思えてしまったのが残念。  

 あれだけ広い会場なら音声を増幅しなくては公演がなりたたないのは理解できる。以前(まだ能に本気で関心をもてなかった頃)に見た彦根城薪能(舞台と観客席が中庭に接しているとはいえ一応屋内)とか大阪薪能大阪市天王寺区にある生國魂(いくたま)神社境内)はマイクなしだ。それが可能なのはどちらも観客席がかなり限定されていたからだろう。でも生の声・音と機械的に増幅したそれとは別物にしか思えないのもたしかだ。   

 

笛方 藤田六郎兵衛(ふじた ろくろびょうえ)は多面的なアーティスト

 今年(2017年4月8日)に催された「篠山春日能」については別記事で述べさせてもらった。本記事はその続きみたいなもの。

 藤田六郎兵衛さんの(わたしにとっては)意外な面貌について。これまで見たどの笛方も舞台では気難しそうな顔をされていた。藤田六郎兵衛さんも例外ではない。

 終演後地元を走るバスでJR篠山口駅に向かう。能公演の会場であった春日神社そばにバス停がある。だが、バスが来るまで20分あまりあったのでお土産でも買っった後次のバス停から乗ろうと考えた。

 バスに乗り込んでしばらくしてわたしのそばの座席に六郎兵衛さんがおいでではないか。ご自身のスケジュールが混んでいて急いで次の仕事先へむかうところだったかもしれない。そのときも気難しそうなお顔で、すばらしい演奏に対するお礼をひとこと述べたかったけれど気後れしてできなかった。

 先日藤田六郎兵衛さんのことでネット検索していてご本人のHP (http://fujitaryu-noh.jp/) 偶然発見。トップ・ページの右側にある「フォトギャラリー」 をクリックするとご本人が出演した動画を見れる。

 この一連の動画を見て驚いた。御本職の能管演奏ばかりではないのだ。かつてはミュージカルに出演されたり、洋楽とのコラボ、講演などさまざま。多才なお方だ。歌唱の動画もある。おしゃべりしているときの六郎兵衛さんを見ると実は大変人懐っこい御仁だとわかる。

 ちなみに六郎兵衛さんにふれた(2009年1月9日付けの)ブログ (http://pinhukuro.exblog.jp/9379476/) もおもしろい。「三流の笛方は超一流だった あぜくらの集い・「新春『笛』の音楽会」(国立能楽堂)」。